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キャプティブ 2025.04.03

CA 69 小栗上野介忠順が教えるリスクマネジメントー地震保険キャプティブ

For those who prefer to read this column in English, the Japanese text is followed by a British English translation, so please scroll down to the bottom of the Japanese text.

再来年、2027年の「NHK大河ドラマ」が発表された。主人公は、徳川幕府の幕臣、徳川発祥の地、三河以来代々の旗本であり、石高2500石という大身の家柄であった小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)である。明治維新の混沌の中「逆賊」とされたことを示すように、番組タイトルは「逆賊の幕臣」となった。

しかし、小栗上野介忠順は「逆賊」どころか、日本の近代化の礎を築き、日本の将来のため多大な貢献をした偉大な人物であるが、官軍との徹底抗戦を主張して大政奉還後、権田村(現群馬県倉渕町)に隠居したことから、愚かな「現場指揮官」の短慮で捕らえられ、烏川河原で処刑された。このNHKの大河ドラマが放映される2027年は、彼の生誕200年に当たる年である。

「『もし、小栗が存命であったなら』と多くの明治維新の元勲は考えたこと」を伺わせる資料が多く残っている。そのような偉人を「現場の短慮」で勝手に断罪、斬首したのである、現代でも同様のことが、日本でも、また新大統領の「政策」で翻弄されている米国でも起きていることである。権力を持った「頭」がその大小を問わず社会を損なっていく、諺「魚は頭から腐る」の所以である。

1.不平等条約改正への貢献

坂本龍馬が江戸の剣術修行から土佐に戻って1年有余。「安政の大獄」のうねりのなか、勝海舟、福沢諭吉などを乗せた幕府軍艦「咸臨丸」が、第一回遣米使節団が乗船した米軍艦「ボーハタン号」とともに1860年2月浦賀を離れ、38日かけて米サンフランシスコに入港した。

その様子は、「万延元年第一遣米使節日記(大正7年5月:日米協會発行)国立国会図書館デジタルコレクション」(要クリック)に詳しく記されている。

咸臨丸の「艦長」とされた勝海舟であったが、実際には航海中は船酔いで「私室にこもったまま艦長らしき仕事は、何一つできなかった」と言われている。遣米使節団の正使は新見正興、副使は村垣範正であったが、三役の一人、目付の小栗忠順は、その立居振舞から代表と勘違いされ、行く先々で取材を受け新聞にも彼の名前が載った。

1854年の日米和親条約に定められた不公平な通貨の交換比率によって、大量の金が日本から流出していた事態が続いていたことをくい止める、その通貨交換比率の見直し交渉において小栗が果たした功績は非常に大きく、後の総理大臣であり早稲田大学の創立者でもある、大隈重信が発した「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」との言葉にあるように、彼は、明治維新後日本が急速に発展する重要な基盤を築いた。

小栗は、帰国後幕府の要職を歴任、財政立て直しを指揮する一方で、近代日本の軍事力整備のために心血を注いだのが、造船所建設であった。

1863年、小栗は建設案を提出。多くの反対派を将軍徳川慶喜の力で押し切った。これが後の「徳川埋蔵金伝説」につながることになるが、当時の日本の国会財政に比して非常に巨額な240万ドルという大金(現在の貨幣価値にして約300億円)を投じて、「横須賀製鉄所」の建設を決め、1865年開始した。しかし、小栗はその完成を見ることなくこの世を去った。

1871年完成後、「横須賀造船所」と命名され、その後「横須賀海軍工廠」と改称、多くの艦艇を建造した。明治維新後、日本が初めて本格的な戦争を行ったのは日露戦争である。海軍は、当時世界最強と言われた「バルチック艦隊」と1905年5月日本海で艦隊決戦をおこない、海戦史上まれな一方的な大勝利を収めた。後に、連合艦隊司令長官であった東郷平八郎は「日本海海戦の勝利は造船所を建設した小栗氏のお陰である」と隠棲生活を送っていた遺族を捜し出し厚遇した。

作家司馬遼太郎は、これらのことからか、「『明治』という国家」(NHKブックス)」のなかで小栗上野介忠順を「明治国家誕生のための父」と評している。

2.日本海海戦から大東亜戦争(太平洋戦争)へ―戦略ドメインの逸脱

日本海軍は、情報戦が重要であると見抜き、大本営と通信可能な港に全軍を集め、バルチック艦隊の進路を把握するため海底通信ケーブルを日本周辺に張り巡らし、無線、海底ケーブル、地上有線を使った画期的な情報ネットワークを構築、朝鮮半島などからの電信が対馬経由で大本営へ送られた。

しかし、このことを可能にしたのは、「英国」が「後ろ盾」として存在したからである。当時、英国は世界の全海域に海底ケーブルを施設、ロシア海軍の動きを察知していた。そうした英国から、1902年に締結した日英同盟によって、技術、機密情報(インテリジェンス)の全面支援が受けられたからこそ実現したのである。戦後、そのことに触れた報道は一切されていない、もしこのことが報道されていれば、その後の日本も違った方向に向かって行ったのではないだろうか。

「坂の上の雲」の主人公、秋山真之(さねゆき)の「本日天気晴朗ナレドモ波タカシ…」の有名な電文も、この海底ケーブルを利用して送られたのである。現代戦でも重要な、迅速な情報の伝達をおこなう、この戦略の存在が勝利に多大な貢献をしたにもかかわらず、派手な「艦隊決戦」のみが「勝利の戦略」となった。

戦略は「成功体験」に基づいて策定されるものである。日本海軍でも同様であった。日本海海戦の大勝利を基に規範として「海戦要務令」が作られた。中心をなす思想は艦隊決戦主義であった。「戦略とは敵と離隔して我兵力を運用する兵術をいう」とある。「敵と離隔して」とは大局的に戦争をみるものではない。明治34年の制定以来5回改訂されたが、中心思想は真珠湾攻撃の勝利に航空機の大きな力があったにもかかわらず変わることは無かった。

日本海のごく一部を「戦略ドメイン」にしたにもかかわらず、広範な戦争遂行のバイブルとなった。太平洋戦争の戦場は日本を遠く離れた地である。「事業・機能戦略はすべて戦略ドメインとの整合性がなければならない」にも関わらず、戦略ドメインを無視して戦場を広げていった咎は、「兵站」(兵員、武器、糧食等の補給輸送)の破たんという太平洋戦争敗戦の最大の要因をつくったのである。

企業でもよく使われる戦略という言葉は、その名のとおり、もともとは軍事用語である。経営学がまだ企業内管理と同義語であった1960年代、「企業戦略論」(Corporate Strategy)を著し「戦略(ストラテジー)」を経営学に持ち込んだのは、米国の戦略経営論の創始者イゴール・アンゾフであった。その後、「企業戦略」という概念は多くの支持を受け世界各国の企業で採用されている。

3.南海トラフ地震への「備え」

一昨日、2025年4月1日の日本経済新聞(朝刊)の3面には、「南海トラフ被害292兆円」の大見出しに続いて、「政府新想定で悪化 インフラ老朽化・減災遅れ 死者29.8万人、津波浸水は3割拡大」とある。

記事は「政府の作業部会は3月31日、南海トラフ巨大地震の被害想定を新たにまとめたが、経済被害は最大292兆円超に上り、前回2013年の想定(約220兆円)から悪化した。インフラの老朽化が被害を拡大させ、建物の耐震化など人命に直結する対策も計画通りに進んでいない。国の存立に関わる事態と捉え、備えを充実させる必要がある。」と続き、更に「脱線防止・早期の電力復旧 企業は備え急ぐ」の小見出しに「南海トラフ巨大地震が発生すると、インフラや企業活動への影響は深刻だ。企業は耐震工事の促進や、事業継続計画(BCP)の見直しを通じて、平時から備えを進める。」とある。

果たしてそうであろうか。本当に企業は「備えを急いでいる」のであろうか。その企業戦略を有しているのであろうか。しかし、記事のどこにも、「南海トラフ地震への『備えに必要な原資』そして更に重要なことに、『災害後の復興の原資』」についての記述が無い。普通の規模の災害ではない、日本の浮沈にかかわるような、「日本の国家予算の2.5倍と推定される巨大災害リスク」である。日本の企業のどこに「事前・事後」への戦略と原資が「備蓄されている」のだろうか。

「地震保険がある」との声が聞こえてくる。しかし、日本最大の損害保険会社の総資産は2024年末で「10兆7896億円」である。日本に存在する3メガ損保の資産を合計しても30兆円にも届かない。無論、損害保険会社はこのような巨大な災害への備えにも対応できることを考えて、ロンドン再保険市場等への「再保険」の手配をおこなっている。

しかし、そもそも「日本の損害保険会社が手配できる地震保険の引受可能額が、果たして南海トラフ地震への備えにどれくらいの割合で寄与できている」のだろうか。南海トラフ地震の被害想定額と損害保険会社が有しているであろうと推定できる地震保険の再保険の規模を比較すると、長年損害保険業界に携わってきた筆者の眼からは、残念ながらその割合はかなり低いということが読み取れてしまうのである。

さらに、根本的な問題としては、「日本企業のどのくらいの割合の企業が地震保険を手配しているのか」ということが挙げられる、「なんとかなる」というレベルの損害予想額ではないにも関わらず。

「1854年の日米和親条約に定められた不公平な通貨の交換比率によって、大量の金を日本から流出させた愚策を進めた徳川幕府首脳」と「十分な保険金額を有し自社の損害を十分補償ヘッジできる地震保険の備えをしていない企業の経営陣」の姿がダブって見えるのは筆者だけであろうか。

今回のまとめ

リスクマネジメントをおこなうに際して、その責任者に必要な能力は「リスクへの感性」である。もし、任に当たるリスクマネジメントの統括責任者であるリスクマネージャーにその感性が欠如していた場合、リスクマネジメントは、「絵に描いた餅」となる。

欧米ではリスクの予知、判断、対処等、リスクに対して鋭敏に対応する企業戦略が多く見られる。「いざ」という時にこの差が大きな違いとなる。長く「幕藩鎖国体制」ともいうべき、通産省・経産省が主導する「護送船団体制」にあった日本の産業界でも、企業戦略のどこかに、昨今破綻した、日本の世界的な企業が露呈したような「リスクに対する受け身の戦略」が残ってはいないだろうか。

「バブル崩壊」からの「失われた30年」という言葉に、「もっと積極的に早く手を打つべきではなかったか」という思いを感じる。南海トラフ地震は、このバブル崩壊の何十倍ものマグニチュードで日本を襲うことは、今般の政府の発表でも明らかである。しかし、今回の政府発表が有っても、日本企業の多くは目先の「トランプ関税」騒動で大わらわの様相を呈していると感じる。

1980年代、「Japan as No.1」と評された日本、その時代を再び取り戻すためには、小栗上野介忠順がおこなったように、リスクマネジメントにおいても海外に積極的に範を求め、交渉して、リスクに鋭敏な企業戦略を取り入れるように舵を切るべき時がいまではないだろうか、目の前に存在する「超巨大なリスク」、「南海トラフ地震への真の『備え』」のために。

その方法は、現在、世界的な再保険会社、再保険市場のサポートをキャプティブ・プログラムの形で求めるしか無いのである、被害予想額292兆円に対して、日本のメガ損保3グループ合わせても総資産額はその10分の1程度しか無い現実が存在するからである。日本一国で対処できる規模では無く、全世界のサポートが必要なレベルの大災害なのである。

「29.8万人との犠牲者予測」、その実に3分の1が予測されている県が静岡県である。2022年末、静岡県は「犠牲者は国の予想より8割減で2万2千人」と発表していたが、今回の政府発表では10万3千人とされている。

今回の政府発表を受けて各メディアは様々に報道しているが、その静岡県で、静岡放送(SBS)が政府発表の翌日、4月1日の夕刻ニュース番組でなぜ?こんなに違う…南海トラフ巨大地震“新被害想定” 静岡の死者数 国は「10万3000人」県は「2万2000人」理由は“前提条件”」と題した秀逸な報道をした。⇒ https://www.youtube.com/watch?v=VpbqC2eaPPU

この番組中、「静岡県は日本の地震対策をリードしてきてくれた県」と今回の政府発表の総責任者である、中央防災会議、南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ主査である、福和伸夫名古屋大学名誉教授は評している。SBSの報道を見ても、まさに「リスクマネジメントの世界で全国をリードする県」の面目躍如と感じる。

「ノーベル賞候補」と評された世界的な物理学者、寺田寅彦の有名な言葉に、「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉がある。果たして、日本全国は?他の県は?南海トラフ地震が起きてから、またぞろ、「想定外」との言葉を発するのだろうか?

「誰が『失われた30年をつくった』のか、眼を覚ませ、眼前の大災害リスクに対処せよ」、「Japan as No.1」のレベルまで日本の産業界を牽引、すでに鬼籍に入った大物経営者達は、現代にそう雷を落とすのではないだろうか。

執筆・翻訳者:羽谷 信一郎

English Translation

Captive (CA) 69 – Risk Management Lessons from Oguni Kozukenosuke Sadamasa – Earthquake Insurance Captives

The NHK Taiga historical drama for 2027 has been announced. The main character is Oguri Kozukenosuke Tadamasa, a retainer of the Tokugawa Shogunate, a direct descendant of the Tokugawa family from Mikawa, and a member of a family with a large rice tax of 2,500 koku. The programme title is ‘The Retainer of the Reverse Rebel’, indicating that he was considered a ‘rebel’ in the chaos of the Meiji Restoration.

However, rather than being a ‘rebel’, Oguri Kozukenosuke Tadamasa was a great man who laid the foundations for the modernisation of Japan and made a great contribution to the future of Japan, but after insisting on a total standoff with the government forces and the return of power to the Emperor, he retired to Gonda Village (now Kurabuchi Town, Gunma Prefecture), where he was captured by the short-tempered folly of a foolish ‘field commander’ and executed on the banks of the Karasu River. The year 2027, when this NHK historical drama is broadcast, will be the 200th anniversary of his birth.

There are many documents that suggest that many of the Meiji Restoration leaders thought, ‘What if Oguri were still alive? Such a great man was arbitrarily condemned and beheaded by “short-sightedness on the spot”. The same thing is happening in Japan and in the United States, which is being tossed around by the “policies” of the new president. The proverb ‘a fish starts to go bad at the head’ refers to the way that heads in positions of power, regardless of their size, can damage society.

1. Contributions to the revision of unequal treaties

It had been a little over a year since Ryoma Sakamoto returned to Tosa from his sword training in Edo. Amidst the turmoil of the Ansei Purge, the Bakufu warship ‘Kanrin Maru’, which carried Kaishu Katsu and Yukichi Fukuzawa, left Uraga in February 1860 together with the American warship ‘Bohtan’, which carried the first Japanese delegation to the US, and after 38 days, arrived in San Francisco.

The details of the voyage are recorded in theDiary of the First Japanese Mission to the United States in 1860 (published by the Japan-America Society in May 1918) National Diet Library Digital Collection(click to view).

Katsu Kaishu was said to be the ‘captain’ of the Kanrin Maru, but in reality, it is said that he was seasick during the voyage and ‘was unable to do any of the work of a captain while confined to his private quarters’. The official leader of the delegation to the US was Niimi Masaoki, and the vice-leader was Muragaki Norimasa, but one of the three officials, Oguri Tadjun, was mistaken for the leader due to his behaviour, and he was interviewed at every stop and his name appeared in the newspapers.

Oguri’s achievements in the negotiations to revise the currency exchange ratio, which was designed to stop the continuing outflow of large amounts of gold from Japan due to the unfair currency exchange ratio stipulated in the 1854 Treaty of Peace and Amity between the United States and Japan, were extremely significant, and as the words of Shigenobu Okuma, who was later to become Prime Minister and the founder of Waseda University, ‘The Meiji government’s modernisation policy was little more than a copy of Oguri Tadjun’s ideas’ indicate, he laid the important foundations for Japan’s rapid development after the Meiji Restoration.

After returning to Japan, Oguri held a number of important positions in the shogunate, and while he oversaw the rebuilding of the shogunate’s finances, he also devoted his heart and soul to the construction of a shipyard to develop the military strength of modern Japan.

In 1863, Oguri submitted a construction plan. He overcame many opponents with the help of the shogun Tokugawa Yoshinobu. This would later lead to the legend of the Tokugawa buried treasure, but he decided to build the Yokosuka Ironworks, investing a huge sum of money – 2.4 million dollars (about 30 billion yen in today’s money) – which was a huge amount compared to the finances of the Japanese Diet at the time, and construction began in 1865. However, Oguri passed away before he could see its completion.

After its completion in 1871, it was named the Yokosuka Dockyard, and later renamed the Yokosuka Naval Arsenal, where many warships were built. After the Meiji Restoration, Japan’s first full-scale war was the Japan-Russia War. The navy engaged in a decisive naval battle with the Baltic Fleet, which was said to be the strongest in the world at the time, in the Sea of Japan in May 1905, and achieved a rare one-sided victory in naval history. Later, Admiral Heihachiro Togo, who was the Commander-in-Chief of the Combined Fleet, said, ‘The victory of the Battle of Tsushima was thanks to Mr. Oguri, who built the shipyards,’ and he searched out the family of Mr. Oguri, who was living in seclusion, and treated them well.

Perhaps because of this, the writer Ryotaro Shiba, in his book ‘Meiji: The Nation’ (NHK Books), described Oguri as ‘the father of the Meiji nation.’

2. From the Battle of the Japan Sea to the Greater East Asia War (Pacific War) – Deviation from the Strategic Domain

The Japanese Navy realised the importance of information warfare, and gathered all its forces in ports where they could communicate with the Imperial General Headquarters, laid undersea telegraph cables around Japan to ascertain the course of the Baltic Fleet, and constructed a revolutionary information network using wireless, undersea cables and land-based cables, with telegrams from the Korean Peninsula and elsewhere being sent to the Imperial General Headquarters via Tsushima.

However, what made this possible was the existence of the ‘British Empire’ as a ‘backing’. At the time, the British Empire had laid submarine cables in all the world’s oceans, and were able to detect the movements of the Russian Navy. It was only through the Japan-British Alliance signed in 1902 that Japan was able to receive full support in terms of technology and intelligence from the British Empire. There was no mention of this in the media after the war, and if this had been reported, perhaps Japan would have taken a different path.

The famous telegram from the main character in ‘Saka no Ue no Kumo’, Saneyuki Akiyama, ‘Today the weather is clear, but the waves are high…’ was also sent using this submarine cable. Despite the fact that this strategy, which was crucial for the rapid transmission of information in modern warfare, made a significant contribution to victory, only the spectacular ‘battle of the fleets’ became the ‘strategy of victory’.

Strategies are formulated based on ‘successful experiences’. The same was true of the Japanese Navy. The ‘Naval Battle Regulations’ were created based on the great victory of the Battle of Tsushima. The central idea was the principle of the battle of the fleets. It says, ‘Strategy is the art of operating one’s military forces while keeping a distance from the enemy.’ Keeping a distance from the enemy’ does not mean viewing the war from a broad perspective. It has been revised five times since it was first enacted in 1901, but the central idea has not changed, despite the great power of aircraft in the victory of the attack on Pearl Harbor.

Even though a small part of the Sea of Japan was designated as a ‘strategic domain’, it became the bible for the conduct of a wide-ranging war. The Pacific War was fought far from Japan. Despite the fact that ‘all business and functional strategies must be consistent with the strategic domain’, the fault of ignoring the strategic domain and expanding the battlefield was the main cause of the defeat in the Pacific War, which was the collapse of ‘logistics’ (the supply and transport of troops, weapons, food, etc.).

The word ‘strategy’, which is often used in business, is, as the name suggests, originally a military term. In the 1960s, when business administration was still synonymous with internal management, it was Igor Ansoff, the founder of strategic management theory in the United States, who introduced the concept of ‘strategy’ into business administration with his book ‘Corporate Strategy’. Since then, the concept of ‘corporate strategy’ has gained widespread support and been adopted by companies around the world.

3. Preparing for a Nankai Trough Earthquake

The front page of the Nihon Keizai Shimbun (morning edition) of the day before yesterday, 1st April 2025, had a large headline reading ‘Nankai Trough Damage: 292 Trillion Yen’, followed by the article ‘Worsening under the government’s new assumptions: infrastructure ageing, disaster reduction delayed; 298,000 dead, tsunami inundation expands by 30%’.

The article continues, ‘On 31 March, a government working group compiled a new estimate of the damage that would be caused by a major earthquake in the Nankai Trough, and the economic damage was found to be as high as 292 trillion yen, a deterioration from the previous estimate of 220 trillion yen made in 2013. The ageing of infrastructure is increasing the damage, and measures that directly affect human life, such as making buildings more earthquake-resistant, are not progressing as planned. We need to view this as a situation that could threaten the existence of the nation, and improve our preparations.’ It continues with the sub-heading ‘Preventing derailments and restoring power quickly: Companies are rushing to prepare’, which says ‘If a huge earthquake occurs in the Nankai Trough, the impact on infrastructure and business activities will be serious. Companies are promoting earthquake-proofing work and reviewing their business continuity plans (BCPs) to prepare for the worst from day-to-day.’

Is this really the case? Are companies really “rushing to prepare”? Do they have that kind of corporate strategy? However, nowhere in the article is there any mention of ‘the funds needed to prepare for the Nankai Trough earthquake’ or, more importantly, ‘the funds needed for post-disaster recovery’. This is not an ordinary-scale disaster, but a ‘huge disaster risk estimated to be 2.5 times the size of Japan’s national budget’, which could affect the rise and fall of Japan. Where are the strategies and funds for ‘before and after’ being ‘stored’ in Japanese companies?

We hear people say, ‘There’s earthquake insurance’. However, the total assets of Japan’s largest non-life insurance company at the end of 2024 were ‘10.7896 trillion yen’. Even if you add up the assets of the three largest non-life insurance companies in Japan, it still doesn’t reach 30 trillion yen. Of course, non-life insurance companies are making arrangements for ‘reinsurance’ with the London reinsurance market, etc., with the idea that they can also respond to such huge disasters.

But to begin with, ‘how much of the earthquake insurance that Japanese non-life insurance companies can arrange is actually contributing to preparations for the Nankai Trough earthquake? When you compare the estimated amount of damage from the Nankai Trough earthquake with the scale of earthquake insurance reinsurance that non-life insurance companies are thought to have, the author, who has been involved in the non-life insurance industry for many years, is unfortunately able to see that the ratio is quite low.

Furthermore, the fundamental problem is that ‘what percentage of Japanese companies have arranged earthquake insurance?’ Even though the expected amount of damage is not at a level where it can be ‘managed’,

Am I the only one who can’t help but see a similarity between the leaders of the Tokugawa shogunate, who pursued a foolish policy that caused a huge outflow of gold from Japan due to the unfair currency exchange ratio stipulated in the 1854 Treaty of Amity and Commerce between the United States and Japan, and the management of companies that do not have sufficient insurance coverage to hedge against the risk of earthquake damage?

Summary of this issue

When it comes to risk management, the most important quality for those in charge is a ‘sensitivity to risk’. If the risk manager, who is in charge of overseeing risk management, lacks this sensitivity, then risk management will be nothing more than a ‘pie in the sky’.

In Europe and America, we often see corporate strategies that are highly sensitive to risk, including risk prediction, judgement and response. This difference can make a big difference in a crisis. Even in Japanese industry, which has long been in a ‘convoy system’ led by the Ministry of International Trade and Industry (now the Ministry of Economy, Trade and Industry), which could be called a ‘bakuhan sakoku system’ (a system of isolation of the shogunate from the outside world), is there perhaps a ‘passive strategy towards risk’ that has been left somewhere in corporate strategy, as was exposed in the recent collapse of Japanese global companies?

The phrase ‘the lost 30 years since the collapse of the bubble economy’ makes me think that perhaps we should have taken more proactive action sooner. It is clear from the latest government announcement that the Nankai Trough earthquake will hit Japan with a magnitude many tens of times greater than the collapse of the bubble economy. However, even with this latest government announcement, I feel that many Japanese companies are still preoccupied with the immediate issue of the ‘Trump tariff’ fuss.

In the 1980s, Japan was described as ‘Japan as No.1’. In order to return to that era, now is the time to take the helm and adopt a corporate strategy that is sensitive to risk, as Oguri Ueno Suketada did, by actively seeking examples overseas and negotiating with them in risk management, in order to deal with the ‘super-giant risk’ that exists before us and to ‘truly prepare’ for the Nankai Trough earthquake.

The only way to do this is to seek the support of global reinsurance companies and the reinsurance market in the form of a captive programme, because the reality is that even the three mega non-life insurance groups in Japan have a total asset value of only about one-tenth of the estimated damage of 292 trillion yen. This is a disaster of a scale that cannot be dealt with by Japan alone, and requires support from the whole world.

The ‘predicted death toll of 298,000 people’ includes 1/3 of the predicted deaths in Shizuoka Prefecture. At the end of 2022, Shizuoka Prefecture announced that the death toll would be 22,000, 80% less than the national government’s prediction, but the latest government announcement puts the figure at 103,000.

In response to the government’s announcement, the media have been reporting on the matter in various ways, and in Shizuoka Prefecture, Shizuoka Broadcasting System (SBS) broadcast an excellent news report on the evening news programme on 1st April, the day after the government’s announcement, entitled ‘Why is there such a difference? New damage estimates for the Nankai Trough mega-quake: Shizuoka Prefecture’s death toll: 22,000, the government’s: 103,000. The reason is the “assumptions”’. https://www.youtube.com/watch?v=VpbqC2eaPPU

In this programme, Nobuo Fukuwa, Professor Emeritus at Nagoya University and the person in overall charge of the government’s announcement, who is also the leader of the Working Group on Countermeasures for a Nankai Trough Mega Earthquake at the Central Disaster Prevention Council, commented that ‘Shizuoka Prefecture has been leading earthquake countermeasures in Japan’. Even from the SBS report, it is clear that Shizuoka Prefecture is indeed ‘a prefecture that leads the nation in the field of risk management’.

The world-renowned physicist Torahico Terada, who was described as a ‘Nobel Prize candidate’, is famous for the words ‘Natural disasters strike when you least expect them’. I wonder if the whole of Japan, or other prefectures, will once again say ‘unexpected’ after the Nankai Trough earthquake?

“Wake up and deal with the risk of a major disaster right in front of you. The great business leaders who led Japanese industry to the level of “Japan as No.1” and have already passed away may be saying this to us today.

Author/translator: Shinichiro Hatani