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企業戦略 2021.09.24

CS 34 プロパガンダ(本間 雅晴 陸軍中将)Propaganda (Masaharu Homma, Lieutenant General)

For those who prefer to read this column in English, the Japanese text is followed by a British English translation, so please scroll down to the bottom of the Japanese text.

「勝者の裁き」とは、「紛争・戦争等の事後処理の際、『敗者の行為を勝者が訴追することを指す表現』」であり、「敗者に対しては過剰、もしくは不当とも思える処罰をおこなう一方で、勝者が犯した罪に対しては軽い処罰もしくは罰することもしないこと」を意味する。

第二次世界大戦終結後、枢軸国ドイツに対して、連合国によってその戦争犯罪を裁く国際軍事裁判、通称「ニュルンベルク裁判」が「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)」の党大会開催地であったドイツ、ニュルンベルクで開かれた。また、「大日本帝国」の指導者達に対しても、「極東国際軍事裁判」、通称「東京裁判」が開かれたが、「勝者の裁き―戦争裁判・戦争責任とは何か (1972年) リチャード・H・マイニア (著), 安藤 仁介 (翻訳)、福村出版(刊)」によると、1971年に出版された原著の筆者、米国の歴者学者、日本学者「リチャード・H・マイニア」は、「極東国際軍事裁判(東京裁判)」に対して「Victors’ justice」(勝者の裁き)と同書で評した。

事実、「敗戦国が犯した罪と同様、同等のこと」を犯していても、「ニュルンベルク裁判」および関連裁判である「ダッハウ裁判」において起訴された「戦争犯罪人」は「敗戦国の国民と協力者のみ」であり、「戦勝国の連合軍による戦争犯罪は一切起訴されなかった」のである。

その最たるものが、ソ連の「戦争犯罪」である。ドイツ人の被告達はポーランド侵攻という「侵略戦争を犯した罪及びポーランド侵略戦争の共同謀議」が「訴因」であったが、ナチスと共謀してソ連は1939年9月ポーランドに侵攻したにもかかわらず、誰一人ソ連からは起訴されなかったからである。

1.パール判事

東京裁判に連合国が派遣した判事の一人、「ラダ・ビノード・パール判事」は、「全員一致の有罪判決を目指す動き」に反対した。理由は、裁判の根拠となっている「平和に対する罪と人道に対する罪」は、「戦勝国によって作られた『事後法』」であり、これをもって裁くことは国際法に反するからである。

「被告人全員を無罪とすべき」とした「パール判決書」で知られるが、同氏は、「極東国際軍事裁判(東京裁判)は歴史の偽造」と評した。また、「ひと目でわかる『アジア解放』時代の日本精神」(水間 政憲 (著) PHP研究所(刊))によると、「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」であり、「米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一の重大な戦争犯罪」と断じ、「最初の原子爆弾の実験台として、決して彼ら(米英)は、白人国を選ぶようなことはしなかったであろう」とさえ述べたのである。

パール判事の顕彰碑が京都に建てられた際、当時のインド大統領は、次のメッセージを寄せた。

博士の有名な反対判決は、勝者側の偏狭なナショナリズムと政治的復讐とを退け、それよりも平和そして国家間の和解と親善のために努力すべきことを説いた、感銘深い呼びかけでありました。

博士はまた、そのように行動されたことにより、インドと日本との友好と理解のシンボルとなったのであります。 

                      コチェリル・ラーマン・ナラヤン(インド・大統領)1997年10月16日

2.岡田 資 陸軍中将

昨年、2020年8月15日本コラムに投稿した「CS13 『ながい旅』(岡田 資 陸軍中将)」のなかで、終戦直前、名古屋の東海軍管区司令官であった岡田資中将が、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭乗員27名を自らの命令(旧陸軍内での法的根拠の下)で処刑したことで、戦後、国際法違反(捕虜虐待罪)に問われ、B級戦犯として連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に逮捕され、軍事裁判(横浜法廷)で死刑判決を受けたが、その裁判の核心部分を次のように記した。

「単に命令に従っただけ」と主張する検事に対して「ビラ撒きは最初のB29の爆撃と同時に始まっていた。だれがビラを刷ったか、問題ではない。その絵に描かれていることが、人道に反するのを自覚していたかどうかということである。そして事実、その行為を犯した。問題は爆撃を実行したということだ。搭乗員も無差別爆撃の残虐性、非人道性を自覚しながら、実行したのなら、『単に命令に従っただけだから無罪』とは言えなくなる」と、あたかも被告と原告の立場が逆転したような論戦となった。

「人道に反するのを自覚していたかどうかということである」という言葉が裁判の出廷者、傍聴者、弁護士、さらには裁判官、検事さえも、彼ら全員の胸を打った。広島、長崎に原子爆弾を投下、数十万人の非戦闘員を虐殺した、畑仕事をしている非戦闘員、登下校する子供達にも機銃掃射を浴びせ殺戮を繰り返したその残虐性、これらが裁かれない裁判など「裁判」ではない、まさに「勝者の裁き=裁判の名前を借りた復讐」と、彼ら関係者の多くが思ったからである。

従容として刑に臨んだ岡田 資 陸軍中将と同じく、そんな「勝者の裁き」を受けて刑に臨んだ一人に「本間 雅晴 陸軍中将」がいた。

3.本間 雅晴 陸軍中将

「いっさい夢にござ候 – 本間雅晴中将伝 」(角田 房子 (著)、 中公文庫(刊))によると、本間中将は、1887年(明治20年)新潟県佐渡で生まれ、1907年(明治40年)陸軍士官学校を卒業後、1915年(大正4年)陸軍大学校を卒業。1918年(大正7年)には、前述の岡田中将と同様「英国大使館付武官補佐官」として3年間英国に駐在。更に、1930年(昭和5年)「英国大使館附武官」として再度2年間の英国赴任。1938年(昭和13年)陸軍中将に昇進、1941年(昭和16年)フィリピン駐在の「第14軍司令官」として赴任した。「温厚な性格」と言われ、また英国に友人知人も多く、そういう交友関係で培った英語力から「陸軍きっての英語の使い手」と言われていた。

第14軍司令官としてフィリピン攻略戦を指揮、マニラの占領に早期に成功、マニラ進駐時には「人道的な進駐の徹底」を部下に言明、「違反者は厳罰に処する」との訓示をおこなったほど、「進駐軍としては『武士道をもって臨むこと』」を全員に徹底、命令した。

4.ダグラス・マッカーサー

日米両軍の最後の決戦地となったのがマニラ郊外の「バターン半島」であった。日本軍は、大部隊の増援を受け、バターン半島、コレヒドール島を陥落させ、最終的にフィリピンの戦局を終結させた。一方、フィリピンの米軍側の総司令官であった「ダグラス・マッカーサー」は追い詰められ捕虜になりかねない状況にまで追い込まれたが、米陸軍省は、「総司令官が捕虜になるようなことになれば米国民の士気に影響する」として、「マッカーサー総司令官」と「フィリピンのケソン”大統領”」にオーストラリアへの「脱出」を容認、今般のアフガニスタン大統領のように、「トップが部下を置き去りにして家族と一緒にオーストラリアへ逃げた」のである。

マッカーサーは、1930年フーバー大統領の推挙で、米国陸軍史上最年少の50歳で参謀総長に任命された。当時少将であったマッカーサーは、「職務妥当な階級へ」ということで、一足飛びに「陸軍大将」となった。1933年副官として、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが付き、以降マッカーサーがフィリピンからオーストラリアへ退避するまで二人の関係は続いた。1935年、5年の任期を終え、参謀総長を退任するや元の「少将の階級」に戻り、「現場の将軍の一人」として、フィリピン軍の軍事顧問に就任する命令を受け赴任した。

当時、フィリピンは米国の植民地であったが、日独伊と戦うために「1946年に独立させることを決定した」状況下でフィリピンには自らの軍隊が必要であり、その整備が彼の使命であった。初代大統領に推されていたフィリピンのケソン・シティに名前を残す「ケソン」とは、「マッカーサーが1922年より複数回在フィリピン米陸軍司令官として駐在していた頃からの友人」であったため、ケソンはマッカーサーをその候補者に選び、マッカーサーに対して当時としては「破格の給与」を提示、様々な経費に加え、さらにマニラの最高級ホテルのスイート・ルームの滞在費、また「書類には残さない報酬」という条件で軍事顧問の就任を依頼、マッカーサーは受諾した。

また、マッカーサーは、個人としても米国企業のフィリピン事業に投資を行い、多額の利益を得ていた。「老兵は死なず ダグラス・マッカーサーの生涯」(ジェフリー・ペレット (著), 鳥影社(刊)林 義勝 (翻訳), 寺澤 由紀子 (翻訳), 金澤 宏明 (翻訳), 武井 望 (翻訳), 藤田 怜史 (翻訳))によると、日本軍に追われフィリピンを出国する際には、軍事顧問就任時に約束した「書類には残さない報酬」の支払いをケソンに要求して、マッカーサーには50万ドル、副官らに合わせて14万ドル支払われた。1941年の1ドルの価値は、「1ドル=約4,000円」程度であり、50万ドルは現在の円貨では、20億円という巨額の報酬であった。

後日談となるが、ケソンはワシントンに向かった際、マッカーサーの副官であった「アイゼンハワー」と再会、マッカーサーらに大金を渡したようにアイゼンハワーにも功労金という名目で6万ドルを渡そうとしたが、アイゼンハワーは断固として拒否したと言われている。

これらのことから、マッカーサーは「『フィリピンのため』ではなく『自分の儲けのため』ということで戦っていた」と言われている。

オーストラリアに逃げたマッカーサーは、3月20日にアデレード駅に到着すると、報道陣に対して、「大統領からオーストラリアに行けと命じられたので来た。目的は、日本に対する反転攻勢の準備をすることであり、最大の目的はフィリピンの救援にある。私はやってきたが、必ずや私は戻るだろう(I shall return)」と述べた。

しかし、日本軍の攻撃から部下を置き去りにして敵前逃亡したという事実が公になると、後には「10万余りの将兵を捨てて逃げた卑怯者」と言われるようになった。マッカーサーが放った言葉、「I shall return」は、皮肉なことに当時の米国では「敵前逃亡」の意味として使われたのである。

しかし、不思議なことにこれらのことは日本では、当時また現在でもほとんど報道されていない。

5.「バターン死の行進」の真相

マッカーサーが部下を置き去りにして逃亡した後、日本軍はバターン半島を占領、米軍・比軍、約5万名を捕虜としたが、宿泊設備を設営できる「オドンネル基地」へ移送する時に、輸送手段もなく徒歩に頼らざるをえなかったため、すでに長く飢餓状態にあり心神が耗弱していたことが災いして多くの捕虜が死亡した。これを米国では「バターン死の行進」と呼び、多くの日本兵がその責任を戦後問われることになった。

しかし、このバターン半島での戦闘は「籠城戦」であり、勝敗が決するまで5ヶ月、「ガダルカナル島」は日本軍が飢餓に陥った場所として有名であるが、バターン半島は米軍が飢餓に陥り苦しんだ場所であった。また、日本軍が予測した「捕虜後送計画」と「実際の捕虜の人数、体調、健康状態等」が大きく異なっていた。病気が蔓延し栄養失調の兵隊が5万人もいるのに加え、逃げ込んできた一般市民も3万人もいたのである。この合計8万人を食糧のある地域に移送しなければならなかった。60キロの距離を。そこが最短の場所であったからである。

米兵達は降伏した時には、既に健康状態は劣悪で、バターン半島にいた米兵の実に50%以上は戦傷やマラリアのために、医師の手当てを要する健康状態にあった。さらにマラリア、デング熱、赤痢等が蔓延、劣悪な状況下でも、「屋根のある建物」に向かい介護をしなければならず、そのためには早急に移動せざるを得なかった。米軍、比軍の食料は降伏時には既に尽きており、日本兵が保持する食糧は自分たちの分しか保持しておらず食料にも限りがあった、また米兵の口に合わなかったことも体力の消耗を促進することになったと言われている。

更に「米軍の常識」と異なり、日本軍は、トラックなどをあまり有していない軍隊である。だから「食を得るためには歩かなければならなかった」のである。司令官本間中将は出来る限りの措置を行うように通達、暑さを避ける為、捕虜を夕方と早朝だけ移動させるといった配慮も行われ、夜になるとフィリピンも肌寒くなるので、「身体を暖めるため」に寝る前には「日本軍は炊き出しをして食糧を配り、その後で自分達が食べる」という状態であった。

「装備が整って当たり前」と考えている「米軍」から見ると、これが「捕虜虐待」と捉えられたが、「歩くのが当たり前」の日本軍の兵士も、米軍の捕虜同様、60キロの距離を、数十キロの装備を背負いながら歩いたのである。

敗戦後の日本占領下でのGHQの行動は、「太平洋戦争は、『アジアの民を欧米の植民地から解放するための戦いという大東亜戦争』ではないこと」を日本国民に対して徹底的に植え込むことから始まった。いわゆる、「思想改造」の始まり、「日本帝国罪悪史観の刷り込みの開始」であったと言われている。その第一弾は、早くも終戦から1ヶ月後の1945年9月16日、日本の新聞各紙を飾った。GHQ発表として掲載された「比島日本兵の暴状」の記事であった。目的は、戦争末期フィリピンを破壊した責任を日本軍に負わせ、「米軍(GHQ)=正義VS日本軍=悪」の構図を植え付けることにあった。

その「悪」の筆頭が、戦争末期の1944年(昭和19年)9月、フィリピン防衛のため再編成された第14方面軍司令官に就任した、山下奉文大将であり、その標的になった。上記新聞記事の直後、9月26日、山下大将は戦犯として起訴された。

「日本の戦歴 フィリピン決戦―山下奉文とマッカーサー」(村尾 国士 (著) 学研M文庫(刊))によると、戦犯裁判の公判の2日前、突然59項目もの訴因が加えられたため弁護団は公判の延期を申請したが、マッカーサーの命令によって却下され、1945年10月8日の第1回公判からわずか2か月の12月5日には早くも最終弁論を終え、米国INS通信特派員が裁判すべてを傍聴してきた米国、英国、豪州の12人の記者たちに対して「山下を死刑にすべきか」を問う投票をおこなったところ、全員が「No」を選択したにもかかわらず、意図的に2日後の「真珠湾攻撃記念日」(米時間、12月7日)を選んで死刑判決を言い渡した。

これらのことなどからも、「マッカーサーの個人的遺恨による復讐裁判」と呼ばれたが、日本ではGHQの報道管制によって一切日本国民には知らされることはなかった。

6.米軍、GHQによる情報の改ざん

判決の3ヶ月後、1946年2月23日、山下大将は陸軍大将としての軍服および一切の勲章も着用を認められず、「米軍から支給された囚人服」のまま絞首刑に処された。

あくまでも「辱めること」がその目的としか思えない裁判、判決、刑の執行に対して、上記「日本の戦歴 フィリピン決戦―山下奉文とマッカーサー 」によると、当時のニューズウィーク誌は「裁判官は、開廷第一日目にすでに判決文をポケットに収めて法廷に現われた」と論評、ロンドン・デイリー・エキスプレスは「これは裁判ではない。私には、それは公聴会ですらないように思われる」と伝え、さらに米最高裁のマーフィー判事はマニラ裁判を「でっちあげ」と呼び、「もし敗戦の敵将を処置するために、正式な手続きの仮面をかぶった復讐と報復の精神をのさばらせるならば、それは同じ精神を発生させ、全ての残虐行為よりも永久的な害毒を流すものである」と述べた。

しかし、これらのことは当時の日本の新聞では一切報道されなかった。GHQの報道管制ということもあるが、マスコミが戦前軍部にすり寄ったようにマッカーサーのGHQにすり寄っていたのではないだろうか。

次に、GHQがおこなったことが、ラジオ番組「真相はこうだ」そしてその後番組「眞相箱」であった。歴史の真実に巧妙に虚偽を混ぜながら日本の「犯罪」、「日本帝国主義という悪が米国民主主義の正義に屈した」という観念を植え付けていったのである。そのなかで格好の材料として取り上げられたのが、「バターン死の行進」であり、「日本軍は虐待や虐殺を行った」と激しく喧伝した。しかし、真相、実態は、前述のとおり、捕虜、民間人約8万名と日本軍も同じくバターン半島南端から、「食料のある安全な場所である捕虜収容所のあるマニラ北方のサンフェルナンドまで徒歩で移動させていたこと」を捏造放送したのである。

7.後日判明したこと

2010年3月20日付け「日本経済新聞」には、「『死の行進』実は後日撮影 AP通信、65年ぶり訂正」として次の記事が掲載された。

AP通信は19日、1942年4月にフィリピンで日本軍の捕虜となった米兵が約100キロを行進させられ、多数が死亡した「バターン死の行進」を写したとされてきた記録写真について、行進後に撮られたものだったことが判明したとして65年ぶりに写真説明を訂正し、検証記事を配信した。

APは「記録写真の訂正はまれなケース」としている。

写真は捕虜が遺体を運んでいる場面を写したもので、米軍が45年に日本軍から入手し発表。APの配信で「死の行進」の証拠写真として歴史的に有名な一枚となった。

APは今回「死の行進」で生き残った元米兵の証言から約6カ月間に及ぶ調査を実施。その結果、電説を「42年5月、死の行進で死亡した同僚の遺体を運ぶ米兵捕虜」と訂正した。(ニューヨーク=共同)

「死の行軍の写真」とした写真が、実際には「行軍後の遺体を処理するための作業の写真であった」ということである。「意図的なねつ造報道」であった。マスコミを使い国民の意識を操作してきたルーズベルト大統領は、テレビが無かった当時、最も先端的なメディアであったラジオ放送を通して演説して「直接国民に訴えかけるというスタイルを重視したメディアを巧みに利用した大統領」として知られている。

ルーズベルトがラジオを通しておこなった演説は、「炉辺談話」と呼ばれ、ルーズベルトの死後、大統領職に就いたトルーマンも同様にラジオの効用を熟知、これがGHQのマスコミ操作に活かされていくことになった。その姿が、トランプ前大統領のツイッターの多用という姿にダブって映る。

8.マニラ戦犯裁判

本間中将は、マニラ戦犯裁判に「バターン死の行進の責任者」として召喚された。「彼は人道主義者である」と長年の友人、英国陸軍ビゴット少将が「宣誓供述書」を裁判所に提出するなど、「バターン死の行進」と称される「捕虜の移送中に捕虜が不慮の死を遂げたこと」は、裁判のなかでも具に明らかにされた。事実は、本間中将の責任ではなく、一部の部下の責任にあった。

しかし、前述の「岡田中将の裁判」と同様、「本間中将が部下の責任を取るべきである」と死刑の判決が下った。しかし、その訴状の根拠法も、それまで判例にもなかった、「部下がおこなった行為はすべて指揮官の責任に帰する」というこの裁判のためにつくられた「事後法」の「指揮者責任」であった。

その人を裁く法律が存在しなかった時におこなった行動を「後から罪にするための法律」が、「事後法」である。人間がある行為をおこなおうとする時には、その行為の際、法令に抵触していないか否かを前提とする。その行為の後つくられた法令によって判断されることになると「何を信じて良いのか解らなくなり社会生活が不安定なものとなるから」である。例えば、ある日、「標識が50キロ制限」の道路でクルマを走らせていて、翌日になって「あの道は、60キロ制限にしたので、昨日の運転はスピード違反である」となるということである。誰が考えても社会に混乱を及ぼすため、そのような法令は制定できない原則がある。「法令」は施行と同時にその効力を発揮するが、施行後の出来事に限り効力が及ぶのであり、過去の出来事には適用されない、「法令不遡及の原則」である。この法令の大原則を全く無視した「事後法による裁判」が戦犯裁判であった。

日本では明治13年の旧刑法の制定以来、一貫して「刑罰法規不遡及の原則」が存在しており、日本国憲法第39条の前段には「何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。」と規定されている。つまり、「実行の際に存在しない刑罰」を遡及して適用することは無いのである。

1945年(昭和20年)12月19日審理が開始され、1946年2月11日判決、同年4月3日銃殺という、異例の早さで処刑されたのは、「この裁判がコレヒドールで屈辱的な敗北をしたマッカーサーの本間への復讐劇であった」と言われている。

本間中将の処刑は、1946年(昭和21年)4月3日0時53分、4年前第14軍司令官であった本間中将の総攻撃の命令が下された、同じ月日、同じ時刻にあわせて執行された。山下大将と同じく「復讐裁判」とし考えられない仕打ちであった。囚人服で絞首刑に処せられた山下大将とは異なり、本間の場合は、なぜか略式軍服の着用が認められ、しかも「軍人としての名誉を重んじた銃殺刑」であった。

こういう行動を取ったマッカーサーにある種の異常性を感じるのは筆者だけであろうか。あれほど、「広島、長崎への原爆投下」が世界中に「非戦闘民の虐殺こそ戦争犯罪」という論争を巻き起こしたにもかかわらず、朝鮮戦争において「原爆の使用」を強行に進めようとした。そのためにトルーマン大統領に解任されたマッカーサー、彼が用意した「原爆投下案」では、ウラジオストク、北京、大連等、朝鮮半島以外の箇所も含めて、合計26箇所に原爆投下する目標を挙げていた。第三次世界大戦の引き金になると常識のある人間なら理解できるプランである。

今回のまとめ

戦後「ダグラス・マッカーサー」という人物について、またGHQ、米軍、戦犯裁判等に関して如何に情報が操作されたか、誤解を恐れずに言うと「意図的にねじ曲げられていたかが解る事実」を見ることができた。また、「日本陸軍=怖い存在=悪」というイメージをもって語られることがこれまで多かったが、戦後70年を経過して「歴史の真実」に目を向ける時が来たのではないかとも感じている。

筆者も、父が海軍士官であったことも影響しているが、様々な報道や資料から「海軍=良い 陸軍=悪い」と思ってきたが、本コラムに岡田中将、また今回の本間中将のことを書くために調べれば調べるほど、「イメージとは違う実像が浮かび上がってきたこと」、また「正確な情報を得ることの重要性」を改めて感じている。

「かつて熊本に従業員が1万人を超える『財閥』と呼ばれる企業グループがあった」と言ったら驚く方が多いのではないだろうか。「古荘(ふるしょう)財閥」と呼ばれた古荘健次郎氏を総帥として九州、熊本を拠点に発展を遂げた地方財閥であった。「デパートは成長産業である」という信念のもと、各地に百貨店を設立、また既存店の買収をおこなって成長した。さらに、東京・日本橋の百貨店、京都の百貨店、名古屋の百貨店等にも出資して経営に参画していた。フィリピンの繊維事業はマニラの「金貨メリヤス」を中心に拡大、全土に営業基盤を築き、従業員は3000人にのぼった。

この「比島金貨メリヤス」の副社長であったのが、菅原 亥吉であるが、実は筆者の親戚である。その子息であり筆者の母の従兄弟にあたる従伯叔父とは長年交流があり「戦前のフィリピン、金貨メリヤスのこと」を何度も聞く機会があった。「日本から多くの若者がフィリピンに渡ってきて入社した、現地の人たちとも非常にいい関係であった」と聞いていた記憶がある。

プロパガンダ(propaganda)という言葉は、政治的意図を持つ「宣伝」ということである。つまり、特定の思想、考え方を個人や集団に影響を与えて行動を意図した方向へ仕向けようとする宣伝活動を言う。情報による世論の操作であり、情報に溢れている現代ではその情報を自分の行動にプラスに働くようにする行動に伴って必然的に顕われてくるものである。つまり、「ある価値観を刷り込み洗脳させることがプロパガンダというもの」であり、一般的にはヨーゼフ・ゲッベルスを中心にナチスドイツがおこなったものが有名であるが、英米でも、また日本でもこの手法が戦意高揚に使われた。

それを占領下で終戦前に増して使ったのが米軍であった。世の中が大きく変化するその兆しになるのがこの「プロパガンダ」の顕在化である、それによって世の中を、人々の心を変化させる力があるからである。重要なことは、そのとき「正視眼」で目の前の事象を見極めることができるかどうかである。

筆者が、本コラムのテーマに「第二次世界大戦のこと」を取り上げるのも、実はその背景には「世の中を大きく変化させようとする力の根源、勢力」を見るからであり、この「世の中を大きく変化させようとする力の根源、勢力」は、我々が企業戦略を策定する際にもまた「最も重要視しなければならない要素」として存在しているからである。

第二次世界大戦では、その力の根源はドイツにあった、ナチスドイツである。ナチスドイツが台頭して、瞬く間にフランスを占領、英国にも勝利をするとの予想がなかったら、「日独伊の三国同盟」に日本が参加することはなかったからである。

実は、その際、歴史の帳の裏で進んでいたのが、スターリンに既に了承されていたソ連も加えた、米国に対抗する同盟としての「日独伊ソ四国同盟」の締結であった。しかし、「ソ連侵攻」を考えていたヒットラーはこの話に乗らず、「日独伊三国同盟」となり、1941年6月「独ソ戦」が勃発、さらに同年12月の「真珠湾攻撃」により、「第二次世界大戦」へと突入していくのである。

「情報の操作」がDX(デジタルトランスフォーメーション)の技術を使えば容易くできるようになった現代、「画面に映る顔」さえ、「フェイク」に入れ替えることがスマホでも簡単にできる時代になった。こういう時代になったということは、企業が接する、また提供される「情報」は、これまで以上に厳密に精査する必要があるということである。企業の進路に立ちはだかる「リスクの壁」のみならず、企業内に「蔓延るリスク」もこれまで以上に入念に洗い出していく必要がある。

そうでなければ企業の舵取りを大きく狂わせることになるからである。「継続は力」とばかり、いつまでも従来の商習慣、社内体制、顧客との関係を無定見に継続することは、かえって大きなリスクに変貌させていくことに繋がる。昨今、大手証券会社、大手投資銀行が「フェイク情報」をもとに企業活動したために受けた巨額の損失の事案を思い浮かべれば明らかであろう。同様の将来を企業に突きつけることにならないように、キャプティブの設立を確かに視野に入れた本格的なリスクマネジメントが必要な時代に入ったということを認識すべきではないだろうか。

本間中将の墓は、筆者の自宅からクルマで15分のところにある川崎市の春秋苑(第二特別区7-12)にある。墓の傍らには、白洲次郎の親友としても有名な今日出海などと共に、フィリピン攻略緒戦の報道班員であっ た、昭和の文豪、「人生劇場」で有名な尾崎士郎が本間中将を称えた側碑碑文が建立されており、以下のような言葉が記されている。

                                       われらは此処に本間雅晴

                                       将軍の名を記録することを

                                       誇とする 将軍は太平洋戦争の

                                       悲劇的運命に殉じて刑場の露

                                      と消えたが剛毅果断にして温情

                                      豊かなる人格への思慕は国民の

                                      心に年と共に新しく 従容として

                                      死に就いた将軍の姿は愈々光

                                      彩を加え来たるであろう

                                      昭和丗七年四月 尾崎士郎 記之

いま本間中将が存命であれば、この「フェイク」が横行する世の中に対してどう思われるのであろうか

執筆・翻訳者:羽谷 信一郎

English Translation

Corporate Strategy (CS) 34 – Propaganda (Masaharu Homma, Lieutenant General)

The term “victor’s justice” refers to “an expression referring to the prosecution by the victor of the conduct of the vanquished in the aftermath of a conflict or war”, and “the excessive or unjust punishment of the vanquished, while the crimes committed by the victor are lightly punished or left unpunished”.

After the end of the Second World War, the International Military Tribunal, commonly known as the Nuremberg Trials, was held in Nuremberg, Germany, where the National Socialist German Workers’ Party (Nazi Party) held its congress to try the war crimes of the Axis powers. “The Tokyo Trials, also known as the International Military Tribunal for the Far East, were held against the leaders of the Japanese Empire.

According to the book “Victors’ justice: war trials and war responsibility” (1972) by Richard H. Minear (author), translated by Nisuke Ando (translator), published by Fukumura Shuppan. In 1971, the author of the original book, Richard H. Minear, an American historian and Japanologist, described the Tokyo Trials as “Victors’ justice”.

In fact, at the Nuremberg Trials and the related Dachau Trials, the only “war criminals” prosecuted were “nationals and collaborators of the defeated nations”, while “no war crimes by the victorious Allied forces were prosecuted”, even though they had committed “crimes similar or equivalent to those committed by the defeated nations”.

The Soviet Union’s “war crimes” were the most serious. The German defendants were charged with “committing a war of aggression and conspiracy to commit a war of aggression against Poland”, but none of them were prosecuted by the Soviet Union, despite the fact that the Soviet Union invaded Poland in September 1939 in collaboration with the Nazis.

1. Judge Pal

One of the judges sent by the Allies to the Tokyo Trials, “Judge Radhabinod Pal”, opposed the “move towards unanimous conviction”. He argued that the “crimes against peace and crimes against humanity” on which the trial was based were “ex post facto laws” created by the victorious powers, and that it would be contrary to international law to try them on these grounds.

He is best known for his “Pal verdict”, in which he said that “all the accused should be acquitted”, and he described the Tokyo Trials as “a forgery of history”. According to “The Japanese Spirit in the Age of ‘Asian Liberation’ at a Glance” (written by Masanori Mizuma, published by PHP Institute), “the policy that determined the use of the atomic bomb (by the United States) was the only act proportional to the Holocaust” and “the atomic bombing by the United States was the only act comparable to the Nazi Holocaust as the indiscriminate destruction of the lives and property of non-combatants by the state”. He even stated that “they [the US and Britain] would never have chosen a white country as the test bed for the first atomic bomb”.

When the monument in his honour was erected in Kyoto, the then President of India sent the following message

His famous dissenting judgment was an inspiring call to reject narrow-minded nationalism and political vendettas on the part of the victors and to work for peace and reconciliation and goodwill among nations.

In so doing, he became a symbol of friendship and understanding between India and Japan.

Kocheril Raman Narayan, President of India, 16 October 1997

2. Lieutenant General Tasuku Okada

Last year, in the article “CS13 ‘Long Journey’ (Lieutenant General Tasuku Okada)”, which was posted in the Japan Column on 15 August 2020, Lieutenant General Tasuku Okada, who was the commander of the Tokai Military District in Nagoya just before the end of the war, was accused of violating international law (under legal grounds within the former Army) by executing 27 crew members of an American B-29 bomber who were shot down and captured during an air raid on Nagoya on 14 May 1945. After the war, he was arrested by the General Headquarters of the Supreme Commander of the Allied Powers (GHQ) as a Class B war criminal and sentenced to death by the Yokohama Tribunal.

“In response to the prosecutor’s insistence that he was simply following orders”,. he said “the leafleting had begun at the same time as the first B-29 bombing. It doesn’t matter who printed the leaflets. It is a question of whether they were aware that what they depicted was against humanity. And the fact is that they did. The problem is that they carried out the bombing. If the crew was aware of the cruelty and inhumanity of the indiscriminate bombing, but carried it out, then it cannot be said that they were innocent because they were simply following orders”.

“The question is whether they were aware that they were violating humanity.” These words struck a chord with all present, observers, lawyers, judges and even prosecutors. The atrocity of dropping the atomic bombs on Hiroshima and Nagasaki, slaughtering hundreds of thousands of non-combatants, and repeatedly killing non-combatants working in the fields and children on their way to and from school by firing machine guns at them, is not a “trial” if it is not judged. This is because many of those involved saw it as “revenge in the name of justice”.

Like Lieutenant General Tasuku Okada, who was sentenced as a prisoner of war, 0ne of those who faced the “victor’s verdict” was “Lieutenant General Masaharu Homma”.

3. Lieutenant General Masaharu Homma

According to the book “It’s all a dream – Lieutenant General Masaharu Honma” (written by Fusako Tsunoda, published by Chuko Bunko), Lieutenant General Honma was born in Sado, Niigata Prefecture in 1887. After graduating from the Military Academy in 1907, he went on to graduate from the Army War College in 1915, and in 1918, like Lieutenant General Okada, he was posted to the UK for three years as “Lieutenant Military Attaché to the British Embassy”. In 1930, he was again posted to the UK for two years as “Military Attaché to the British Embassy”. In 1938 he was promoted to lieutenant general and in 1941 to commander of the 14th Army in the Philippines.

As commander of the 14th Army, he led the invasion of the Philippines and succeeded in capturing Manila at an early stage. During the occupation of Manila, he made it clear to his subordinates that he would ensure a humane occupation of the city to approach with Bushido., and even issued an instruction that “violators would be severely punished”.

4. Douglas MacArthur

The final battleground between the Japanese and American forces was the Bataan Peninsula, on the outskirts of Manila. Reinforced by a large force, the Japanese fell on the Bataan Peninsula and Corregidor Island, finally ending the war in the Philippines. Meanwhile, Douglas MacArthur, commander-in-chief of the American forces in the Philippines, was cornered and threatened with capture, but the War Department, citing the “effect on the morale of the American people if the commander-in-chief were to be taken prisoner,” ordered MacArthur and Philippine “President” Quezon Like the President of Afghanistan, he left his men behind and fled to Australia with his family.

MacArthur was appointed Chief of Staff by President Hoover in 1930 at the age of 50, the youngest man in the history of the US Army. In 1933, his second-in-command was future President Dwight D. Eisenhower, and their relationship continued until MacArthur’s evacuation from the Philippines to Australia. In 1935, after five years in office, he retired as Chief of the General Staff and returned to his former rank of Major General with orders to serve as military adviser to the Philippine Army as “one of the generals in the field”.

At that time, the Philippines was a colony of the United States, but in order to fight against Germany, Italy and Japan, “it was decided to make the Philippines independent in 1946”, and the Philippines needed its own army, and it was his mission to develop it. Since “Quezon”, whose name was to remain in Quezon City in the Philippines, was “a friend of MacArthur’s from his several tours as Commander-in-Chief of the U.S. Army in the Philippines since 1922”, Quezon chose MacArthur as his candidate and offered him a salary that was “unbeatable” for the time. He offered MacArthur “an extraordinary salary” for the time, plus all expenses, a suite in the finest hotel in Manila, and “undocumented remuneration” for the post of military adviser, which MacArthur accepted.

MacArthur also personally invested in American companies in the Philippines, earning substantial profits. According to the book “The Life of Douglas MacArthur” by Geoffrey Perrett, translated by Yoshikatsu Hayashi, Yukiko Terasawa, Hiroaki Kanazawa and Nozomu Takei, translated by Reiji Fujita, when MacArthur was chased out of the Philippines by the Japanese army, he demanded that Quezon pay him the “undocumented remuneration” promised to him when he became military adviser. MacArthur was paid $500,000 and his deputies a combined $140,000. The value of the dollar in 1941 was about 4,000 yen to the dollar, so $500,000 was a huge sum of money – 2 billion yen in today’s yen.

Later, when Quezon went to Washington, he met MacArthur’s second-in-command, Eisenhower, and tried to give Eisenhower $60,000 for his services, just as MacArthur had given him so much money, but Eisenhower is said to have resolutely refused.

From these facts, it is said that MacArthur was “fighting not for the Philippines but for his own profit”.

When MacArthur arrived at Adelaide Station on 20 March, he told the press: “I came because the President ordered me to go to Australia. The purpose is to prepare for a reversal of the offensive against Japan, the main object being the relief of the Philippines. I have come, and I shall return”.

But when it became public knowledge that he had left his men behind and fled from the Japanese attack, he was later described as a coward who had abandoned his 100,000 or so generals and fled. MacArthur’s words, “I shall return”, were ironically used in the US to mean “flee before the enemy”.

Curiously, however, there was little coverage of these events in Japan at the time, and even today.

5. The truth about the “Bataan Death March”

After MacArthur left his men behind and fled, the Japanese occupied the Bataan Peninsula and took some 50,000 US and Philippine POWs prisoner, but when it came time to transport them to the O’Donnell Base, where they could be accommodated, they had no transport and had to walk. Many of the POWs died as a result. In the United States, this was known as the Bataan Death March, and many Japanese soldiers were held responsible for it after the war.

However, the battle on the Bataan Peninsula was a “siege”, and it took five months before victory or defeat was decided. The number of POWs, their physical condition, and their health differed greatly from the Japanese projections. In addition to the 50,000 sick and malnourished soldiers, there were 30,000 civilians who had escaped. A total of 80,000 people had to be transported to an area where food was available, a distance of 60 kilometres. This was the shortest place.

By the time they surrendered, the health of the American soldiers was already poor, with over 50% of those on the Bataan Peninsula requiring medical attention for war wounds and malaria. In addition, malaria, dengue fever, dysentery and other diseases were rampant, forcing soldiers to move quickly to “roofed buildings” to care for themselves in such poor conditions. It is said that by the time of the surrender, the American and Philippines troops had already run out of food, and that the Japanese soldiers only had enough food for themselves, and that the food was limited, and that the food was not to the taste of the American soldiers, which also accelerated their exhaustion.

Furthermore, unlike the “common sense of the American army”, the Japanese army did not have many trucks. So “they had to walk to get food”. The commander, Lieutenant General Homma, ordered all possible measures to be taken, and in order to avoid the heat, care was taken to move prisoners only in the evenings and early mornings, and at night it became chilly in the Philippines, so “to keep warm”, before going to bed, “the Japanese would cook and distribute food, and then we would eat”.

“In the eyes of the “well-equipped” US military, this was seen as “POW abuse”, but Japanese soldiers, who were “supposed to walk”, walked 60 kilometres, carrying dozens of kilos of equipment on their backs, just like their US counterparts.

The aim of the GHQ during the occupation of Japan after the defeat was to thoroughly inculcate in the Japanese people that the Pacific War was not a ”Greater East Asia War” to liberate the peoples of Asia from the colonial rule of the West. It is said that this was the beginning of the so-called “ideological transformation”, the “start of the imprinting of the historical view of the sins of the Japanese Empire”. As early as September 16, 1945, one month after the end of the war, an article on the “violence of Japanese soldiers in the Philippines” appeared in the Japanese newspapers as a GHQ announcement. The aim was to place the blame for the destruction of the Philippines at the end of the war on the Japanese, and to instil the image of “US forces (GHQ) = justice vs Japanese forces = evil”.

The first of the “evil” was General Tomoyuki Yamashita, who in September 1944, at the end of the war, became the commander of the 14th Army, which had been reorganised to defend the Philippines. Immediately after the above newspaper article, on 26 September, General Yamashita was indicted as a war criminal.

According to the book “Japan’s Military History: Philippine Battle: Yamashita and MacArthur” (written by Kunio Murao), two days before the trial of the war criminals, 59 counts were suddenly added to the charges against him, and his lawyers applied for a postponement of the trial, which was rejected by MacArthur’s order. On 5 December, only two months after the first trial on 8 October, the closing arguments were already completed and an INS correspondent polled 12 journalists from the US, UK and Australia who had attended the entire trial to ask whether Yamashita should be executed. Even though all of them voted “No”, he deliberately chose two days later, on the anniversary of the attack on Pearl Harbor (December 7, US time), to hand down the death sentence.

The trial was called “MacArthur’s revenge trial for his personal grudge”, but the Japanese people were never informed of it due to GHQ’s press control.

6. Falsification of information by the US military and GHQ

Three months after the verdict, on 23 February 1946, General Yamashita was hanged in his “prison uniform provided by the US Army”, without being allowed to wear his army uniform or any medals.

For trials, sentences and punishments whose only purpose seems to be “to humiliate, according to “Japan’s Military History: The Battle for the Philippines – Tomoyuki Yamashita and MacArthur”, the Newsweek magazine of the time commented that “the judge appeared in court on the first day of court with the sentence already in his pocket”. The London Daily Express reported, “This is not a trial; it does not even seem to me to be a hearing,” and U.S. Supreme Court Justice Murphy called the Manila trial “a fabrication” and said, “If we allow a spirit of vengeance and retribution to prevail, masquerading as formalities, in order to deal with a defeated enemy general, it generates the same spirit and does more permanent harm than all atrocities. It will generate the same spirit, and pour out a more permanent poison than all atrocities”.

But none of this was reported in the Japanese newspapers at the time, partly because of GHQ’s control of the press, but also because the press might be as beholden to MacArthur’s GHQ as it had been to the military before the war.

The next thing GHQ did was to produce a radio programme “Shinso wa Kouda(The truth is this): Now It Can Be Told” and then the programme “Shinso (Truth) Box: Now It Can Be Told-Question Box”, cleverly blending historical truth with falsehood, the program planted the notion that Japan was guilty of “crimes” and that the evil of Japanese imperialism had succumbed to the justice of US democracy. The “Bataan Death March” was the perfect vehicle for this, and it was heavily propagated that the Japanese had committed abuses and massacres. However, the truth, the reality, as mentioned above, was that about 80,000 POWs, civilians and Japanese troops had also been moved on foot from the southern tip of the Bataan Peninsula to “San Fernando, north of Manila, where there was a POW camp, a safe place with food”.

7. What we found out later

In the Nihon Keizai Shimbun dated 20 March 2010, the following article appeared: “‘Death March’ actually filmed at a later date: Associated Press (AP) makes first correction in 65 years”.

On March 19, the Associated Press (AP) published an article verifying that a photograph purported to show the “Bataan Death March,” in which American soldiers captured by the Japanese army in the Philippines in April 1942 were forced to march about 100 kilometres, killing many of them, had been taken after the march.

The AP said that the correction of the photograph was a rare case.

The photo, which shows POWs carrying a body, was obtained by the U.S. military from the Japanese in 1945 and became a historically famous piece of evidence of the “death march” when it was published by the AP.

The AP conducted a six-month investigation based on testimony from former U.S. soldiers who survived the death march. As a result, the AP has corrected its story to “U.S. prisoners of war carrying the bodies of their comrades who died on the death march in May 1942”.(New York-Kyodo)

“The photo of the death march” was actually a photograph of the work of disposing of the bodies after the march. It was a “deliberate fiction”. President Roosevelt’s use of the media to manipulate public attitudes is known as “a masterful use of the media to appeal directly to the people”, with his speeches delivered over radio, the most advanced medium at a time when there was no television.

Roosevelt’s speeches over the radio were known as “fireside chats”, and Truman, who assumed the presidency after Roosevelt’s death, was equally familiar with the benefits of radio, which he used to manipulate the mass media at GHQ. The same can be seen in former President Trump’s extensive use of Twitter.

8. The Manila War Crimes Trials

Lieutenant General Homma was summoned to the Manila War Crimes Tribunal as “the man responsible for the Bataan Death March”. “He is a humanitarian,” said his long-time friend Major General of the British Army, F. S. G. Piggott, who submitted an affidavit to the court, and the “Bataan Death March”, in which prisoners of war died unexpectedly during the transportation of prisoners of war, was fully revealed in the trial and was not the fault of Lieutenant General Homma, but that of some of his men.

However, as in the aforementioned “trial of Lieutenant General Okada”, the sentence of death was passed on the basis that “Lieutenant General Homma should take responsibility for his men”. However, the law on which the complaint was based was also an “ex post facto” law, “commander’s responsibility”, which was created for this trial, saying that “all acts committed by subordinates are attributed to the responsibility of the commander”, which had not been found in any precedent until then.

The “ex post facto law” is a law that “makes a man guilty after the fact” of an action he took when no law existed to judge him. When a person intends to commit an act, it is assumed that the act did not violate any law. The reason for this is that if we are judged by laws and regulations that have been created after the act, we will not know what to believe and our social life will be unstable. For example, one day you are driving your car on a road with a 50 km/h limit sign, and the next day you are told that the road has a 60 km/h limit, so you were driving too fast yesterday. There is a principle that such a law cannot be enacted, because it would cause chaos in society. “It is the principle of non-retroactivity, which means that a law takes effect as soon as it comes into force, but only in respect of events after it has come into force, and not in respect of past events. The trial of war criminals was a “trial by ex post facto law” which totally ignored this general principle of law.

In Japan, since the enactment of the old Penal Code in 1881, there has been a consistent “principle of non-retroactivity of penal laws”. The first sentence of Article 39 of the Constitution of Japan stipulates that “No one shall be held criminally responsible for an act which was lawful at the time of its commission, or for an act for which he has already been acquitted”. In other words, there is no retroactive application of “punishments which did not exist at the time of the commission of the crime”.

It is said that the unusually quick execution of General Homma – the trial began on 19 December 1945, he was sentenced on 11 February 1946 and executed by firing squad on 3 April 1946 – was “MacArthur’s revenge on Homma for his humiliating defeat at Corregidor”.

The execution of Lieutenant General Homma was carried out at 0:53 on 3 April 1946, the same month, day and time that the order for the general attack on General Homma, commander of the 14th Army, was given four years earlier. Like General Yamashita, this was an unthinkable “revenge trial”. Unlike General Yamashita, who was hanged in prison uniform, Homma was allowed to wear a short military uniform, and was executed by firing squad with “respect for military honour”.

Is it only me who feels that MacArthur’s actions are a kind of aberration? Even though the dropping of the atomic bombs on Hiroshima and Nagasaki caused such controversy in the world that the slaughter of non-combatants was a war crime, he insisted on using the atomic bombs in the Korean War. MacArthur, who had been dismissed by President Truman for this reason, had prepared an “atomic bombing plan” which listed a total of 26 targets for atomic bombing, including Vladivostok, Peking, Dalian and other places outside the Korean Peninsula. It is a plan that any sensible person would understand would trigger World War III.

Summary of this issue

After the war, we were able to see how the information about Douglas MacArthur, GHQ, the US military, the war crimes trials, etc. was manipulated, or to put it another way, “the facts that show how it was deliberately twisted”. I also felt that 70 years have passed since the end of the war and it is time to turn our attention to the “truth of history”.

I, too, was influenced by the fact that my father was a naval officer, but from various reports and documents, I had always thought that “Navy = good, Army = bad”. However, the more I researched in order to write about Lieutenant General Okada in this column and Lieutenant General Homma in this column, the more I realized the importance of obtaining accurate information and the more I realized that the real image is different from the image.

Many people would be surprised “if I told them that there was once a group of companies in Kumamoto with more than 10,000 employees, known as a zaibatsu”. “It was a local conglomerate based in Kumamoto, Kyushu, under the leadership of Kenjiro Furusho, who called it the Furusho Zaibatsu. “Based on the belief that department stores were a growth industry, the company grew by establishing department stores in various regions and acquiring existing shops. The company also invested in the department store in Nihonbashi, Tokyo, the one in Kyoto and the one in Nagoya. In the Philippines, the textile business expanded mainly through the ” Kinka Meriyas ” in Manila, establishing a nationwide sales base and employing 3,000 people.

The vice-president of this company was Ikichi Sugawara, who was actually a relative of the author. His son is my mother’s cousin. and I had many opportunities to ask him about the pre-war Philippines and the “Kinka Meriyas” before the war. I remember hearing that many young people from Japan came to the Philippines to join the company, and that they had very good relations with the local people.

The word “propaganda” means publicity with a political agenda. In other words, it refers to propaganda activities aimed at influencing individuals or groups of people to act in a particular way, or to think in a particular way. It is a manipulation of public opinion by means of information, and in today’s information-rich world, it inevitably manifests itself when people try to use that information in a way that positively affects their own behaviour. In other words, propaganda is the act of indoctrinating and brainwashing people with a certain set of values, and while the most famous example is that of Nazi Germany, led by Joseph Goebbels, this technique was also used in Britain, the United States and Japan to raise awareness of the war effort. The manifestation of this “propaganda” is a sign of a great change in the world, because it has the power to change the world and the minds of the people. The important thing is to be able to look at the events in front of us with the “right eye”.

The reason why I have included the Second World War as the theme of this column is because I see in its background the roots and forces that are driving the world to change. In the Second World War, the source of this power was Germany, Nazi Germany. For Japan would never have joined the Tripartite Pact had it not been for the prospect of Nazi Germany’s rise to power, its instantaneous occupation of France and its victory over Britain.

In fact, behind the scenes, history was already in the process of concluding the Tripartite Pact with the Soviet Union, which had already been approved by Stalin, as an alliance against the United States. However, Hitler, who was planning to invade the Soviet Union, refused to go along with this plan, and the “Tripartite Pact” was formed, which led to the outbreak of the “Russo-German War” in June 1941, and the attack on Pearl Harbor in December of the same year, plunging Japan into World War II.

In an age when “the manipulation of information” has become so easy through the use of DX (Digital Transformation) technology, even the face on the screen can be replaced with a fake one, even on a smartphone. This means that the ” information ” that companies come into contact with, and are provided with, needs to be scrutinised more closely than ever before. Not only do they need to identify the “barriers to risk” that stand in their way, but they also need to identify the “risks” that are prevalent within the company.

If we don’t, we will lose control of our businesses. “Continuity is power”, and the indefinite continuation of traditional business practices, internal systems and customer relationships can lead to significant risks. One only has to think of the huge losses suffered by major securities firms and investment banks in recent years as a result of their activities based on “fake information”. We have entered an era of serious risk management, certainly with a view to establishing captives, to ensure that companies do not face a similar future.

Lieutenant General Homma’s grave is located in Shunju-en (No.2 Special Ward 7-12) in Kawasaki City, 15 minutes by car from the author’s home. Beside the grave, Shiro Ozaki, a great writer of the Showa era and famous for his book “Life Theater”, who was a member of the news team of the first battle of the Philippines, along with Jiro Shirasu’s famous close friend, Hidemi Kon, etc., wrote the following words on a side monument inscription in honour of Lieutenant General Honma.

We are here to record the name of Masaharu Honma

We are proud to record the name of General

who died in the tragic fate of the Pacific War

He died in the tragic fate of the Pacific War

But we are proud to record the name of General

But the memory of his character, so resolute, so

decisive, so warm-hearted

He will be remembered in the hearts of his countrymen
as a man of courage

The image of the General in death will become more
and more brilliant.

The image of the General, who has died a new and
obedient man, will become more and more brilliant.

By Shiro Ozaki, April 1995

If he were alive today, I wonder what he would think of this “fake” world.

Author/translator: Shinichiro Hatani