企業戦略 2020.08.15
CS13 「ながい旅」(岡田 資 陸軍中将) “Nagai tabi (Long Journey)” (Lt. Gen. Tasuku Okada)
For those who prefer to read this column in English, the Japanese text is followed by a British English translation, so please scroll down to the bottom of the Japanese text.
本コラム「リスクマネジメント 26-防災科学技術研究所(NIED)」で、今後30年間に70~80%の確率で発生すると政府が予測している「南海トラフ大地震」について述べたが、その際「太平洋戦争中で、報道管制が引かれ『隠された』と言われている地震」として、「南海トラフ大地震」の予測震域の東半分一帯で1944年(昭和19年)12月7日起きた、マグニチュード7.9の「昭和東南海地震」についても記した。
昭和東南海地震は、駿河トラフと南海トラフ沿いを震源とする地震であり、震度6弱以上の地域は三重県から静岡県の御前崎までの沿岸部、津波は伊豆半島から紀伊半島までを襲った。三重県では熊野灘沿岸への大津波、愛知県では泥質沖積層と言われる、柔らかい地盤の埋立地に造られた軍需工場が集中する地区で大半の建物が倒壊、静岡県においても、海岸沿いの柔らかい泥質の地域で多くの住宅被害が見られ、台地などの固い地盤の地域との被害の差は歴然であり、震域全体の沿岸部でほぼ例外なく大きな被害が発生した。
この半年前、米軍はサイパン島などマリアナ諸島を制圧、日本本土空襲の基地として活用し始めて、これ以降本格的な日本本土への空襲が始まった。その最中の大地震である。当時の地震観測網でも地球の反対側で起きた地震でさえ、その震源、震域、規模、被害等を特定することは可能であったにも関わらず、「敵を利する」と日本政府は必死になってこの「昭和東南海地震」発生のニュースを隠蔽、報道管制が敷かれ日本のどの新聞にも詳しく掲載されていなかったが、地震の震源地、被害状況は、翌日12月8日付「ニューヨーク・タイムズ」には具に掲載されていたのである。
このように「昭和東南海地震」の被害状況を具に知った米軍は、その6日後、1944年(昭和19年)12月13日、日本の航空機用エンジン生産高の4割以上を生産していた名古屋地域に対して「名古屋大空襲」と呼ばれる本格的空襲をおこない、日本の航空機生産は大打撃を被った。そして、さらにその1か月後、1945年(昭和20年)1月13日昭和東南海地震の被害の復旧もままならない愛知県を三河湾で発生したマグニチュード6.8の直下型地震、「三河地震」が襲い、立て続けに起きた大地震で日本は甚大な損害を被ることになった。
昭和東南海地震は、海洋プレートの沈み込みに伴い発生した大地震であり、さらに授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に犠牲者は1,223人にのぼった。その37日後、昭和東南海地震に誘発されて起きた三河地震は、活断層が28Kmに渡って動いた内陸直下型であったため、被害の程度は昭和東南海地震を上回る規模で、犠牲者は2,306人にも達したのである。この背景には「本震の後の余震に注意すること」が「隠された地震」であったため人々に周知徹底されなかったことも大きな要因と考えられている。
「南海トラフ大地震」、その直近の姿である「昭和東南海地震」を調べていく過程で出会った本が、「戦争に隠された『震度7』1944東南海地震1945三河地震」(吉川弘文館 木村玲欧著)であり、また「昭和東南海地震、三河地震が起きた時の現場の責任者」としてその後数奇な運命を辿った、岡田 資(たすく)陸軍中将について記した「ながい旅」(角川文庫 大岡昇平著)、そして岡田中将の遺稿集「毒箭(改訂増補)隆文館(復刻版)」であった。
1.名古屋大空襲
名古屋大空襲は、太平洋戦争末期、アメリカ軍が名古屋市に対して繰り返し行った空襲の総称であり、特に市街地を標的として大規模に行われたものを言う。名古屋駅が炎上した1945年(昭和20年)3月19日、また名古屋城を焼失した5月14日の空襲などを指している。
第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官であった岡田資中将は、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭乗員27名を自らの命令(旧陸軍内での法的根拠の下)で処刑したことによって、戦後、国際法違反(捕虜虐待罪)に問われ、B級戦犯として連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に逮捕され、軍事裁判(横浜法廷)に掛けられた。
裁判では、検察側は「略式手続きは正当な審理といえず、米兵の処刑は殺人にあたる」と主張、一方、弁護側は「1923年(大正12年)、オランダのハーグで米英仏蘭伊日の会合が持たれ、『爆撃は軍事目標に対して行なわれた時のみ適法とする』という宣言がなされたこと」を根拠に「処刑された搭乗員はジュネーブ条約に規定する捕虜ではなく、名古屋地区に無差別爆撃を行なった戦争犯罪人である」との主張を展開、「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃である」、「搭乗員はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と検察や米軍関係者による爆撃の正当化を批判、捕虜虐待の罪に付いても全面的に争った。
岡田中将は、他の戦犯と異なり、尋問が始まっても、略式手続きの正当性と、名古屋地区への爆撃は無差別のものであり、搭乗員を戦争犯罪人として扱ったのは正しいと主張、検察側と堂々と渡り合ったのである。「武力では負けても、法の上の正義の戦いを続ける」と岡田中将はこの裁判での論戦を「法戦」と称した。
裁判が進むにつれて岡田中将の論拠の正当性を感じはじめていた米国側。GHQ側の法務担当官さえ「終身刑が相当である」との意見を出したほど、米国人の検事及び弁護人をはじめ、国内でも皇室からも、判決後、助命嘆願や減刑の要望書が出されたほど、岡田中将の矜持は多くの人々を感服させたのである。
しかし、差別無く法の正義の為、被告のために戦い、岡田中将も手記にその名前の翻訳から、「羽石博士」と親しみを持って書かれていた、米国人フェザーストーン主任弁護人(法学博士)と最初に引き合わされ際、「私個人の救命は無用に願います」と開口一番述べた言葉が示すとおり、一身に責任を取る覚悟であったため、判決を「本望である」と欣然として受け入れた。そして、妻への遺書に「敗戦国の将軍が犠牲壇上に上るのは当然、聊かのうらみもない」と記した通り、1949年(昭和24年)9月17日、巣鴨プリズンに於いて従容として刑に臨んだのである。
2.岡田 資 陸軍中将
この岡田資陸軍中将の裁判は、「ながい旅」(大岡昇平著ー新潮社及び角川文庫)を原作として、題名「明日への遺言」で映画化され2008年公開、大きな反響があった。そのリーダーとしての姿勢、人間としての生き方は、企業経営、企業戦略に関して大いに資するものがあると考えている。
岡田中将は、1890年(明治23年)鳥取で生まれた。1911年(明治44年)、陸軍士官学校を卒業、1922年(大正11年)陸軍大学校を卒業。1925年(大正14年)英国大使館付武官補佐官として、ロンドンに2年半駐在。1938年(昭和13年)歩兵第八旅団長、1941年(昭和16年)陸軍中将となり、1945年(昭和20年)第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官に就任した。
就任してすぐ起きたのが5月14日の名古屋大空襲である。司令官を務めていた東海軍管区(愛知県、三重県、岐阜県、静岡県、石川県、富山県)内の名古屋市が486機ものB29によって絨毯爆撃され、市街の大半が焼失した。撃墜されたB29から搭乗員11人が脱出したが捕らわれ、1カ月半後、11人は略式手続きを経て処刑された。その後も、執拗に名古屋への空襲が続き、一般市民約8000人が亡くなった。一方、撃墜され捕らえられ処刑された米兵は最終的には38人となった。
戦後、このことを理由に岡田中将以下合計20名はB級戦犯として起訴されたのである。
3.戦犯裁判に於ける論戦
筆者が岡田資陸軍中将に注目したのは、他の多くの戦犯裁判と大きく異なり、岡田中将は「戦争に敗れたからといって、理不尽にすべての責任を押し付けられてもしようがないというのではない、責任ある立場にある者こそ、主張すべきことは断固主張すべきである」と、堂々と「戦勝国」に対して議論を挑み、論戦、そして自身の目的を達成したというところにある。そして、このリーダーの論戦のおかげで、部下は全員懲役刑で済んだ。一身に責任を背負って刑に服したために、B29搭乗員の斬首を提言した者も実行した者も、後に釈放されたのである。
フェザーストーン主任弁護人は、岡田中将に対して、「無差別爆撃」について意見を聞いた。岡田中将は軍人らしく爆撃の様を具体的に述べた。「まず、爆撃予定地を包囲的に爆撃して炎上させ、それからさらに幾つかの爆撃地区に分割し、住民がそこの地区から逃げ出さないように、焼夷弾、小型爆弾、機銃掃射をまぜて全員殺戮の方法をとった」とその残虐性を指摘した。
フェザーストーン主任弁護人は「すると搭乗員は戦犯容疑者になりますが、無差別爆撃の違法性についてどうお考えですか」と岡田中将に質問した。中将は「彼らがどんな命令を受けていたのか私にわかるわけがありません。しかし、彼らは事実上無差別爆撃を行なったのであるから、その行為において非合法である」と。
「彼らを戦犯容疑者として扱ったことについて、何か言うことはありませんか?」とのフェザーストーン主任弁護人の問いに対して、中将は「降下乗員を捕虜として扱わず、戦犯容疑者として扱うのは上司の示達です。そして私自身爆撃の実情を見て、正しいと信じました」と述べ、その証拠として、「米空軍がその非人道性を自覚したうえで爆撃をおこなっていたことを示す宣伝ビラ」を挙げた。
「単に命令に従っただけ」と主張する検事に対して「ビラ撒きは最初のB29の爆撃と同時に始まっていた。だれがビラを刷ったか、問題ではない。その絵に描かれていることが、人道に反するのを自覚していたかどうかということである。そして事実、その行為を犯した。問題は爆撃を実行したということだ。搭乗員も無差別爆撃の残虐性、非人道性を自覚しながら、実行したのなら、『単に命令に従っただけだから無罪』とは言えなくなる」と、あたかも被告と原告の立場が逆転したような論戦となった。
こうした尋問を通じて「『大量殺戮を狙う爆撃の残虐性』を知りながら、米空軍が無差別爆撃という戦争犯罪を犯したのだ」という事実が法廷で明らかにされ、岡田中将が「法戦」を始めた目的の一つが達成されたのである。
「私が元陸軍中将岡田資(たすく)の名を知ったのは、昭和四十年のことだった」から始まる、筆者が持っている大岡昇平著「ながい旅」(角川文庫)の全325ページには、これら「岡田陸軍中将の裁判の顛末」が詳細に記されている。理路整然とした主張は自分の無罪の主張のためではなかった。米兵の処刑を行なった部下が罪に問われる見通しになると、岡田中将は「司令官は、その部下が行なったすべてについて、唯一の責任者です」と検察側ですら驚く発言を行なったからである。
「法戦」のもう一つの目的は、「自分の主張を認めさせた上で、その自分が全責任を負うことによって、部下全員の減刑を図ること」であった。 「ながい旅」を読むと、前述の通り、岡田中将の一命を賭した堂々たる姿勢は、米国人の裁判官や検察官たちをも感銘させ、 彼らは、時には明らかに岡田中将に有利な質問をし、助命の可能性を探る様子が見て取れる。しかし、岡田本中将本人は「全責任を自分が取るという姿勢」を最後まで貫き、信仰に熱心であった岡田中将は世界民族の為に「無差別爆撃を廃止する国際法の修正」さえ訴えたのである。
裁判の最後には、検察側から敢えて与えられた「減刑の最後チャンス」さえ返上したうえで、自ら発言の許可を求めた。これからの日本の行く末に関して、こう述べている。「被告から十分な弁明の機会を与えられたのはこの法廷が初めてであり、その寛大なる法廷のことを日本人同胞も感謝するであろう。そして、その感謝の気持ちは、両民族、米国を兄として日本を弟としての心からの結合に非常なる役割をするものであると思う」と。
今回のまとめ
本日は「終戦の日」である。岡田中将が貫いた矜持、「リーダー」としての責任の重さ、責任を取る、己の信ずることの為に「戦う」とはどういうことなのか、「現代の軍隊」とも言える「企業」、国際競争を戦い抜く「企業戦士のリーダー」として、その経営を任された経営陣に対して残された「明日への遺言」と感じるのは筆者だけであろうか。
岡田中将の「敗戦直後の世相を見るに言語道断、何もかも悪いことは皆、敗戦国が負うのか?何故堂々と世界環視の内に国家の正義を説き、国際情勢、民衆の要求、さては戦勝国の圧迫も、また重大なる敗因なりし事も明らかにしようとしないのか」という言葉は「国と国との間の戦争」のことだけを指しているのではなく、「国」を「企業」に替えるとそのまま現代の経営者、企業戦略のことを指すことになる。「国の指導者」、「企業の指導者」、立場、規模は異なるが、「組織のリーダー」としては同じである。
「何故堂々と世界環視の内に国家(企業)の正義を説き、国際(企業環境)情勢、民衆(社員)の要求、さては戦勝国(競合企業)の圧迫も、また重大なる敗因(企業戦略上のミス)なりし事も明らかにしようとしないのか」と。
企業戦略論そのものである、企業のリーダーにとって、企業経営上これほど重要な言葉はないであろう。企業経営者としてのあり方を教えられた思いである。「戦略」とはその言葉通り「軍隊」に由来する言葉である。「一国がその国の全生命を賭して一国の総力をもってその国の生存のために他国と戦うこと」を戦争と言う。現代の企業が担うモノも同じである。「負ければ奈落の底」であり、最悪の場合「企業生命も息絶えること」になる。
企業戦略の立案に於いては、「明日は今日の続きという『計画』」ではなく、「戦って勝ち抜く為の本物の『戦略』」が必要である。そのための最重要なファクターは、リーダーの意識、覚悟である、「ながい旅」を読んで、そのように岡田中将から教えられた思いである。コロナ禍をただ嘆いて、負けるか、それとも勝ち抜くか。「大変な時は、大きく変わる時」と考え、新たな企業戦略の策定をして、「勝つと決めて進むこと」が、今、最も重要な企業テーマではないだろうか。
執筆・翻訳者:羽谷 信一郎
English Translation
Corporate Strategy 13 – “Nagai tabi (Long Journey)” (Lt. Gen. Tasuku Okada)
In this column, “Risk Management 26 – National Institute for Earth Science and Disaster Prevention (NIED),” I wrote about the Nankai Trough earthquake, which the government predicts has a 70-80% probability of occurring within the next 30 years. The 7.9-magnitude Showa-Tonankai earthquake, which occurred on December 7, 1944, in the eastern half of the predicted epicenter of the Nankai Trough earthquake, is also described.
The Showa-Tonankai earthquake had its epicenter along the Suruga and Nankai Troughs, with areas with seismic intensity of 6 or greater striking the coast from Mie Prefecture to Omaezaki in Shizuoka Prefecture, and the tsunami striking the Izu Peninsula to the Kii Peninsula. In Mie Prefecture, a huge tsunami struck the Kumano Sea coast, and in Aichi Prefecture, most of the buildings collapsed in areas where there was a concentration of munitions factories built on soft, muddy landfill, known as the “mud alluvium”, and in Shizuoka Prefecture, many houses were damaged in the soft, muddy areas along the coast. Almost without exception, significant damage occurred in coastal areas throughout the epicenter.
Six months ago, the U.S. military took control of the Mariana Islands, including the island of Saipan, and began using them as a base for air raids on the Japanese mainland, and since then, full-scale air raids on the Japanese mainland have begun. It was during this time that a major earthquake struck Japan. Even with the seismic observation network of the time, it was possible to determine the epicenter, scale, and damage of an earthquake that occurred on the other side of the world, but the Japanese government was so desperate to “benefit the enemy” that they covered up the news of the “Showa-Tonankai Earthquake” and imposed press control that it was not covered in detail in any Japanese newspaper. However, the earthquake’s epicenter and damage were reported in the “New York Times” on December 8, the next day.
When the U.S. military learned of the damage caused by the Showa-Tonankai earthquake, six days later, on December 13, 1944, the U.S. military conducted a full-scale air raid on the Nagoya area, which produced more than 40% of Japan’s airplane engines, and Japan’s aircraft production suffered a major blow. Then, a month later, on January 13, 1945, the Mikawa earthquake, a 6.8-magnitude earthquake on the Richter scale, struck Aichi Prefecture in the Gulf of Mikawa, where damage from the Showa-Tonankai earthquake had not yet been repaired, and a series of major earthquakes struck one after the other, causing extensive damage to Japan.
The Showa-Tonankai earthquake was caused by a subduction of an oceanic plate, and because it occurred during school and work hours, a total of 1,223 people were killed, mostly in schools and munitions factories. Thirty-seven days later, the Mikawa earthquake, triggered by the Showa Tonankai earthquake, was a direct inland earthquake with an active fault that moved for 28 kilometers, causing more damage than the Showa Tonankai earthquake, with a death toll of 2,306 people. One of the main reasons for this is thought to be the fact that the people were not thoroughly informed about the importance of being careful of aftershocks after the main quake because it was a “hidden earthquake”.
In the course of researching the “Nankai Trough Earthquake” and its most recent incarnation, the “Showa Tonankai Earthquake”, I came across a book titled “The 1944 Tonankai Earthquake 1945 Mikawa Earthquake” (Yoshikawa Kobunkan), which was written by Reio Kimura, who was “responsible for the Showa Tonankai and Mikawa earthquakes” and who was also “the person in charge of the scene of the Showa Tonankai and Mikawa earthquakes”. There were two books about the fate of Lieutenant General Okada, “Nagai Tabi” (written by Shohei Ooka, The Kadokawa Library) and his posthumous collection of writings, “Dokusen (Poison Arrow)” (revised and expanded) Ryubunkan (reprinted edition).
1. The Great Nagoya Air Raid
Nagoya air raids are the general term for the repeated air raids on the city of Nagoya by the United States military at the end of the Pacific War, and were particularly large in scale, targeting the urban areas.It refers to the raids on Nagoya on March 19 and 19, 1945, when Nagoya Station was burned to the ground, and on May 14, 1945, when Nagoya Castle was destroyed by fire.
After the war, Lieutenant General Tasuku Okada, commander of the 13th Area Army and commander of the Tokai District, was accused of violating international law by the General Headquarters of the Supreme Commander of the Allied Forces (GHQ) as a Class B war criminal for executing 27 US B-29 bombers who were shot down and taken prisoner in an air raid in Nagoya on May 14, 1945 (under legal grounds within the former army), and was arrested and brought before a military tribunal (Yokohama Tribunal).
At the trial, the prosecution argued that “summary proceedings were not a fair trial and that the execution of an American soldier constituted murder,” while the defense argued that “a meeting of the United States, Britain, France, the Netherlands, Italy and Japan was held in The Hague, the Netherlands, in 1923, and a declaration was made that ‘bombing shall be lawful only when it is carried out against military targets’. The POWs were not prisoners of war as defined in the Geneva Convention, but war criminals who carried out indiscriminate bombing of the Nagoya area,” the prosecution and U.S. military officials argued that the bombing was an indiscriminate attempt to kill or injure civilians, and that the crew members were war criminals in violation of the Hague Convention and not prisoners of war. justification of the war crimes, and he fully contested the charges of abuse of prisoners of war.
Unlike other war criminals, Lt. Gen. Okada crossed the line with the prosecution when interrogation began, arguing the legitimacy of the summary proceedings and that the bombing of the Nagoya area was indiscriminate and that he was right to treat the crew members as war criminals. Lieutenant General Okada referred to the trial as a “Housen(legal battle),” saying, “Even if we lose by force, we will continue to fight for justice under the law.
As the trial progressed, the U.S. side began to feel the legitimacy of Lieutenant General Okada’s arguments, and even the GHQ’s legal officer expressed the opinion that “a life sentence is appropriate,” so much so that after the verdict, the American prosecutors and defense attorneys, as well as the Japanese and the Imperial Family, petitioned for help and a reduction of the sentence, and Lieutenant General Okada’s dignity led many people to believe that he was a good man.
However, as indicated by his opening statement, “I hope my personal life is not in vain,” when he was first brought together with Chief Counsel Featherstone, a U.S. jurist who fought for the justice of the law and for the defendant without discrimination, and whose name Lt. Gen. Okada affectionately referred to as “Dr. Haneishi” from the translation of his name in his memoirs. He was ready to take responsibility for his actions, and he gladly accepted the verdict, saying that he was eagerly awaiting it. As he wrote in his will to his wife, “I have no regrets that a general from a defeated country should be on the sacrificial platform,” he was executed in Sugamo Prison on September 17, 1949.
2.Lieutenant General of the Army
The trial of Lieutenant General Okada was made into a movie with the title “Testament to Tomorrow” based on the original story “Nagai Tabi(Long Journey)” (written by Shohei Ooka, Shinchosha and Kadokawa Bunko), which was released in 2008 and received a great response. I believe that his attitude as a leader and his way of life as a human being can contribute greatly to corporate management and corporate strategy.
Lieutenant General Okada was born in 1890 in Tottori, Japan, and graduated from the Military Academy in 1911, the Army War College in 1922, and the British Embassy in 1925, where he was stationed for two and a half years in London as a military attaché. In 1941, he became a lieutenant general in the army, and in 1945, he was appointed commander of the Thirteenth Area Army and commander of the Tokai Military District.
Soon after taking office, he was hit by the Nagoya air raid on May 14. The city of Nagoya in the Tokai Military District (Aichi, Mie, Gifu, Shizuoka, Ishikawa and Toyama prefectures), where he was commander, was carpet-bombed by 486 B-29s and most of the city was destroyed by fire. Eleven crew members escaped from the downed B-29s but were captured, and a month and a half later, the 11 were summarily executed. The relentless air raids on Nagoya continued, killing some 8,000 civilians. Meanwhile, the number of U.S. soldiers shot down, captured, and executed was eventually reduced to 38.
After the war, Lieutenant General Okada and 20 others were indicted as Class B war criminals for this reason.
3. Arguments in the War Crimes Trials
This author’s attention was drawn to Lt. Gen. Takeshi Okada, who differed greatly from many other war crimes trials in that he said, “It is not the case that we cannot take all the blame for our defeat in the war even if we are unreasonably forced to take all the blame, but those who are in a position of responsibility should firmly insist on what they should insist on,” and that he was an impartial “victorious nation. The point is that he challenged the argument against it, debated it, and achieved his own goals. And because of this leader’s debate, all of his men were sentenced to imprisonment. Because they were sentenced for taking responsibility for their actions, both those who recommended and those who carried out the beheading of the B-29 crew were later released.
Chief Counsel Featherstone asked Lieutenant General Okada for his opinion on the “indiscriminate bombing”. Lt. Gen. Okada, like a military man, described the bombing in detail. He pointed out the brutality of the bombing: “First, they bombed the area to be bombed and set it ablaze, then they divided it into several bombing zones and used a mixture of incendiary bombs, small bombs and machine-gun fire to kill everyone in the area to prevent people from escaping,” he said.
Chief Counsel Featherstone asked Lt. Gen. Okada, “That makes the crew suspected war criminals, but what do you think about the illegality of indiscriminate bombing? ”The lieutenant general replied, “I don’t know what kind of orders they were given. But they were practically indiscriminate in their bombing, so they were unlawful in their actions.
Do you have anything to say about treating them as alleged war criminals? In response to the question by Chief Counsel Featherstone as to whether the U.S. Air Force treated the crew members as war criminals and not as prisoners of war, the Lieutenant General replied, “My superiors instructed me not to treat them as prisoners of war, but as war criminals, and I believe that I was right. As evidence, he cited “propaganda leaflets” showing that the U.S. Air Force was aware of the inhumanity of the bombing and was carrying out the bombing.
In response to the prosecutor’s assertion that “he was merely following orders,” the prosecutor said, “The leafleting began at the same time as the first B-29 bombing.It’s not a question of who printed the leaflets, it’s a question of whether or not they were aware that what was depicted in the picture was contrary to humanity. And in fact, they committed that act. The issue is that they carried out the bombing. If the crew members were aware of the atrocity and inhumanity of the indiscriminate bombing, and carried out the bombing, it would not be possible to say that “they were not guilty because they were merely following orders,” the argument went on, as if the positions of the defendant and the plaintiff had been reversed.
One of the purposes of Lt. Gen. Okada’s “legal warfare” was achieved when it was revealed in court that the U.S. Air Force committed the war crime of indiscriminate bombing while knowing the “brutality of the bombing aimed at genocide”.
The author has 325 pages in his book Nagai Tabi (Long Journey), written by Ooka Shohei (Kadokawa Bunko), which begins with the following sentence: “The first time I came to know the name Tasuku Okada, a former lieutenant general of the army, was in 1965”, which describes the “outcome of the trial of Lieutenant General Okada” in detail. His well-reasoned assertions were not for the sake of his own innocence. When it became clear that his subordinates were going to be charged with the crime of executing the American soldiers, Lieutenant General Okada made a statement that surprised even the prosecution: “The commander is the only person who is responsible for everything that his subordinates have done”.
Another purpose of the “Housen(legal battle)” was “to reduce the sentences of all his subordinates by making them admit their claims and then taking full responsibility for them. As noted above, Lt. Gen. Okada’s imposing stance in risking his life impressed the American judges and prosecutors, who at times could be seen asking questions that were clearly favorable to him and exploring the possibility of saving his life. However, Lieutenant General Okada himself maintained to the end that he would take full responsibility for his actions, and the faithful Lieutenant General Okada even called for “an amendment to international law to abolish indiscriminate bombing” for the sake of the world’s peoples.
At the end of the trial, he dared to give up the “last chance to reduce the sentence” given to him by the prosecution and asked for permission to speak. Speaking about the future of Japan, he said. “This is the first time that the defendant has been given a full opportunity to present his case, and I am sure that his fellow Japanese will be grateful for the generosity of the tribunal,” he said.” And I believe that this gratitude will play a vital role in the heartfelt union of our two peoples, the United States as our elder brother and Japan as our younger brother”.
Summary of this issue
Today is the “End of War Day”. I’ve asked the following questions: “What does it mean to be proud of what General Okada stood for, the weight of responsibility as a leader, and what does it mean to take responsibility and fight for what you believe in?” Is it only the author who feels this way?
Lt. Gen. Okada said, “Looking at the state of the world immediately after the defeat, is it outrageous that the defeated nation bears the brunt of everything that is wrong? Why does he preach the justice of the state in the world and not reveal the international situation, the demands of the people, and the oppression of the victorious nation, or the cause of its serious defeat?” does not refer only to the “war between countries” but also to the “war between countries”; if you replace “country” with “company”, you can replace “country” with “company”, and you will find that modern managers, companies, and corporations have a very different approach. It will refer to strategy. ‘national leaders’, ‘corporate leaders’, different positions, different sizes, but the same for ‘organizational leaders’.
“Why does he openly preach national (corporate) justice while looking around the world, and why doesn’t he reveal the international (corporate environment) situation, the demands of the people (employees), and the oppression of the victorious nations (competitors), as well as the causes of their serious losses (corporate strategic mistakes)?”
For corporate leaders, there is no more important word in corporate management than “corporate strategy” itself. It is a lesson in what it means to be a corporate manager. The word “strategy” is derived from the word “army. The word “war” is used to describe a country’s use of its total power to fight another country for its survival, risking its entire life. It is the same with the things that modern companies play a role in. If they lose, they will end up in the abyss, and in the worst case, they will die.
In drawing up a corporate strategy, it is necessary to have a real strategy for fighting and winning, not a plan that says “Tomorrow will be a continuation of today”. The most important factor for this is the awareness and determination of the leader. Do we just lament the Corona disaster and lose, or do we prevail? I think the most important corporate theme now is to think that “tough times are times of great change,” to formulate a new corporate strategy, and to decide to win and move forward.
Author/translator: Shinichiro Hatani