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リスク対応策 2020.08.08

RM42ー火災保険の誕生(シェークスピア劇場の灯り)The Birth of Fire Insurance (Lights in Shakespeare’s Theatre)

「英国が産んだ最高の劇作家・詩人」と評され、英国BBCのTV番組「100名の最も偉大な英国人」では、「最も偉大な5人の英国人」の1人に選ばれたウイリアム・シェークスピアは、1564年、英国ストラトフォード・アポン・エイヴォンで生まれた。数々の名作を残し、当時の多くの芸術家、詩人とは異なり、裕福なうちに1616年に亡くなった。しかし、その富のすべては、彼の戯曲からではなく、土地取引から得たものであった。

1. ロミオとジュリエット

シェイクスピアの書いた有名な戯曲に「ロミオとジュリエット」がある。多くの人は、この物語は「シェイクスピアの創作」と考えているが、実は1530年イタリアのルイジ・ダ・ポルトが、民話やギリシャ神話物語などから物語を一つに集約して、創作、完成させた原型に由来する物語である。現代の「ロミオとジュリエット」と異なり、主人公の名前は、「ロメオとジウリエッタ」、そしてそのエンディングは、ロミオが死ぬ直前、ジウリエッタが目を覚まして言葉を交すという設定であった。

その後、この物語はフランス語に翻訳され、粗筋が大きく変化、さらに英国に渡り英語版として出版されたものが、1562年に出版されたアーサー・ブルックの物語詩「ロミウスとジュリエットの悲しい物語」であり、このアーサー・ブルックの作品からシェイクスピアが戯曲を書き上げたものが「ロミオとジュリエット」なのである。

数多くの名作と言われる戯曲を書いたシェイクスピアであったが、実は彼の生前には一冊も出版されることはなかった。また、1609年には彼が苦労して書き上げた多くの抒情詩が無断で出版されるなど、「文学、戯曲の世界」では全く恵まれることなく、一生を終えることになった。

そんな彼の業績を惜しんだ、2人の役者が、彼の没後7年目の1623年、彼の戯曲の全集を出版したところ、英国全土で大きな反響を呼び、今日の名声の基礎が築かれることになったのである。運命の悪戯としか思えない出来事である。

ロンドン、金融街シティのテムズ川を挟んだ反対側に、観光名所ともなっている1599年設立のシェイクスピア劇場を再興した「グローブ座」がある。その劇場と隣接する劇場、「サム・ワナメイカー・プレイハウス」を造ったのは、昨年生誕100年を迎えた米国出身の俳優、サム・ワナメイカーである。「シェイクスピア劇を演じる最高の場所は、シェイクスピアが造った劇場だ」と信じたワナメイカーは、シェイクスピアが造った当時の劇場の内外装そのままの姿の劇場を造りあげた。当然、造りは「木造」、照明の「灯りはローソク」であった。

2.ロンドン大火(The Great Fire of London)

シェイクスピアが没して50年後、1666年9月、猛威をふるうペストに疲弊し切っていたロンドンは、更なる災禍、大火災に襲われた。ロンドン塔近くの下町、「プディング・レーン」のパン屋から、深夜、出火したのである。当時、「灯りはローソク」であった木造家屋の火のまわりは早く、4日間灼熱の炎に包まれ、ロンドン中が灰になった、ロンドン大火(The Great Fire of London)である。

ロンドンは、ローマ時代に建設された「砦」が起源であり、その中心地が、現在では「ロンドン塔」と呼ばれる観光名所になっている。この街は、先住民ケルト人の言葉で、「沼地の砦」を意味する「ロンディニウム」と名付けられたところから、後年「ロンドン」と呼ばれるようになった。

船でテムズ川を上ってきたローマ人は、その後1世紀をかけて、船着き場や橋を建設。そして外敵の侵入を防ぐため、「砦(現在のロンドン塔)」を中心に、川の北岸に半円形に「壁」を造りあげ、さらにその外側に濠をめぐらせ、街道が壁を通過する箇所には、7つの門を設けた。現在、シティの端にある地下鉄の駅名になっている、「オールドゲート(Aldgate)」など、末尾に「ゲート(gate)」がつく地名が、それらにあたる。この壁に囲まれた3㎢ほどの地域が、後年、金融街「シティ(The City:City of London)」と呼ばれることになった地域である。

やがてシティは、「商人が暮らす、商売のための町」として目覚ましい発展を遂げていった。日本の戦国時代の「堺」のように、市民が強力な自治権を持ち、政治の中心であった隣のウエストミンスター市に居住した国王ですら、簡単には手出しができない、独立した商業都市として機能した。

セント・ポール大聖堂を中心に、市街には100近い教区、教会が林立していた。この時代において、「教会の多さ=キリスト教徒の多さ」であり、それはそのまま人口の多さにも繋がったのである。

ロンドン塔から、シティへと街は拡大、その後もさらに大きく拡大していった。外敵に備えるため強固な壁に囲まれた空間に、木造住宅がひしめき合っていた中世のロンドンでは、「火事と喧嘩は江戸の花」と言われ、ロンドン大火の9年前、1657年に起きた「明暦の大火(振袖火事)」等大きな火事が多発した日本の江戸時代と同じく、火事は日常茶飯事の出来事であった。

「紺碧の空 仰ぐ日輪」と口ずさみたくなるような、英国、ロンドン、シティの昨年初夏の情景。左手上部にテムズ川に架かる「ロンドン・ブリッジ」、その袂の大観覧車「ロンドン・アイ」、真ん中の下の方に金色の「ロンドン大火記念塔(The Monument)」の先端が見える、火元となった「プディング・レーン」に沿って建つビルより、木造住宅がビルに替わりはしたが、「中世のロンドン」さながらビルがひしめき合っている、ロンドン大火の火元一帯」を写した写真である。

この写真の場所、シティの東に地下鉄「モニュメント駅」がある。本コラムの「リスクマネジメント3ーロンドン大火」にも記したが、その駅名は、ロンドン大火とその後の復興を後世に伝えるために、ロンドン大火から11年後の1677年に造られた「ロンドン大火記念塔(The Monument)」に因んで付けられている。塔の高さは62メートルで、火元となった「プディング・レーン」のパン屋からこの塔までの距離と同じになるようにデザインされ、塔の壁面のレリーフには「火は街を焼き尽くす勢いであった」と彫り込まれている。

(The Monument(モニュメント)の台座

3.火災保険の誕生

ロンドン大火の頃には、「消防署」などはなく、出火すると、大火にならないように、日本の江戸時代の「火消」と同様、延焼を防ぐため家屋の取り壊しが「消防」として行われた。また、「ギルド(Guild)」という相互組合の組織があり、会費を払い火災に限らず災難時に給付を受ける仕組みはあったが、「火災保険」というものはなかった。

しかし、このロンドン大火を契機として、建築業者でありまた医師でもあったニコラス・バーボン(Nicolas Barbon)らによって、既に損害保険として確立して「海上保険」の仕組みから火災保険が考案され、それを事業とする相互火災保険会社が、1681年頃設立された。「火災保険の誕生」である。過去の火災発生率と現在の建物数から保険料を設定するなど、近代的な火災保険の原型となるものであった。火災保険会社は、保険加入者に「Fire Mark」と呼ばれる「標識」を配布し、火災保険加入者は自分の家に貼り付けた。

また、火災保険会社は、「fire engine(現在では「消防車」の英文名)」 と呼ばれる馬車の上に可動式のホースとポンプが付いた「消防車」を保有し、「火災による保険会社の支払い保険金の額を減らす」という目的のため、「自社の保険加入者」(=Fire Markが貼ってある家)の火事の際にのみ使用された。その後、1833年保険会社の消防隊はロンドン消防車協会として合併され、現在のような消防署が19箇所、ロンドンに誕生して、ほぼ公的な消防署の誕生を見ることになるが、それまでは「火災保険会社が自社の損害を軽減するためにのみ使われたのが消防車」であった。

その後、産業革命の進展とともに建物、動産が大幅に増加、火災保険の需要は急速に増え、各地に多くの火災保険会社が設立され、市民生活の発展とともに個人生活から企業活動にかかわる分野まで保険がつけられるようになり、保険は身近なものとなっていった。

4.火災保険会社の淘汰

ニコラス・バーボンが考案した、世界最初の火災保険の仕組みは、現代の火災保険の補償範囲より遙かに広く「財産総合保険」とでも考えられるものであった。保険の支払い対象は、非常に広く、火災のみならず、様々な理由で家屋が全壊、破損、損傷した場合も支払いの対象としたものであった。明治時代に始まった日本の火災保険は、1960年代頃までは、「火災損害」しか対象としなかったことと比べると、ニコラス・バーボンが火災保険会社を設立した頃は日本で言えば江戸時代初期であり、その先進性は明らかである。

また、損害補償は、金銭補償ではなく、建築事業者による家屋の再建、復旧であった。ニコラス・バーボンが建築事業者でもあったという背景がそうさせたのであろうが、火災保険の誕生時には、その補償は「現物給付、現状復旧」というものであり、現代との大きな差を感じる。

ニコラス・バーボン等の動きを見て、ロンドン市直営の火災保険会社(the Corporation of London)他、新規参入の火災保険会社が続々と誕生した。ただ、ほとんどの火災保険会社の提供する補償、条件等は、ニコラス・バーボンの考案したものそのままであった。特にロンドン市の直営火災保険会社は、民間保険の保険期間が31年間と長期間であったが、これに対して対抗上更に長期の保険期間、51年、100年というものであった。さらに驚くことには、民間の開発した保険料率テーブルをそのまま使い、かつそれに大きな割引を行っていたのである。当然、事業の成り立つはずがない。

民間保険会社は、火災保険の事業を開始して以来、火災事故を詳細に分析して保険料率の定期的な改定や引受条件の変更をおこなっていたが、「火災保険について知識も経験もないロンドン市が、専門分野に参入しても、これまでも損害額が多いのに、更に多くの損害額を支払うリスクを抱えることになる」と民間保険会社は主張して行動、事業開始から2年も経たずに、ロンドン市は火災保険事業から撤退することになった。

一方,また民間の大多数の火災保険会社も、その後経営破綻して歴史の舞台から消えることになった。理由は、非常に単純であった。「将来の支払に備えるべき支払準備金」までを事業に使っていたのである。ロンドン市を追及した民間保険会社も、その「リスクマネジメントの甘さ」から破綻したのである。

今回のまとめ

リスクマネジメントが本業である保険会社が破綻することは、多くの場合「思い込み」という人間の行動心理から起きる。「これまで事故が起きてこなかったからこれらも起きないであろう」という「思い込み」が、「なぜこれまで事故が起きなかったのか、その理由は」という検証を等閑にして、「本来すべきリスクマネジメント対応策をおこなわないようになる」からである。

本コラム、「リスクマネジメント 1-キャプティブからの再保険の必要性」に「2.ある損害保険会社の破綻」として、「これまで事故が無かったから、この大きなビルが倒壊するはずは無いと掛けるべき再保険の手配を意図的にしていなかったために一気に中堅の損害保険会社が倒産してしまった事例を『思い込み』の事例」として引用したが、この英国で起きた保険会社の破綻と全く同じことが日本の明治時代にも起きていた。日本で最初の火災保険会社が生まれ、その成功を見て、雨後のたけのこのように多くの火災保険会社が誕生したが、保険料の値引き競争、相次ぐ大火の発生による損害拡大の結果、明治時代末期までには、そのほとんどの火災保険会社は破綻したのである。

「キャプティブ(自社専用保険会社)を創ろう」と、キャプティブの専門家が関与せず、「節税目的でつくった」と言われていたキャプティブが、かなりの数、昨年施行されたタックスヘイブン対策税制のために、清算したと聞く。

グローバル・リンクの法務顧問であった、志賀櫻弁護士が、「ガーンジー島事案」のために、最高裁判所へ提出した「鑑定意見書」にあるとおり、「キャプティブは本来、リスクマネジメントのためにあるものであり、そのためのツール(手段)」なのである。この本義を外した存在は歴史の外に消えていくことになるのを証明しているような、火災保険誕生の歴史の一コマといえるのではないだろうか。

 

English Translation

Risk Management 42: The Birth of Fire Insurance (Lights in Shakespeare’s Theatre)

William Shakespeare, described as “the greatest playwright and poet England has ever produced” and named one of the “five greatest Englishmen” by the BBC’s “100 Greatest Englishmen” television program, was born in Stratford-upon-Avon, England, in 1564. He was the author of many masterpieces, and unlike many artists and poets of his time, he died in 1616 while wealthy. However, all of his wealth came not from his plays, but from land deals.

1.Romeo and Juliet

One of the most famous plays written by Shakespeare is “Romeo and Juliet”. Many people think that this story is a “creation of Shakespeare”, but it is actually a story derived from the prototype created and perfected by Luigi da Porto in Italy in 1530, who consolidated stories from folk tales and Greek mythological tales into one. Unlike the modern “Romeo and Juliet”, the main characters’ names were “Romeo and Giulietta” and the ending was that just before Romeo’s death, Giulietta wakes up and exchanges words with him.

The story was then translated into French, and the coarse plot was greatly altered. The English version, published in 1562, was Arthur Brook’s narrative poem, “The Sad Tale of Romius and Juliet,” from which Shakespeare wrote a play, “Romeo and Juliet.” 

Shakespeare wrote many of his most famous plays, but in fact none were published during his lifetime. In 1609, many of his hard-earned lyric poems were published without his permission, and he ended his life without any blessing in the “literary and dramatic world”.

In 1623, seven years after his death, two actors appreciated Shakespeare’s achievements and published a complete collection of his plays. This caused a great sensation throughout England and laid the foundation of his present fame. It was an event that can only be seen as a prank of fate.

Across the River Thames in the financial district of the City of London is the Globe Theatre, a revival of the Shakespeare Theatre, founded in 1599 and now a tourist attraction. The Globe Theatre and its adjoining theatre, the Sam Wanamaker Playhouse, were built by the American actor Sam Wanamaker, who died in 1993. Believing that “the best place to put on a Shakespearean play is in the theater he built,” Wanamaker built the theater exactly as it looked inside and out in Shakespeare’s original structure. Naturally, the structure was “wooden” and the lights were “lit by candles”.

2.The Great Fire of London

In September 1666, fifty years after Shakespeare’s death, London, exhausted by the rampant plague, was struck by yet another disaster, a great fire. The fire broke out in the middle of the night in a bakery in Pudding Lane, in the downtown area near the Tower of London. and the whole of London was reduced to ashes in the Great Fire of London.

London’s origins lie in the Roman “forts” that were built in the Roman period, and the center of the city is now a tourist attraction known as the Tower of London. The city was named “Londinium”, meaning “marshy fort” in the native Celtic language, and in later years it was called “London”.

The Romans, who came up the Thames by boat, spent the next century building docks and bridges. They built a semi-circular wall on the north bank of the river around the fortress (now the Tower of London) to keep out enemies. Many places in this area have ‘gate’ at the end, such as ‘Aldgate’, which is now the name of a tube station on the edge of the City. This 1,000-acre area surrounded by a wall was to be known in later years as The City of London, the financial district.

Eventually, the City grew remarkably as a “merchant’s town for trade”. Like the ‘Sakai’ of Japan’s Warring States period, it functioned as an independent commercial city where citizens had strong autonomy. Even the king, who resided in the neighbouring city of Westminster, could not easily trifle with the city.

There were nearly 100 parishes and churches in the City, with St. Paul’s Cathedral at the center. In medieval London, wooden houses were crowded together and surrounded by strong walls to protect against enemies.  As in the Edo period in Japan, fires were common.  The  Great Fire of Meireki (Furisode Fire) occurred in 1657, nine years before the Great Fire of London.

It was an early summer scene of the City of London, England. I wanted to sing “azure sky, looking up at the sun wheel” (a pair of lines from my Alma Mater’s Cheering Song).London Bridge, which spans the River Thames on the upper left, the London Eye, a large Ferris wheel, and the tip of the gold-colored Monument to the Great Fire of London in the lower center. This photo shows “the area around the fire of the Great Fire of London” where buildings are crowded as if it were medieval London.

There is a subway station, Monument Station, on the east side of the City, where this photo was taken. As I wrote in “Risk Management 3: The Great Fire of London” in this column, the station is named after the Monument of the Great Fire of London, which was built in 1677, 11 years after the Great Fire of London, to tell the story of the fire and its aftermath for future generations. The tower is 62 metres high and was designed to match the distance between the tower and the bakery in Pudding Lane, where the fire started, with the inscription on the wall of the monument: “The fire raged through the city”.

3.Birth of fire insurance

At the time of the Great Fire of London, there was no such thing as a “fire station”, and if a fire broke out, houses were demolished to prevent the spread of the fire, just as in Japan’s “fire fighting” during the Edo period. There was a mutual association called the Guild, which paid membership fees to receive benefits in case of disasters other than fire, but there was no such thing as fire insurance.

The Great Fire of London prompted Nicolas Barbon, a builder and physician, and others to devise a fire insurance policy, based on the idea of marine insurance, which had already been established as a property insurance policy, and the Mutual Fire Insurance Company was established around 1681 to provide such a policy. The Mutual Fire Insurance Company was established around 1681. It was a prototype of modern fire insurance, with premiums set based on historical fire rates and the current number of buildings. Fire insurance companies distributed “signs” called “Fire Marks” to their policyholders, which fire insurance policyholders posted to their homes.

Fire insurance companies also owned “fire engines” (now called “fire engines”), which were horse-drawn carriages with movable hoses and pumps attached to them, in order to “reduce the amount of claims paid by insurance companies due to fires” by posting the “Fire Mark” on their insurance policies (i.e. It was only used in the event of a fire in (a house). Later, in 1833, the insurance company’s fire brigade was amalgamated as the London Fire Engine Association, and 19 fire stations as we know them today were created in London, which would see the creation of an almost official fire service, but until then, “fire engines were used only by fire insurance companies to mitigate their own damage”.

As the industrial revolution progressed, the demand for fire insurance increased dramatically, and many fire insurance companies were established throughout the country, and with the development of civilian life, insurance for both personal and business activities became more accessible.

4.The Shakeout of Fire Insurance Companies

The world’s first fire insurance scheme, devised by Nicholas Barbon, could be thought of as a ‘comprehensive property insurance’ policy, which was much broader than the coverage of modern fire insurance. It paid out not only for fire, but also for the total destruction, damage and destruction of houses for various reasons. Japanese fire insurance, which started in the Meiji era, only covered “fire damage” until around the 1960s, but Nicholas Barbon’s establishment of a fire insurance company in the early Edo era in Japan was a clear indication of its advancement.

In addition, compensation was not monetary compensation, but rather the reconstruction and restoration of the house by the building contractor. This may be because Nicholas Barbon was also a builder. However, at the time of the birth of fire insurance, the coverage was “payment in kind and restoration of the situation as it is”, which is a big difference from what we see today.

The Corporation of London (the Corporation of London) and other new fire insurance companies began to emerge in response to the developments of Nicholas Barbon and others. However, the terms and conditions of most fire insurance companies remained the same as Nicholas Barbon’s original plan. The City of London’s fire insurance companies, in particular, offered even longer terms (51 or 100 years) as opposed to the 31-year term of private fire insurance. What was even more surprising was that they used the same premium rate tables developed by the private sector and gave large discounts on them. Of course, it couldn’t be a viable business.

Since the private insurers started their fire insurance business, they have been analyzing fire incidents in detail and revising their rates and terms and conditions on a regular basis, but “the City of London, which has no knowledge or experience in fire insurance, is not willing to enter a specialist field and risk paying out more money for a policy that has always had a high level of loss. The private insurers acted, claiming that they would “have to have it,” and less than two years after the business was launched, the City of London was forced out of the fire insurance business.

Meanwhile, the majority of private fire insurers also subsequently failed and disappeared from the historical stage. The reason was quite simple. They had even used “reserves to cover future payments” in their business. The private insurance companies that pursued the City of London also went bankrupt because of their “poor risk management”.

Summary of this issue

The failure of insurance companies, whose main business is risk management, is often caused by human behavioral psychology called “assumption. This assumption leads to neglecting the verification of why accidents have not occurred and the reasons for them, and not taking the risk management measures that should be taken.

In this column, “Risk Management 1 – Necessity of Reinsurance from Captives”, I wrote about “2. Failure of a certain non-life insurance company” as “A certain non-life insurance company failed to arrange reinsurance that should have been taken out because there had been no accidents so far and the large building should not have collapsed, which led to a sudden collapse of a medium-sized insurance company. The same thing happened in Japan during the Meiji era (1868-1912) when the first fire insurance company was born and saw the success of the first fire insurance company in Japan, but the competition for premiums and the outbreak of a series of major fires led to the collapse of many fire insurance companies. Japan’s first fire insurance company was born, and the success of the first fire insurance company led to the creation of many more, like bamboo shoots, but competition for premiums and a succession of major fires led to increased losses, and by the end of the Meiji era, most of them had gone bankrupt.

We hear that quite a few captives, which were created without the involvement of captive experts and were said to have been created for tax-saving purposes, have been liquidated in order to comply with the anti-tax-haven tax regime that came into effect last year.

As GLC’s legal counsel, Sakura Shiga, submitted an opinion to the Supreme Court on behalf of the Guernsey Island case, captives are essentially a tool (means) for risk management. This is a piece of history of the birth of fire insurance that proves that any entity that misses this essential principle is bound to fade into the background of history.