企業戦略 2020.07.12
CS12 英国で始まった「薩長同盟」The Satsuma-Choshu alliance began in England
For those who prefer to read this column in English, the Japanese text is followed by a British English translation, so please scroll down to the bottom of the Japanese text.
このところ、世界各地で日本の戦国時代に関する新たな発見が相次いでいる。それらを紐解いていくと、日本の戦国時代は、単なる日本国内の争いではなく、ヨーロッパと日本が強く結びつき「世界的規模の覇権争い」の最前線を呈した時代であり、世界的視点から日本の歴史が展開を見せた時代であった事実が明らかになってきた。このことを背景に制作され、最近放送された「NHKスペシャル」(戦国~激動の世界と日本~)は、「戦略(企業戦略)」に関して非常に秀逸な示唆を与える番組であった。
今迄の歴史観では、「戦国時代は日本国内の争い」である。しかし、「世界」という視野で見ると、世界の覇権を争う国同士の戦いに日本が巻き込まれ、その影響下で日本の歴史が大きく展開を見せた、それが「戦国時代」であったと言える。
1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」、そして1614年(慶長19年)から1615年(慶長20年)の「大坂(冬・夏)の陣」、これらの背後には、世界の植民地から得る豊富な銀を背景に、当時世界最大の帝国となった「スペイン」、そしてスペインの銀の独占を切り崩したいと考える「東インド会社」を有する新興貿易国家「オランダ」、この2国の世界の覇権争いが、当時、世界の3分の1の産出量を誇った日本の「銀」を巡って起きていたということであった。つまり、日本の戦国時代とは、単に徳川、豊臣の戦いではなく、世界の覇権国家が日本を舞台にして、「世界初の国際通貨」として誕生した「銀貨」を巡る争いでもあったのである。
配下に多くの有力キリシタン大名を抱え、スペインの「宣教師」と密接な関係を保っていた豊臣秀頼に対して、関ヶ原の戦いを制し既に「天下人」となっていた徳川家康には、オランダ船「リーフデ号」に乗り込み、航海長であった英国人ウイリアム・アダムス(三浦按針)とともに1600年豊後(大分県)に漂着、その後徳川家康に信任され、現在の地名「八重洲(やえす)」の元となった「江戸城内堀沿い」に屋敷をあてがわれた、オランダ人ヤン・ヨーステン(耶揚子(やようす))を介して、オランダが関係を深く構築していった。後年、鎖国のなか唯一海外に門戸を開いていた長崎の出島はオランダ東インド会社が管理、対オランダ貿易のみが明治初期まで続いた背景はここにある。
秀頼、淀君を震撼させ「大坂冬の陣」の勝敗を決定づけた、当時世界最高峰の威力を有したオランダ製の最新式の大砲12門は、戦いの1週間前にオランダ東インド会社の手によって日本に到着。戦いの最中、家康のもとへ運ばれ、日本製の大砲の射程距離を遙かに超え、非常に威力のある弾が大阪城に撃ちこまれ、和議を引き出す大きな原動力となったのである。
また、豊臣方の大坂城下では「火縄銃の弾」の生産がおこなわれていたが、それを可能にした原料の鉛を海外から提供したのは、スペインと繋がるキリシタンの商人であった。
このように、戦国の日本はまさに「世界史の最前線」であった。250年の太平を経て、国を「スペイン、オランダ」から「英、仏」に変え、日本の幕末に再度「世界史の最前線」が展開した。「戦国」、「幕末」という時代は、単なる日本国内の勢力争いではなく、世界の列強が日本を舞台に世界の覇権を争った時代なのである。
1.薩英戦争
関ヶ原の戦いで敗れた毛利家は、8カ国実石高200万石から2カ国36万石に領土を減らされた。こうして誕生した長州藩では、江戸時代を通じて倒幕が国是となり、毎年新年になると家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、「時期尚早」と答えるのが習わしだったと言われている。
同様に西軍に与しながら、九州の突端という地政学的なこともあって取り潰せなかった薩摩島津家。徳川家康は取り潰せなかったことを後悔して、晩年「敵は西から来る」と言ってやまなかったという。家康の懸念どおり、西軍に与した、薩摩、長州が260余年後、薩長同盟を結んで倒幕の戦いを起こしたのは時の必然であろう。
1862年(文久2年)9月、生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦) に差し掛かった、薩摩藩主島津茂久の父、久光の行列に、騎乗した英国人4人が乱入、供回りの藩士が3名を殺傷した事件が起きた。生麦事件である。幕末の不平等条約、日英修好通商条約によって治外法権が認められていた英国は、幕府に対して「公式の謝罪と罰金10万ポンド」、そして薩摩藩に対しても、「犯人の処刑と賠償金2万5,000ポンド」を要求した。
翌年6月、幕府から賠償金10万ポンドを受け取った英国は薩摩に艦隊を差し向け交渉に出向いたが不調に終わり、「薩英戦争」の火蓋が切られた。想定以上の反撃を受け甚大な被害を出した英国艦隊は、2日後横浜に戻ることになり、10月に講和。薩摩藩は、2万5,000 ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払ったが、この借用金は幕府に返納されず、講和条件の一つであった犯人の処刑も「逃亡中」とされ行われなかったが、この戦争は歴史の大きな転換点となった。
以降、英国は薩摩藩の軍事力を高く評価、従来の徳川幕府支持の方針を転換、薩摩藩との関わりを強めていき、同様に、薩摩藩も欧米の兵器の優秀さを理解して攘夷を撤回、英国 との友好関係を深めていくことになったからである。
2. 英国での薩長の邂逅
1863年(文久3年)6月の薩英戦争、その1カ月前、5人の若者が密かに横浜港から英国に向けて出航した。派遣したのは長州藩、過激な尊王攘夷の藩が、幕府の禁制を犯してまで外国の情報を得ようと送り出したのである。後年「長州五傑(長州ファイブ)」と呼ばれた、井上馨(後の初代外務大臣)、遠藤勤助(造幣事業の父)、山尾庸三(東京大学工学部の創立者)、伊藤博文(初代内閣総理大臣)、井上勝(鉄道の父)であった。
当時、イギリスはビクトリア朝時代の最盛期である。産業革命は頂点に達し、「鉄と石炭の時代」「鉄道の時代」と呼ばれ、人々の暮らしも急速に近代化が進んでいた。ロンドン市街を地下鉄が初めて走ったのも、この年である。当時の日本と英国の「文明開化」の度合いが如何に違っていたか。5人が寄宿したのは、UCL(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン:現在の「ロンドン大学」の最古カレッジ)の化学教授、ウィリアムソン博士宅であった。英国学士院会員で、ロンドン化学協会の会長という要職にあり、偏見の無い国際的な視野の持ち主であったため、日本人の寄宿先に選ばれたようである。
彼らは、ウィリアムソン博士夫妻から英語を学んだが、その上達は驚くほど早く、しばらくすると辞書を片手に、夫妻に質問しながら新聞が読めるほどになったと言われている。博士の紹介によって、UCLに法文学部聴講生という資格で入学が許され、「ロンドン大学の初めての日本人留学生」となったのである。長州藩への報告のため、彼らはロンドン市街を積極的に見て歩いた。国会議事堂や大英博物館をはじめ、図書館、上下水道、病院、公園、銀行、郵便局、劇場など、当時世界で最高に繁栄、進化した文明国であった英国から多くのものを学んだのである。
2年後、長崎グラバー商会の斡旋で、薩摩藩からの留学生達がロンドンに到着した。薩摩藩の一行は留学生15人(町田民部・畠山丈之助・村橋直衛・名越平馬・市来勘十郎・中村宗見・田中静洲・東郷愛之進・鮫島誠蔵・吉田己二・森金之丞・町田申四郎・町田清蔵・磯長彦輔・高見弥一)、視察員4人(新納刑部・松木弘安・五代才助(友厚)・堀壮十郎)の計19人であった。
この頃、薩摩藩と通じていた長崎グラバー商会のライル・ホームは、ケンジントン・ガーデン近くの路上で偶然、長州藩からの密留学生、遠藤勤助、山尾庸三、井上勝の3名に会った。ライル・ホームの仲介で彼らが薩摩藩留学生のベーズ・ウオーター・ロードにある宿舎を訪ねたのは7月、禁門の変以来の仇敵同士が、「薩長同盟の締結」より遡ること9 カ月前、異国で相まみえることになったのである。筆者がロンドンに出張する際、長年定宿にしてきた、ハイドパークに面したランカスター・ゲートのホテル付近の場所であった。
仏国への対抗戦略上、薩長同盟を既に視野に入れて両藩を支援する体制を整えつつ あった英国は、生麦事件で日本側に強い要求をしたラッセル外相が、直々に、長州藩の密留学生、遠藤勤助、山尾庸三、井上勝と会談した。外国船を砲撃した理由を訊ね、「長州藩の目的は大政を奉還し、祖国に平和と秩序を回復、そして改めて諸外国と条約を締結することにある」との返答を得た。
これは、英国の対日外交政策を決定するうえで非常に重要な情報であり、当然ながら、駐日公使オールコックの長州藩に対する強硬姿勢も変化していった。日本においても、土佐の中岡慎太郎や坂本龍馬も薩長同盟に向けて動きを加速していたが、こうした日本での動きと連動するかのように、英国では長州藩と薩摩藩の留学生たちが同朋意識にめざめ、さらに親交を深め、結束を強めていった。そして、帰国後、この結束が新しい日本を創る大きな原動力となっていったのである。
ロンドン大学で学ぶにうちに山尾庸三は、イギリス北部スコットランド地方のグラスゴーに行き、近代工業を学びたいと思うようになっていた。産業革命発祥の地であるグラスゴーは、当時世界一の造船と工業の町であった。多くの造船所が林立し、1年に2万トン分の船が建造され、その建造量は全世界の2割を占めていた。また、鉄や石炭といった原料が豊富に掘り出され、これらの製品はクライド川の水運を利用して、世界中に輸出されていた。
しかし、長州藩からの仕送りはまったく無く、山尾はその夢を断念せねばならなかった。ところが、薩摩藩からの留学生達が、山尾の旅費16ポンドを用立ててくれた。これにより山尾は1865年(慶応元年)秋、念願のグラスゴーで学ぶことができたのである。
長州藩と薩摩藩は、1863年の「文久三年八月十八日の政変」で対立して以来、犬猿の仲である。にもかかわらず留学生たちは、ロンドンでは肩を寄せ合い、協力しながら生活していたようだ。日本で薩長同盟が締結されたのは、1866年(慶応2年)1月のことである、その2年前には、彼らは海外に居たおかげで、「藩士」という立場から、既に一段高い、「日本人」という視点を身につけていたのである。
後列:左ー遠藤謹助(28歳)、中央ー井上勝 (21歳)、右ー伊藤博文(23歳)、
前列:左ー井上馨(29歳)、右ー山尾庸三(27歳)
Back row: Left – Kinsuke Endo (28), Center – Masaru Inoue (21), Right – Hirobumi Ito (23)
Front row: left – Kaoru Inoue (29), right – Yozo Yamao (27)
3. 企業戦略の構築手法
我々は往々にして、ある事柄について一定の方向・レベルからしか見ないことがある。現下のコロナ・ウイルスの感染拡大に関しても同様である。「人から人へ感染することを防ぐため『三密』を避けること」が、政府や地方自治体によって広く推奨されている。しかし、ウイルスは人の体内から出たらすぐに不活性化して威力をなくす訳では無く、モノの上に存在し続けるという視点が無視されていることが未だに感染拡大が止まらない理由であると筆者は考えている。
世界保健機関(WHO)は、当初「マスクの着用は意味が無い」と言いその推奨をしなかった。しかし、数多くの国、地域でマスクが着用され「感染拡大にある程度の歯止めがかった」のを見たためか、後にこれを訂正した。
「ウイルスはモノの表面では生き続けること」を重要視せず、「三密」の防止ということしか推奨されていない。しかし、ウイルスは、殺菌効果の強い「銅」の上でさえ、4時間、段ボールのような多孔性のモノの上では24時間、さらに表面が滑らかなモノの上、ステンレスやプラスティック、ビニール等の上では数日から1週間程度活き続けるのである。
このような視点に立った「モノを媒介にした感染防止策の推奨」を、なぜ、国、地方自治体はしないのであろうか。郵便局や宅配便の拠点で感染が多く発生している事実を知っているはずなのに、なぜこういう対応策を人々に伝えないのであろうか。「人から人への感染」だけではなく、「人から人へ、『モノを介した感染』の防止策」を強く推奨すべきであると筆者は考えている。
企業戦略の策定も、このように構築すると「新型コロナ対策」と同じで、「死角」が大きくなる。したがって、戦略の構築に際しては、視点(どこを見るか)、視座(どこから見るか)、そして視野(どこまで見るか)、この3つのポイントで事象を綿密に分析して戦略を構築することが肝要である。
薩長同盟という明治維新を大きく前進させた出来事も、日本国内ではなく、英国の視座で見ると、「なぜ、薩摩と長州が親しくなったのか」ということが理解できる。薩長同盟、明治維新を成し遂げ、近代日本を確立した「力の根源」が英国にあり、あたかもコンパスのように、その軸足をロンドンにおいて、日本でその力が回転したのである。それが明治維新であり、日本の近代化であったのである。
企業戦略の構築においても、視座をステークホルダーすべてに置く必要性を「英国での薩長同盟」は教えてくれているのではないだろうか。
今回のまとめ
企業戦略の策定で最も重要な要素は、「どの範囲」を見るかという「視野」であろう。「世界」なのか、「アジア」なのか、それとも「日本だけ」なのか、はたまた「日本のなかの特定地域」だけなのか。上記のように、日本だけを見ていたら理解できない動きと結果も、「世界」という視野で見たらよく理解できることが多い。企業戦略の策定に於いても同様である。
「日本」という視野では「仇敵同士」が、視野を「世界」に拡げると「同盟関係」になっていることは、上記の「薩長」の例だけでなく数多く存在する。企業戦略の策定に於いて重要なことは、このような「プラスのベクトルを得ることができる『視野』に企業戦略の戦略範囲を置くこと」ではないだろうか。
全世界をいま襲っているコロナ禍、この大きな試練を企業がどう活かすか、活かさないかによって、その企業の企業生命の長さも強さも決まっていくであろう。「この災禍を自社にとって有用な方向に活かすこと」ができれば、「企業業績へ大きな浮揚の力」を得ることができるであろう。
先週再放送されたNHKの連続テレビ小説「エール」の舞台は、主人公の妻の実家であった。家業は「馬具を製作販売」していた。したがって、主要顧客は「陸軍の騎兵連隊」であった。しかし、騎兵は戦車に替わった現代、どれほどの会社が馬具を制作しているのであろうか。
こういう世の中の流れを的確に見据えて「ビジネスモデル」を大きく変更、新たな分野で超一流の会社となっていった企業も多い。仏のエルメスは、そのロゴマークに名残りがあるが、「エール」の現在の舞台と同様、元は馬具工房であった。しかし、自動車の台頭による馬車の衰退を予見して、鞄や財布など従来の技術を活かせる事業に進出、ファッション産業に業態転換して世界的名声を得ている。
「危機」をただの危機とみるかそれともビジネスモデル変革のチャンスと捉えるか、戦国時代、豊臣秀頼は「火縄銃」にのみ固執して、徳川軍を遙かに上回る火縄銃を揃えた。雨あられと降ってくる「火縄銃の弾」に徳川軍は苦戦した。そこで徳川家康は、「火縄銃から大砲へ」と「戦略原型」を大幅に変更、そして勝利したのである。この歴史の一幕に学ぶことは、極めて多いのではないだろうか。
執筆・翻訳者:羽谷 信一郎
English Translation
Corporate Strategy 12 – The Satsuma-Choshu alliance began in England
In recent years, new discoveries about Japan’s Warring States period have come to light one after another around the world. These discoveries have revealed that the Warring States Period in Japan was not simply a domestic struggle within Japan, but an era in which Europe and Japan were strongly linked and at the forefront of a “global struggle for supremacy,” an era in which Japan’s history unfolded from a global perspective. It was against this backdrop that the recently aired “NHK Special” (Warring States: The Turbulent World and Japan) was an excellent program on “strategy (corporate strategy)”.
Until now, the historical perspective has been that the Warring States period was a period of domestic strife in Japan. However, if we look at it from a global perspective, we can say that the Warring States Period was an era in which Japan was involved in battles between countries vying for global hegemony, and Japan’s history unfolded greatly under the influence of these battles.
The “Battle of Sekigahara” in 1600, and the “Battle of Osaka (winter and summer)” from 1614 to 1615, were behind the “Spain”, which became the largest empire in the world at the time, and the desire to break the Spanish monopoly on silver, backed by the abundance of silver obtained from the world’s colonies. The Netherlands, an emerging trading nation with the East India Company, and Japan, which at the time boasted one third of the world’s silver production, were engaged in a battle for global hegemony. In other words, the Warring States period in Japan was not simply a battle between the Tokugawa and Toyotomi, but also a battle between the world’s hegemonic powers over the silver coin, which was created in Japan as the world’s first international currency.
While Toyotomi Hideyori had many influential Christian daimyos under his command and maintained close ties with Spanish “missionaries,” Tokugawa Ieyasu, who had won the Battle of Sekigahara and had already become “The Ruler of Japan.” The Dutchman Jan Joosten (Yaesu) and, the Englishman William Adams (Miura Anjin), the captain of the voyage, were on the Dutch ship “Liefde”, which drifted to Bungo (Oita Prefecture) in 1600. The Dutch established deep relations with Japan through the Dutchman Jan Joosten, who was entrusted by Tokugawa Ieyasu with a residence along the inner moat of Edo Castle, which is the origin of the present name of the place, “Yaesu”. In later years, Nagasaki’s Dejima Island, the only island in Japan that was closed to the outside world, was managed by the Dutch East India Company, and this is the reason why only trade with the Netherlands continued until the early Meiji period.
The 12 most advanced Dutch cannons, the most powerful in the world at the time, which shook Hideyori and Yodo and determined the outcome of the “Osaka Winter Campaign,” arrived in Japan a week before the battle by the Dutch East India Company. During the battle, they were delivered to Ieyasu, who fired bullets far beyond the range of the Japanese cannons into the castle of Osaka. It was the main driving force behind the peace process.
On the other hand, Christian merchants with links to Spain, who supplied the lead for the production of “flintlock bullets” that made at Toyotomi’s Osaka Castle.
After 250 years of peace, the country changed its name from “Spain and the Netherlands” to “Britain and France,” and at the end of the Edo period, the “frontiers of world history” developed again. The “Warring States” and the “end of the Edo period” were not simply a struggle for power within Japan, but an era in which the world’s powers vied for global supremacy on the stage of Japan.
1.The Satsuma-England War
The Mori family (Mori Han(a clan under a feudal overlord in premodern Japan, present day, Yamaguchi pref.)) was defeated at the Battle of Sekigahara, and its territory was reduced from two million koku in eight provinces to 360,000 koku in two provinces. It is said that the overthrow of the Tokugawa Shogunate became a national policy of the Choshu (Mori)clan, which was established in this manner, and it was customary for the retainer of the clan to ask the lord of the clan every New Year’s Day whether he would have the opportunity to overthrow the shogunate this year, to which he replied, “Too early.
Similarly, the Satsuma Shimazu clan (present day, Kagoshima pref.), while supporting the western army at the Battle of Sekigahara, could not be overthrown due to the geopolitical nature of their location at the tip of Kyushu. In his later years, Tokugawa Ieyasu regretted not being able to destroy them, and he never stopped saying, “The enemy will come from the west. As Ieyasu feared, it was inevitable that Satsuma and Choshu, who supported the Western Army at the Battle of Sekigahara, formed the Satsuma-Choshu alliance and fought to overthrow the shogunate more than 260 years later.
In September 1862, four Englishmen on horseback broke in on the procession of Hisamitsu, father of the Satsuma lord Shimazu Shigehisa, in Namamugi village (present-day Namamugi, Tsurumi-ku, Yokohama), and three people were killed and wounded by a clan member on the retinue. This was the “Namamugi Incident”. The British, who were granted extraterritoriality under the Treaty of Friendship and Commerce between Japan and Britain, demanded an official apology and a fine of 100,000 pounds from the shogunate, as well as 25,000 pounds from the Satsuma clan for the execution of the perpetrators and compensation.
In June of the following year, after receiving £100,000 in reparations from the shogunate, the British sent a fleet to Satsuma to negotiate with the Satsuma clan, but this was unsuccessful, and the “Satsuma-British War” began. The British fleet returned to Yokohama two days later, and peace was made in October. The Satsuma clan borrowed 60,300 ryous equivalent to £25,000 from the shogunate, but the money was never returned to the shogunate, and the execution of the perpetrators, one of the conditions of peace, was not carried out because they were considered to be “on the run”, but the war was a major turning point in history.
The Satsuma clan also realized the superiority of Western weaponry and withdrew its support for the expulsion of the barbarians, thus deepening its relationship with Britain.
2.Satsuma’s encounter in England
In June 1863, one month before the Satsuma-England War, five young men had secretly set sail from the port of Yokohama for England. They were sent by the Choshu clan, a clan of radical reverence for the expulsion of the barbarians, who had violated the shogunate’s ban on foreign intelligence. The “Choshu Five”, as they were later called in later years, were Inoue Kaoru (later to become the first Minister of Foreign Affairs), Endo Kinsuke (father of the minting business), Yozo Yamao (founder of the University of Tokyo’s Faculty of Engineering), Ito Hirobumi (first Prime Minister) and Inoue Masaru (father of the railway industry).
At the time, Britain was at the height of the Victorian era. The Industrial Revolution had reached its peak, and people’s lives were rapidly becoming more modernized, known as the “Age of Iron and Coal” and the “Age of the Railways”. It was also in this year that the Tube first ran through the streets of London. How different was the degree of “civilization” between Japan and Britain at that time. The five lodged at the home of Dr. Williamson, a professor of chemistry at UCL (University College of London), the oldest college in what is now known as the University of London, and a member of the British Academy. Dr. Williamson was a member of the British Academy and President of the Chemical Society of London, a man of international outlook with no prejudices, and thus was apparently chosen as a place for the Japanese to spend the night.
They learned English from Dr. Williamson and his wife, and their progress was so rapid that after a while they could read a newspaper with a dictionary in hand, asking them questions. It was through his introduction that he was admitted to UCL as an auditing student of the Faculty of Law and Letters, becoming “the first Japanese student at the University of London”. In order to report to the Choshu Clan, they actively toured the city of London. They learned many things from Britain, the most prosperous and advanced civilized country in the world at that time, including the Houses of Parliament and the British Museum, libraries, water and sewage systems, hospitals, parks, banks, post offices, and theaters.
Two years later, a group of students from the Satsuma clan arrived in London under the auspices of the Nagasaki Glover Company. The Satsuma Clan group consisted of 15 foreign students (Minbu Machida, Jokunosuke Hatakeyama, Naoe Murahashi, Hyouma Nagoshi, Kanjuro Ichiki, Munemi Nakamura, Seisyu Tanaka, Ainoshin Togo, Seizo Samejima, Keiji Yoshida, Kinnojyou Mori, Shinshiro Machida, Seizo Machida, Hikosuke Isonaga, and Yaichi Takami), and four inspectors (Shinnou Gyobu, Hiroyasu Matsuki, Saisuke Godai (Tomoyuki), and Sojuro Hori). There were 19 in total.
At this time, Lyle Home of the Nagasaki Glover Company, who was in contact with the Satsuma clan, happened to meet three smuggling foreign students from the Choshu clan, Kinsuke Endo, Yozo Yamao and Masaru Inoue, on the street near Kensington Gardens. Lyle Home helped them to visit the Satsuma clan students at their lodgings on Bayswater Road in July, and nine months before the conclusion of “the Satsuma choshu allaince”, the clans who had been enemies since the “Kinmon Incident”, had met in a foreign country. It was in the vicinity of the Hotel at Lancaster Gate facing Hyde Park, where I had stayed for many years when I was in London on business.
The British had already set up a system to support both clans with an eye to the Satsuma Choshu alliance as a strategy to counter the French, and Foreign Minister Russell, who had made strong demands to the Japanese in the Namamugi incident, personally met with the Choshu clan’s smuggling foreign students, Kinsuke Endo, Yozo Yamao and Masaru Inoue. When asked why they had bombarded the foreign ships, they replied that the purpose of the Choshu clan was to consecrate a great administration, restore peace and order to the motherland, and to conclude another treaty with other countries.
This information was very important in determining Britain’s foreign policy toward Japan, and it naturally led to a change in the hard-line stance of Allcock, the Minister to Japan, toward the Choshu clan. In Japan as well, Nakaoka Shintaro and Sakamoto Ryoma of Tosa clan accelerated their movements toward the Satsuma- Choshu alliance, and as if in tandem with these movements in Japan, foreign students of the Choshu and Satsuma clans in England became aware of their fellow countrymen and deepened their friendship and strengthened their unity. After returning to Japan, this unity became a major driving force in the creation of a new Japan.
While studying at the University of London, Yozo was inspired to go to Glasgow in the north of England to learn about modern industry. Glasgow, the birthplace of the Industrial Revolution, was the world’s largest shipbuilding and industrial city at that time. Many shipyards were forested, building 20,000 tons of ships a year, which accounted for 20% of the world’s total. There was also an abundance of raw materials, such as iron and coal, which were exported around the world using the river Clyde’s waterways.
However, the Choshu clan did not send any money, and Yamao was forced to abandon his dream. However, a group of students from the Satsuma clan came up with 16 pounds to help pay for Yamao’s travel expenses. This allowed him to study in Glasgow in the autumn of 1865.
The Choshu clan and the Satsuma clan have been “dog-eat-dog relations” ever since their confrontation in 1863 at the “Political Revolution of August 18, 1863”. In spite of this, it seems that the foreign students in London lived together and cooperated with each other. It was January 1866 when the Satsuma Choshu Alliance was concluded in Japan, and by two years before that, they had already acquired a higher perspective of “Japanese” than that of “clan warriors” because of their stay abroad.
3.The method of building corporate strategy
We often only look at certain things from certain directions and at certain levels. The same is true of the current spread of the coronavirus. It is widely recommended by the government and local governments that we should avoid “three close linkages” in order to prevent human-to-human transmission. However, the virus does not become inactive immediately after it leaves the body, and I believe the reason why the spread of the virus has not been stopped is that the virus continues to exist on top of things.
Initially, the World Health Organization (WHO) did not recommend the wearing of masks, saying that they were useless. But it later changed its mind, perhaps because it saw that the wearing of masks in a number of countries and regions had “somewhat” halted the spread of the disease.
It was recommended only to prevent ” three close linkages”, without emphasizing the fact that the virus can live on the surface of things. However, the virus can live for four hours on copper, which is a highly bactericidal material, 24 hours on a porous material such as cardboard, and several days to a week on smooth surfaces, stainless steel, plastic, or vinyl.
Why are the national and local governments not recommending measures to prevent infection through objects from this point of view? They must be aware of the fact that a large number of infections occur at post offices and parcel delivery centers, but why don’t they tell people about these measures? In my opinion, we should strongly recommend not only “person-to-person transmission” but also “prevention of person-to-person transmission via goods”.
If corporate strategies are formulated in this way, as with the countermeasures against new coronas, the blind spots will become large. Therefore, it is important to carefully analyze events from three points of view, namely, the point of view (where to look), the perspective (where to look from), and the field of view (how far to look), in order to create a strategy.
The Satsuma Choshu alliance, an event that greatly advanced the Meiji Restoration, can be seen from the perspective of the British, not from within Japan, and it is easy to understand why Satsuma and Choshu became so close to each other. The Satsuma Choshu alliance, the Meiji Restoration, and the establishment of modern Japan were both rooted in England, and like a compass, their power revolved in Japan with London as their axis of influence. This was the Meiji Restoration and the modernization of Japan.
The Satsuma Choshu League in the U.K. may have taught us the necessity of keeping all stakeholders in mind when building corporate strategies.
Summary of this issue
The most important factor in formulating a corporate strategy is the “scope” of the company’s vision. Is it the world, Asia, or just Japan, or is it a specific region within Japan? As mentioned above, many of the trends and results that would be difficult to understand if one were to look only at Japan can be better understood if one were to look at them from a “global” perspective. The same is true for the formulation of corporate strategies.
There are many cases, not only the case of Satsuma, but also the case of Satsuma Choshu, where “enemies of each other” in the view of “Japan” become “alliances” when you expand your view to “the world”. In formulating a corporate strategy, it is important to place the strategic scope of the corporate strategy in a field of vision where it can obtain a positive vector.
The corona ravages that are now sweeping the world today will determine the length and strength of a company’s corporate life depending on how it chooses to take advantage of this major ordeal. If a company can make the most of this disaster in a useful direction, it will be able to gain a major boost to its performance.
Last week, the NHK television series “Yell” was aired again in the family home of the main character’s wife. The family business was “the manufacture and sale of harnesses”. Therefore, the main customers were “the army’s cavalry regiments”. But now that cavalry has replaced the chariot, I wonder how many companies are making harnesses?
There are many companies that have changed their business models with an eye to these trends and have become top-notch companies in new fields. The French company Hermès, whose logo bears some vestiges, was originally a harness workshop, as is the current setting of Yell. However, foreseeing the decline of the carriage industry due to the rise of the automobile, it entered into the business of bags and wallets, which allowed it to utilize its traditional skills, and gained a worldwide reputation.
During the Warring States period, Toyotomi Hideyori was obsessed with flintlocks, which far surpassed those of the Tokugawa army. The Tokugawa forces had a hard time against the “flintlock bullets” that were falling as a result of the rain. Therefore, Tokugawa Ieyasu changed his “strategic archetype” from “flintlock to cannon” and won the war. There are many lessons to be learned from this historical event.
Author/translator: Shinichiro Hatani