キャプティブ 2024.09.18
CA 65「SHOGUN 将軍」が教える「オーセンティック(本物)のリスクマネジメントーキャプティブ」
For those who prefer to read this column in English, the Japanese text is followed by a British English translation, so please scroll down to the bottom of the Japanese text.
2024年「第76回プライムタイム・エミー賞」では、ジェームズ・クラベルが1975年に発表した小説「Shōgun」(将軍)を原作として米国で製作放送されたTV時代劇ドラマ「SHOGUN 将軍」が、過去最多の日本人11人のノミネートを含み、作品賞や主演男優賞、主演女優賞等、史上最多となる22部門で25のノミネートを受けていた。
授賞式は2024年9月15日(現地時間)ロサンゼルスで行われた。日本の各種メディアを通じて既に報道されているが、結果は、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、作品賞等を総なめ、史上最多18部門受賞の栄冠を獲得した。
「エミー賞」とは、映画分野の「アカデミー賞」、演劇の「トニー賞」、音楽の「グラミー賞」に相当する、TV番組の分野では最高に栄誉ある文化賞である。いくつかのカテゴリーがあるが、一般的に「エミー賞」というと、「テレビドラマとバラエティ番組を対象とするプライムタイム・エミー賞」のことを指すものであり、「プライムタイム・エミー賞」を受賞するということはその年の最高のTV番組であったことを指す、非常に権威ある文化賞である。
この原作小説は、これまでも1980年に「将軍 SHŌGUN」としてドラマ化されているが、今回、史上かつて無い栄誉がもたらされた背景と理由には「時代が『Diversity(多様性)の時代』に確実に変遷してきているからである」と筆者は考えている。
これまで、米国では日本を舞台にした映画やTV番組にもかかわらず、なぜか「日本人役」の俳優が流暢な英語を喋る、そんな時代劇がつくられていた。筆者の親しい、40年来の米国人の友人に昨日電話で聞いみたら、「我々は単純だから」と冗談交じりに「字幕で見るよりは、やはり英語を話している作品を見る方が良かったから、でもこのところ変ってきたよ」と言っていた。「Diversity(多様性)の価値を認める」時代に入ってきたと言えるだろう。
TVのニュース報道では、今回の受賞作「SHOGUN 将軍」は約7割が日本語のセリフとされ、事実、TVで流れていた場面でも、本作品のプロデューサーにも名を連ねた主演男優の真田広之他、俳優陣が日本語で演じていた。
「オーセンティック(本物)の日本を伝えたい」と言っていた真田広之が、受賞スピーチの最後に日本語で以下のような言葉を付け加えたところにも、「時代の変遷」が現われていたと感じた。
(英語で)少し日本語で話すけど訳してもらってもいいですか?
「これまで時代劇を継承して支えてきてくださった全ての方々、そして監督や諸先生方に心より御礼申し上げます。あなた方から受け継いだ情熱と夢は、海を渡り国境を越えました!」
1.「SHOGUN 将軍」の主役は?
この「SHOGUN 将軍」の主役は、史実では「徳川家康」となるが劇中では「吉井虎永」とされた役を演じた、エミー賞主演男優賞を受賞した真田広之、そして、主演女優賞を受賞した「戸田鞠子」(史実では「細川ガラシャ」)役を演じたアンナ・サワイであるが、「影の主役」と言える存在がジョン・ブラックソーン/按針(史実では、「ウィリアム・アダムス/三浦按針」)を演じた米国の演技派俳優コスモ・ジャーヴィスと言えるだろう。
彼の演じる英国人航海士の按針(アンジン)の視線で物語が展開していると感じるからである。2024年9月16日付「読売新聞オンライン」には、「SHOGUN 将軍」のテーマは以下のように記されていた。
「豊臣秀吉亡き後で起こった覇権争いをモチーフに、徳川家康を主人公に描いた時代劇。家康と石田三成をモデルとする武将同士の争いに、漂着した外国船の英国人航海士・按針がかかわってくる。原作はジェームズ・クラベルの小説で、1980年にも米国でドラマ化され、三船敏郎や島田陽子らが出演した。真田さんは家康をモデルにした主人公・吉井虎永を演じ、サワイさんは、英国人航海士の通訳を務めるキリシタンの女性を演じた。」
(2024年9月16日付「読売新聞オンライン」より引用)
2.ウィリアム・アダムス(三浦按針)
ロンドンに「毎年6回の出張」をしていた頃、大変お世話になっていた同窓の先輩から、「羽谷さん、『日本と英国の架け橋』になろうとしているのなら、是非読んだ方が良い本がありますよ」と勧められて購入した本が「さむらい ウィリアム」(ジャイルズ・ミルトン(著)築地誠子(訳)原書房(刊))であった。
この「ウィリアム」とは、関ケ原の戦いの半年前に日本に漂着、徳川家康に気に入られて「旗本」にまで取りたてられ、「外交顧問」として徳川幕府に仕えた英国人「ウィリアム・アダムス」、日本名「三浦按針」、上述の「SHOGUN 将軍」の「影の主人公」と筆者が考える人物のことである。
この本は、彼が1600年4月豊後(現在の大分県)に漂着したところから日本で1620年に亡くなるまでの間に起きた出来事を中心に、英国、ポルトガル、オランダの商人達が大航海をおこなった際の出来事について興味深く記されていた。
英国とオランダが制海権を掛けて1652年から1654年にかけ戦った「第一次英蘭戦争」前、同じ船乗りとしてオランダ人船員たちと交流を深めていたウィリアムは、ロッテルダムから極東を目指した5艘からなる船団の1艘、旗艦ホープ号の航海士として採用され、1598年6月下旬、船団はロッテルダム港を出航した。しかし航海は、壊血病の猛威、寄港地での現地住民の襲撃等、苦難の連続であり、航海の途中ウィリアムはリーフデ号に配置転換されていたが、極東に到達した船は5艘中リーフデ号のみであった。
航海も1年以上過ぎようやく太平洋上に入ったが、水も食料も尽き、乗組員は次々と病に倒れていった。「さむらい ウィリアム」には、その時の光景が次のように綴られている。
一六〇〇年四月十二日、ロッテルダムを出港して一年八ヶ月以上経ったその日に、アダムスは神秘的な光景を目にして起き上がった。水平線上になにやら藤色のぼんやりとしてものが見え、時間を追うごとにはっきりしてくる。アダムスは乗組員達に大声で呼びかけ、病人には手を貸して、デッキまで連れていった。最初は自分の目が信じられなかったが、ゴールを目前にしているのだと確信できるようになった。
風は長いあいだ弱い向かい風だったが、いきなり向きを変えて、リーフデ号を陸のほうへと押しやった。海岸線が迫ってきて、崖や樹木や寺院が建ち並ぶ一角が見分けられるようになった。「こうしてわれわれは、豊後と呼ばれる土地から、およそ1リーグのところに無事に錨をおろした」。ピントから遅れることおよそ六〇年。だが、まさに同じ豊後の港に、ウィリアム・アダムスはたどり着いたのだ。
発見のモニュメント
数々の探検家、航海者を支援して大航海時代の幕を開いたポルトガルのエンリケ航海王子、首都リスボンを流れるテージョ川岸には、彼の没後500年を記念した記念碑、「発見のモニュメント」がある。正面の石畳には世界地図のモザイクがある。辿った航路と世界各地を「発見」した年が描かれているが、日本については、種子島に鉄砲が伝来した1543年ではなく1541年とある。
この年は、豊後(大分)に台風でポルトガル船が漂着、「親切な対応への謝礼として鉄砲が贈られた」とする説が存在する年でもある。その人間こそ、上記「さむらい ウィリアム」に「ピントから遅れることおよそ六〇年」とある、ポルトガル人冒険家、フェルナン・メンデス・ピント(Fernão Mendes Pinto)である。
The Monument of Discovery
On the banks of the Tagus River in Lisbon, Portugal, the country that opened the Age of Discovery by supporting numerous explorers and navigators, there is a monument commemorating the 500th anniversary of the death of Prince Henry the Navigator. On the cobblestones in front of the monument is a mosaic of a world map. The routes he followed and the years in which he ‘discovered’ various parts of the world are depicted, but for Japan, the year is given as 1541, not 1543, when guns were introduced to Tanegashima.
This is the year when a Portuguese ship drifted ashore in Bungo (Oita) due to a typhoon, and there is a theory that ‘guns were given as a reward for their kind treatment’. The person in question is the Portuguese adventurer Fernão Mendes Pinto, who is mentioned in the above passage about ‘Samurai William’ as being ‘approximately 60 years behind Pinto’.
3.「天下人」家康との謁見
ウィリアム・アダムスが豊後の地にたどり着いたのは、「天下人」豊臣秀吉が1598年に亡くなり、関ヶ原の戦いが勃発する半年前であった。リーフデ号が漂着した豊後臼杵の領主から通報を受けた長崎奉行は、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだが、既に「権力者」となっていた五大老首座の徳川家康が、「利用できる」と思ったのか、大坂へ護送させ、併せて船も回航させた。
既に秀吉・秀頼等に取り入っていた「旧教徒(カソリック)」側のスペイン・ポルトガルのイエズス会士達は、世界で覇権争い繰り広げて敵対する「新教徒(プロテスタント)」側の英国・オランダの船が漂着したと知り、「リーフデ号は海賊船だ」と伝えていたが、家康は「世界の情勢」にも興味を持ち調べていたようで、「旧教徒」側につく秀頼への牽制のためもあり、直々に徳川家康自身が引見した。
航海の目的や、現在の世界情勢、英国やイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を具に説明する「ウィリアム・アダムス」と「ヤン=ヨーステン(名)・ファン・ローデンステイン(姓)」を、その正直さから家康は気に入って、執拗に処刑を要求する「旧教徒」側の宣教師らの意見を無視して彼らを江戸に招いた。
以降、ウィリアム・アダムスは、徳川家康の庇護のもと三浦半島に領地とサムライの身分を与えられ、日本名「三浦按針」を名乗った。また、ヤン=ヨーステン(名)・ファン・ローデンステイン(姓)も、現在東京駅の南側一帯の「八重洲」の由来となった、日本名「耶楊子」(やようす)と名乗り、江戸城内堀に屋敷を与えられ家康に厚遇された。
その後、家康は、ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらに遠洋航海が可能な「ガレオン船」を建造させ海外交易を進めた。関ヶ原の戦いで「天下人」になって以降、「日本の国王」として安南(現在のベトナム)、スペイン領マニラ、カンボジア、シャム(タイ)、パタニ(タイ南部)などの東南アジア諸国に使者を派遣、外交関係を樹立、更に1604年には朱印船制度を確立、多くの「朱印船」によって大規模な海外貿易がおこなった。
しかし、家康が1616年(元和2年)に亡くなると徳川秀忠が第2代将軍となった江戸幕府は、貿易を平戸に制限する「鎖国体制」を敷き、ウィリアム・アダムスは不遇を託つことになり、また幕臣や次期将軍候補の徳川家光らに警戒され、1620年(元和6年)平戸で失意のなか死去することとなった。
「世界を相手にする」と考えた家康と大事な天下分け目の戦いであった「関ヶ原の戦い」に間に合わなかったことをよく評される秀忠、この二人の器量の違いがもたらした結果であり、鎖国はその後の日本の発展に大きなマイナスのベクトルを与えることになったと言えよう。
4.慶長三陸沖地震
1609年、スペインが植民地フィリピンに置いた総督が当時「ニュー・スペイン」と呼ばれたメキシコに行く途中、船が難破した。しかし、運良く「鎖国令」前であったため、日本で救助され、しかも当時の「天下人」家康は、帰国費用を用立て、さらには外交顧問となっていたウィリアム・アダムスが建造したガレオン船さえも与えて帰国させた。
その翌年、1610年、「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」と呼ばれる、マカオでの日本人によるポルトガル貿易船の爆沈事件が起きた。これは、肥前日野江(現在の長崎県南島原市)藩主の有馬晴信が「占城」(チャンパ王国:現在のベトナム)に派遣した朱印船がマカオに寄港中、日本人船員が起こした騒擾事件をマカオの総司令官が鎮圧した際、多くの日本人の死者が出た事件である。
この事件により、ポルトガル船の長崎来航が中断、また幕府が「キリスト教の禁教」に向かうきっかけともなり、さらにはそれまで家康の信任が厚かった通詞のジョアン・ロドリゲス神父が長崎代官の進言によってマカオに追放され、家康はウィリアム・アダムスを重用するようになった。結果、スペイン、ポルトガルは、幕府に対する有力な窓口を失ったのである。時代の大きな岐路であった。
1611年、「セバスチャン・ビスカイノ」というニュー・スペイン総督が、「1609年の難破船の救済の答礼と費用弁済のため」と称して日本にやってきたが、彼らの本来の目的はキリスト教の布教交渉をすることであった。しかし、家康はそれは認めなかった。
そこで、ビスカイノは「今後も同じように海難の恐れがあり貴国のためにもなる」と日本沿岸の測量を家康に願い出たところ、家康はなぜかこれを許可、朱印状を与えた。
ビスカイノ率いる測量隊は、浦賀を出発して北上していたところ、1611年12月2日(和暦:慶長16年10月28日)、越喜来(おきらい)という漁村、現在の岩手県大船渡市三陸町の沖合で、後に「慶長三陸地震津波」と言われる、巨大な高波に3度襲われた。こういう記録が残っている。2011年の東日本大震災は、この巨大な慶長三陸地震からちょうど400年後に同じ被災地を襲ったことになる。
今回のまとめ
筆者は、今回の「SHOGUN 将軍」の快挙には、無論多くの出演者、スタッフの努力、類い希な才能が大きく開花したことがその主因であるが、コロナ禍がその背景として関与していると考えている。コロナ禍で多くの映画館が休業して、人々はネット配信で、外国語の映画・ドラマを見る機会が増えたと言われているからであり、結果、「字幕で鑑賞すること」への違和感が薄らいだのでないだろうか。そんななか、「映画分野」の「アカデミー賞」でも、筆者も夢中になって観た「ゴジラ-1.0」が、邦画・アジア映画史上初の視覚効果賞を受賞した等、日本映画界への大きな追い風が吹いた。
また、一般社会でも、働き方改革が進み「社員ファースト」を掲げる会社が増えて「部下が上司を選択できる制度を取り入れている会社」もあると聞く。筆者が社会に出た頃には想像さえしなかった状況である。
まさに、「Diversity(多様性)の価値を認める」時代の到来である。
家康が1616年(元和2年)に亡くなり徳川秀忠が第2代将軍となった江戸幕府は大きく変貌した。なぜか、貿易を平戸に制限する「鎖国体制」を敷くようになり、そうなると「海外貿易の顧問」であった、「影の主役」ウィリアム・アダムス(三浦按針)は不遇を託つことになり、その後、「視野の狭い」秀忠や幕臣らに警戒され、1620年(元和6年)平戸で失意のなか死去することとなったのである。
世界に関する情報を得ることに腐心して「世界を相手にする視点」でモノゴトを考えた家康、大事な天下分け目の戦いであった「関ヶ原の戦い」に間に合わなかったことをよく評される秀忠、家康と秀忠の「器量の違い」がもたらした結果ではないだろうか。
鎖国前にはアジア全域を含めヨーロッパとも交易を持った日本、その日本に300年もの鎖国を与え、日本のその後の発展に大きなマイナスの影響を与えることになった、その主因は、政権を承継したトップの器量の無さである。
企業でも、初代を受け継いだ二代目、三代目の「視野の狭さ」で業績が悪化、歴史の闇に沈んだ企業が如何に多いことか。「南海トラフ地震臨時情報」が発令された今年は、企業の存続に大きな影響を与えかねない「地震リスク対策」では「大きな転換点の年」になるのではないだろうか。
「明日は今日の続き」とならないリスクが巨大地震リスクである。「Diversity(多様性)の時代」の到来である、いつまでも「これまでと同じことの繰り返し」では、「時代の大転換リスク」には対応できない。海外、ロンドン再保険マーケットの変化を「旧態依然とした保険会社」が受け止め、従来の補償を十分に継続できる保証は無い。
企業の存続に大きな影響を与える巨大地震リスクについては、時代が変遷、「自社で能動的に対峙する」ことが必要とされる「大きな変革の時代」に入ってきた。
「保険会社に丸投げのリスク対策」ではなく、キャプティブを設立する「オーセンティック(本物)のリスクマネジメント」に取り組み、海外の保険市場から十分な補償を得てリスクマネジメントを万全にする時ではないだろうか。
「SHOGUN 将軍」の快挙はそれを教えてくれている気がする。
執筆・翻訳者:羽谷 信一郎
English Translation
Captive (CA) 65 – ’The Authentic Risk Management – Captive’ as taught by ‘SHOGUN’
In the 76th Primetime Emmy Awards in 2024, the TV period drama ‘SHOGUN’, which was produced and broadcast in the US based on the novel ‘Shōgun’ (将軍) by James Clavell, which was published in 1975 and produced and broadcast in the US, received a record 25 nominations in 22 categories, including a record 11 Japanese nominations for awards such as Best Picture, Best Actor and Best Actress.
The awards ceremony was held in Los Angeles on 15th September 2024 (local time). As has already been reported in the Japanese media, the results were that it swept the board, winning a record 18 awards, including Best Director, Best Actor, Best Actress, and Best Picture.
The Emmy Awards are the highest accolade in the field of TV programming, equivalent to the Academy Awards in film, the Tony Awards in theatre, and the Grammy Awards in music. There are several categories, but the term ‘Emmy Awards’ generally refers to the ‘Primetime Emmy Awards for TV dramas and variety shows’, and winning a Primetime Emmy Award is a very prestigious cultural award that means that the TV programme was the best of the year.
The original novel has already been made into a drama in 1980 as ‘Shōgun’, but the author believes that the reason for this unprecedented honour is that ‘the times are changing into an era of diversity’.
Until now, in the US, despite films and TV programmes set in Japan, somehow period dramas were made in which the actors playing the Japanese characters spoke fluent English. When I called a close American friend of mine yesterday, he jokingly said, ‘We’re simple,’ and said, ‘It was better to watch a work where the actors were speaking English rather than watching it with subtitles, but things have changed recently’. It could be said that we have entered an age that recognises the value of diversity.
When watching the TV news coverage, I noticed that around 70% of the lines in the award-winning film ‘Shogun’ were in Japanese, and even in scenes that were broadcast on TV, the actors, including the lead actor Hiroyuki Sanada, who is also listed as a producer of the film, were performing in Japanese.
At the end of his acceptance speech, Hiroyuki Sanada, who had said that he wanted to ‘share the authentic Japan’, added the following words in Japanese, and I felt that this also showed the ‘change of the times’.
(In English) I’m going to speak a little in Japanese, but can I have it translated?
‘I would like to express my heartfelt gratitude to all those who have supported and carried on the tradition of period dramas, as well as to the directors and teachers. The passion and dreams that I have inherited from you have crossed the ocean and crossed the border!’
1. Who is the main character in ‘SHOGUN’?
The main character in ‘SHOGUN’ is historically Ieyasu Tokugawa, but in the drama, the role of Yoshii Toranaga was played by Hiroyuki Sanada, who won an Emmy Award for Best Actor, and the role of Mariko Toda (historically known as ‘Hosokawa Grasha”) was Anna Sawaya, but the “main character in the shadows” could be said to be John Blackthorne/Anjin (in historical fact, the American actor Cosmo Jarvis, who played “William Adams/Miura Anjin”).
This is because I feel that the story is unfolding through the eyes of the English navigator Anjin, played by him. The theme of ‘SHOGUN’ was described as follows in the ‘Yomiuri Shimbun Online’ dated 16th September 2024.
‘A historical drama depicting Ieyasu Tokugawa as the main character, with the struggle for supremacy that occurred after the death of Hideyoshi Toyotomi as its motif. The conflict between the warlords Ieyasu and Mitsunari Ishida is also linked to the English navigator Anjin, who was shipwrecked on the shores of Japan. The original story is a novel by James Clavell, and it was also made into a drama in the US in 1980, with actors such as Toshiro Mifune and Yoko Shimada. Mr. Sanada played the role of the protagonist, Yoshii Toranaga, who was based on Ieyasu, and Ms. Sawai played the role of a Christian woman who acted as an interpreter for the English navigator.
(quoted from the ‘Yomiuri Shimbun Online’ dated 16th September 2024)
2. William Adams (Anjin Miura)
When I was making ‘six business trips to London each year’, a senior schoolmate who had been very helpful to me recommended the book ‘Samurai William’ (written by Giles Milton, translated by Seiko Tsukiji, published by Hara Shobo) to me, saying, ‘If you are trying to become a “bridge between Japan and Britain”, there is a book you should definitely read’.
This ‘William’ is the Englishman ‘William Adams’, who drifted ashore in Japan six months before the Battle of Sekigahara, was taken under the patronage of Ieyasu Tokugawa and made a ‘Hatamoto’ (a vassal of the shogunate), and served the Tokugawa shogunate as a ‘foreign affairs advisor’. The author considers him to be the ‘hidden hero’ of the above-mentioned ‘SHOGUN (shogun)’.
The book describes the events that took place between his arrival in Bungo (now Oita Prefecture) in April 1600 and his death in Japan in 1620, and also interestingly describes the events that took place when British, Portuguese and Dutch merchants went on voyages of exploration.
Before the First Anglo-Dutch War, which was fought between the UK and the Netherlands over control of the seas from 1652 to 1654, William, who was a sailor like the Dutch sailors, William, who had been deepening his friendship with Dutch sailors as a fellow sailor, was employed as a navigator on the flagship Hope, one of a fleet of five ships that set sail from Rotterdam for the Far East, and in late June 1598 the fleet set sail from Rotterdam harbour. However, the voyage was fraught with difficulties, including the ravages of scurvy and attacks by local people at the ports of call, and William was transferred to the Liefde during the voyage, but only the Liefde of the five ships reached the Far East.
After more than a year at sea, they finally entered the Pacific Ocean, but they ran out of water and food, and the crew members fell ill one after another. The following is an excerpt from ‘Samurai William’ describing the scene at that time.
On the 12th of April 1600, more than a year and eight months after they set sail from Rotterdam, Adams woke up to see a mysterious sight. Something purplish-red could be seen on the horizon, and it became clearer as time passed. Adams called out to the crew, and helped the sick man up to the deck. At first he couldn’t believe his eyes, but he became convinced that they were nearing their goal.
The wind had been a long, weak headwind, but it suddenly changed direction and pushed the Liefde towards the land. The coastline came into view, and they could make out a section of land with cliffs, trees and temples. ‘Thus we safely dropped anchor about a league from the land called Bungo.’ Sixty years later, William Adams arrived at the very same port in Bungo.
3. An audience with the ‘great ruler’ Ieyasu
William Adams arrived in Bungo six months before the Battle of Sekigahara, when the ‘great ruler’ Hideyoshi Toyotomi died in 1598. The Nagasaki magistrate received a report from the lord of Bungo Usuki, where the Liefde had drifted ashore, and asked for instructions from Hideyori Toyotomi at Osaka Castle, but Ieyasu Tokugawa, who had already become the de facto leader of the five regents, thought he could make use of the situation, and had the ship escorted to Osaka and the crew taken on board.
The Jesuits from Spain and Portugal, who had already gained favour with Hideyoshi and Hideyori, etc., were aware that ships from the ‘Protestant’ side, which was in conflict with the ‘Catholic’ side in a struggle for supremacy in the world, from England and the Netherlands , and although they had reported that the ‘Reefde’ was a pirate ship, Ieyasu was also interested in ‘world affairs’ and seemed to have investigated the matter, and in order to keep an eye on Hideyori, who was on the side of the ‘Old Believers’, Ieyasu himself received the delegation in person.
Ieyasu was impressed by the honesty of ‘William Adams’ and ‘Jan-Joost Ten (first name) and Jan Joosten van Lodenstein (family name), because of their honesty, Ieyasu liked them and invited them to Edo, ignoring the opinions of the missionaries on the ‘Old Believer’ side who were demanding their execution.
From then on, William Adams was given a fiefdom and the status of samurai on the Miura Peninsula under the protection of Tokugawa Ieyasu, and took the Japanese name ‘Anjin Miura’. Jan Joosten (first name) van Lodenstein (family name) also took the Japanese name ‘Yayousu’, which is the origin of the name ‘Yaesu’ for the area south of Tokyo Station, and was given a house in the inner moat of Edo Castle and treated well by Ieyasu.
After that, Ieyasu had William Adams and Jan Joosten build galleon ships capable of long-distance voyages, and promoted overseas trade. After becoming the ‘great ruler’ at the Battle of Sekigahara, he sent envoys to Southeast Asian countries such as Annam (present-day Vietnam), Spanish Manila, Cambodia, Siam (Thailand) and Pattani (southern Thailand) as the ‘King of Japan’, establishing diplomatic relations. In 1604, he established the ‘shu-in-sen’ system, and large-scale overseas trade was conducted by many ‘shu-in-sen’ ships.
However, when Ieyasu died in 1616 (Genna 2), Hidetada Tokugawa became the second shogun of the Edo shogunate, which imposed a ‘national isolation system’ that restricted trade to Hirado, William Adams was treated with ill-will, and he was also watched over by shogunate retainers and the next shogun candidate, Iemitsu Tokugawa, and he died in disappointment in Hirado in 1620 (Genna 6).
It is said that this was the result of the difference in the character of Ieyasu, who thought ‘the world was his opponent’, and Hidetada, who was unable to make it in time for the decisive battle of Sekigahara, and it can be said that the resulting isolation had a major negative impact on the development of Japan in the years that followed.
4. The Keicho Sanriku Earthquake
In 1609, the governor-general of the Spanish colony of the Philippines was on his way to Mexico, which was then known as ‘New Spain’, when his ship was wrecked.
However, luckily it was before the ‘national isolation order’ was issued, so he was rescued in Japan, and Ieyasu, the ‘great ruler’ of the time, even provided the money for his return trip, and even gave him a galleon built by William Adams, who was acting as a diplomatic advisor, and sent him home.
The following year, in 1610, there was an incident in Macau involving the sinking of a Portuguese trading ship by Japanese people, known as the ‘Nossa Senhora da Graça Incident’. This was an incident in which many Japanese died when the commander-in-chief of Macau suppressed a disturbance caused by Japanese sailors on a Japanese trading ship dispatched by Harunobu Arima, the lord of Hizen Hinoe (present-day Minamishimabara City, Nagasaki Prefecture), while the ship was in port in Macau. The ship was on a voyage to the Champa Kingdom (present-day Vietnam).
This incident led to the suspension of Portuguese ships visiting Nagasaki, and also became the catalyst for the shogunate’s policy of banning Christianity. Furthermore, Father João Rodrigues, a translator who had been trusted by Ieyasu until then, was banished to Macau at the advice of the Nagasaki magistrate, and Ieyasu began to place more importance on William Adams. As a result, Spain and Portugal lost their influential contact point with the shogunate. This was a major turning point in history.
In 1611, the Viceroy of New Spain, Sebastian Vizcaino, came to Japan under the pretence of ‘giving thanks for the rescue of the shipwrecked in 1609 and repaying the expenses’, but their real aim was to negotiate the spread of Christianity. However, Ieyasu did not approve of this.
So, Viscaino asked Ieyasu to survey the coast of Japan, saying that ‘there is a risk of shipwreck in the future, and it would also be good for your country’, and for some reason Ieyasu gave his permission and issued a red seal permit.
The surveying party led by Viscaino was sailing north from Uraga when, on 2 December 1611 (28 October 1609 in the Japanese calendar), they were hit by a huge tsunami off the coast of Okirai (Okirai), a fishing village, was struck three times by huge tidal waves, which would later be known as the Keicho Sanriku Earthquake Tsunami, off the coast of Sanriku-cho, Ofunato City, Iwate Prefecture. This is what is recorded. The 2011 Tohoku earthquake and tsunami hit the same disaster-stricken area exactly 400 years after this huge Keicho Sanriku Earthquake.
Summary of this issue
The author believes that the main reason for the success of ‘SHOGUN’ this time was the great efforts and exceptional talent of the many performers and staff involved, but that the coronavirus pandemic also played a role in the background. This is because it is said that many cinemas were closed due to the covid pandemic, and people had more opportunities to watch foreign-language films and dramas via online streaming, and as a result, the sense of discomfort about watching with subtitles may have faded. In this context, there was a major boost for the Japanese film industry, with the film ‘Godzilla – 1.0’, which I also watched with great enthusiasm, winning the Visual Effects Award at the Academy Awards in the film category, the first time this award has been won by a Japanese or Asian film.
In addition, in the wider world, we are seeing more and more companies promoting ‘employee first’ policies as part of their efforts to reform the way they work, and I hear that some companies have introduced systems that allow employees to choose their own boss. This is a situation that the author could never have imagined when he first entered the workforce.
It is truly the arrival of an era that ‘recognises the value of diversity’.
The ‘shadow protagonist’ William Adams (Anjin Miura) saw the Edo shogunate undergo a major transformation after Ieyasu died in 1616 (the second year of Genna) and Hidetada Tokugawa became the second shogun. For some reason, the Edo shogunate began to enforce a ‘national isolation’ policy that restricted trade to Hirado, and as a result, William Adams, who had been an ‘advisor on overseas trade’, was treated poorly, and after that, he was watched over by the ‘narrow-minded’ Hidetada and the shogunate retainers, and in 1620 (Genna 6), he died in Hirado in despair.
Ieyasu thought about things ‘on a global scale’. Hidetada is often criticised for not being able to make it in time for the decisive battle of Sekigahara, but perhaps this was the result of the difference in ability between Ieyasu and Hidetada. Before the country was closed off, Japan had trade links with Europe and the whole of Asia, but the main reason for the 300 years of national isolation that followed and the huge negative impact on Japan’s subsequent development was the lack of vision of the leaders who succeeded each other.
In the case of companies, how many have sunk into the darkness of history due to the poor performance of the second and third generations, who inherited the business from the first generation, due to their narrow-mindedness? This year, with the issuance of the ‘Nankai Trough Earthquake Temporary Information’, it may be a ‘year of great change’ in terms of ‘earthquake risk measures’, which could have a major impact on the survival of companies.
The risk of a major earthquake is that it will not be ‘tomorrow continuing from today’. The arrival of the ‘Age of Diversity’ means that if we continue to do the same things as before, we will not be able to respond to the ‘risk of major changes in the times’. There is no guarantee that ‘insurance companies that have remained unchanged’ will be able to continue to provide sufficient compensation for the changes in the overseas London reinsurance market.
With regard to the risk of a major earthquake that could have a significant impact on the survival of a company, the times are changing, and we have entered an era of great change in which it is necessary to ‘actively confront the issue in-house’.
Rather than ‘leaving risk management entirely to insurance companies’, isn’t it time to take on ‘The authentic risk management’ by establishing a captive, and ensuring that risk management is thorough by obtaining sufficient compensation from overseas insurance markets?
I feel that the great achievement of ‘SHOGUN’ teaches us this.
Author/translator: Shinichiro Hatani