リスク対応策 2021.04.30
RM62 日本刀 Japanese sword
英国の新聞、「デイリー・メール」紙の電子版「Mail Online」が、昨年2020年12月17日「強盗と対決した主婦が日本刀振り回して撃退」という内容の記事を配信した。同記事は、「民家に押し入った3人組の強盗が日本刀を持った主婦に返り討ちにあった事件の裁判があり、犯人に大けがを負わせた主婦の正当防衛が認められた」と記している。
この強盗事件が起きたのは、昨年10月。英国イングランド北部のブラッドフォードに暮らす英国人夫妻の自宅にマスクをした3人組の男が侵入、居間にいた夫妻に外に停めてあった高級車の鍵を渡すよう要求した。夫は妻に寝室に行って警察に電話するようさりげなく指示した。日本文化に興味を持ち、日本刀を10年ほど前に購入、壁に飾っていたが、昔見た映画「キル・ビル」を思い出した妻は、その日本刀を掴んで鞘から抜き、犯人たちを威嚇した。
容疑者の一人は、突き出された日本刀を「模造刀だ」と思って、両手で掴んだ。振り払おうと妻は思い切り刀を引いた。その日本刀は「真剣」であったため、刀が容疑者の両手を深く切り裂く結果になり、容疑者達は噴き出す血に驚いてそのまま逃走、現場からかなり離れた病院に駆け込んだ。
治療した医師は「そのままであったら出血多量で死んでいたほどの深い傷だった」と。裁判の結果、容疑者らには3年8ヵ月の実刑判決が下され、一方勇敢な主婦は正当防衛が認められ無罪放免となった。
1.日本刀の材料
日本刀の材料は、鉄鉱石を原料とする現代の一般的な製鋼法とは異なり、原料に不純物の少ない砂鉄を用いる。このことによって、低温での高速還元を実現、一般的な製鋼法に比べて良質の鋼を得ることができる。この鋼は、玉鋼(たまはがね)と呼ばれている。玉鋼は、明治維新で西洋式の製鉄所ができるまで、国内鉄生産のほぼすべてを担っていた、「日本独自の製鋼法である、製鉄炉に空気を送り込む『鞴(ふいご)』を『たたら』と呼んでいたことに由来する『たたら吹き』」で造られており、現在でも日本刀の製作はこの「たたら吹き」でおこなわれている。
日本列島の地質は、鉄鉱石が存在する10億年以上前の地質ではなく比較的新しい地質のため、明治時代になり岩手県の釜石鉱山が開発されるまで鉄製品の製作には砂鉄を利用する手段しかなかったことが、その背景にある。
2.日本刀の鍛錬
刀剣製作の映像などで象徴的な場面が、刀匠と弟子が交互に刀身を鎚で叩いていくものである。一般的に厳しい訓練や修養を積み心身や技芸を磨いていくことを意味する言葉となった「鍛錬」という作業である。「鍛」とは、訓読みで「きたえる」と読むように、まさに刀を「きたえること」であり、また「錬」とは同様に「ねる」と読むように、つくった鋼を槌(つち)で叩きあげて何度も叩き伸ばし、中央に折り目を入れて折り重ねることを示している。
日本刀の材料になる「鋼」は、「玉鋼」、「銑鉄」、「包丁鉄」と3種類に別れている。それらを槌で叩き鉄片にして、それぞれの鋼の配合が適切になるように選び、また何度も積み上げて更に溶かし固め、含有炭素量が異なる心金(しんがね)、棟金(むねがね)、刃金(はのかね)、側金(がわがね)の4種類の鋼に作り分ける。その上で、さらに何度も「折り返し」が行なわれるなかで、硫黄などの不純物、余分な炭素等をまさに「叩きだし」て数千層に均質で強靭な鋼へと仕上げていくのである。
その上で行なわれる作業が「焼入れ」である。作業場の照明を暗くして、鋼の温度をその光加減で判断しながら、刀身を火に深く入れ加熱、一気に刀身を水槽に沈めて急冷する。「鋼の違い」によって、刀身は水の中で日本刀特有の反りが生じるのである。「焼き入れ」の「反り」に加えて、その目的はもう一つある。それは、刀の表面にマルテンサイトと呼ばれる非常に固い組織が現れるのである。
3.日本刀の歴史
「日本刀の研究にかけては当代随一」であった本間順治氏が、戦前1939年(昭和14年)執筆した「日本刀」(岩波新書刊)が「岩波新書クラッシックス」として岩波書店から2019年に限定復刊され、ゲーム「刀剣乱舞」のファンを中心に異例のヒットを続けている。当時のままの旧字体であるにもかかわらず、「刀剣女子」と呼ばれる女性らを中心に支持を受けているようである。
同書 によると、古代、日本では青銅製の刀剣類が生産されていたが、古墳時代の頃には鉄製の刀剣類の生産が始まっていた。平安時代後期、特に武家の力が強くなることと比例して日本刀が発達していった。その生産地は原料となる良質の砂鉄がとれる地域、現在の岡山県にあたる備前国、また政治文化の中心であった近畿地方、山城国、大和国などで活発に生産されていった。武家政権、鎌倉幕府の成立であり、それ以降、武士の台頭という事象によってこの流れが加速された。現在、100点以上の日本刀が国宝に指定されているが、実にそのうちの8割が鎌倉時代の刀剣である。
その後の室町時代、そして戦国時代の前期に至ってその生産は極限期を迎えたが、「鉄砲の台頭」により、「武器」としての役目は徐々に変化して、江戸時代に至っては、武士を飾る「装飾品」化していった。「鉄砲」によって、武器の主役の座を奪われた日本刀はその生産量が減少して刀鍛冶産業が衰退するかに見えたが、徳川幕府によって「武士の正装は長い打刀と短い脇差の大小二本差し」と定められたため、返って生産量が増えて活況を呈していった。しかし、明治維新を迎えてその状況は劇的に変化することになった。
江戸時代の治安維持政策では、「各藩主等による土地人民、政事刑法の自治権」を認め、更に住民自治組織である「五人組制度」は手配者の逮捕権まで認めていた。映画、テレビ番組で、「街の治安を預かる立場」で描かれている、「奉行所」の与力、同心は、実はごく少数で、100万都市となって多くの町人が居住していた江戸ですら、その数は数十人と、現在の警察制度とは比較にならない規模の組織であった。
そのため、明治維新後、攘夷運動による外国人排斥、殺傷事件が発生しても犯人の捜査も進まず、またその予防もできていない状態が続き、外国居留民保護名目で、英国、仏国の軍隊が横浜に駐屯することを認めざるを得ない事態となり、とても「独立国」とは言い難い治安維持の状況であった。
明治政府では、維新政府を構成した、薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)、肥前(佐賀)の藩兵が治安維持に当たっていたが、藩兵は軍隊であり、警察ではなかったため、1871年(明治4年)、東京に現在の警察官にあたる「巡邏の兵卒」の意味からその言葉が用いられた「邏卒(らそつ)」、約3,000人が採用、配備された。
この流れを受けて各都道府県でも同様の動きがあった。この結果、全国の治安維持、警察組織の長であった初代内務卿(内務大臣)山縣有朋が、警察制度の完備を背景に、1875年(明治8年)「日本刀を携えること禁じる法令」である「廃刀令」を建議、翌年1876年(明治9年)廃刀令が施行された。この廃刀令によって政府が許可する特別な場合、また軍人、警察官等が制服を着用する場合以外、「刀を身に付けることが禁じられた」のである。1873年(明治6年)の「仇討ち禁止令」に続き、この「廃刀令」が施行されたことにより、日本刀への新たな需要はほとんど無くなり、刀産業は急速に衰退、多くの刀鍛冶は職を失い、多くの名刀が海外に流出していった。
このような状況のなか、明治政府は、1875年(明治8年)「日本刀の伝統」を残すことを目的として、創設されてまもない日本陸海軍の将校の軍装品として「軍刀」を採用することにした。当初は、欧米に倣って「サーベル」であったが、日本刀に対する想い入れと同産業の保護目的から、次第に日本刀へと変えられていき、更に日露戦争の実戦で剣類の有効性が再評価され、軍刀需要のために日本刀は復権をとげた。
しかし、太平洋戦争後、「日本刀は武器である」と見なした連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって「刀狩り」が行われ、数多くの名刀が遺棄・散逸の憂き目にあい日本刀の存続が危ぶまれたが、「日本刀の保護」を目的として、「武器ではなく、居合道や抜刀道の道具や美術品として、その目的でのみ製作・所有が認められる登録制による所有が可能」となり現在に至っている。
今回のまとめ
日本刀は、「3つの相反する性質を同時に達成することを追求しながら発達してきた。「折れない、曲がらない、切れる」である。
「折れない、曲がらない」は材料工学においての強度と柔軟性の相反する2つの性質が共存することである。両者の均衡を「適度」に保つことは非常に困難な、高度な技術の結晶と言って良いであろう。また「切れる」と「折れない」の両立も難しい。「切れる」ためには刃先はより細くなる必要があり、細くなれば「折れやすくなる」からである。これを解決する手法として、刃先は硬いが、刀の芯に向かうと硬さが徐々に下がる構造を異なった鋼で生み出して、それを実現している。「刀鍛冶」という一つの職業に現代の日本企業が有する国際的な優位性の多くの要素を見る思いである。
企業経営に於いても「事業の攻めと守り」という「強度と柔軟性の相反する2つの性質」の均衡を適度に保つことが何よりも重要な企業戦略として求められている。その優位性を厳しく見つめて検証していく作業がリスクマネジメントである。
リスクマネジメントという言葉が無かった、鎌倉時代、室町時代そしてその後、刀鍛冶は「モノづくり日本」の先兵として、微細に制作の過程を検証して、より良い刀剣制作のステップを身に付けていった。そういった、刀鍛冶の想像を絶する労苦、弛まない技術への「鍛錬」が、日本刀の屹立した美しい姿という結果をもたらしている。
新型コロナに対して世界各国でのワクチン接種により、そのパンデミックの勢いにも陰りを与えることができるようになってきた。「コロナ後」の業績回復の鍵を握っているのは経営である、コロナ後を見据えリスクマネジメントを基底部に置いた新たな事業戦略が求められている。そのためには、本格的なリスクマネジメントの姿である、キャプティブ、その設立を視野にすることが「刀鍛冶」としての経営に求められているのではないだろうか。
執筆・翻訳者:羽谷 信一郎
English Translation
Risk Management 62 – Japanese sword
The Mail Online, the electronic version of the British newspaper ”Daily Mail, published an article last December 17, 2020, titled “Housewife fights off burglars by wielding Japanese sword”. The article said: “A trial has been held in which three burglars who broke into a house were beaten back by a housewife carrying a Japanese sword, who was found to have acted in self-defence when she inflicted serious injuries on the attackers”.
The robbery took place in October last year. Three masked men broke into the home of a British couple living in Bradford in the north of England and demanded that the couple hand over the keys to their luxury car, which was parked outside in their living room. The husband casually instructed his wife to go to the bedroom and call the police.The wife, who was interested in Japanese culture and had bought a Japanese sword about 10 years ago and had it displayed on the wall of the house, remembered seeing the movie ”Kill Bill ” and grabbed the sword and pulled it out of its sheath to intimidate the attackers.
One of the suspects grabbed the Japanese sword with both hands, thinking it was a “fake sword”. In order to shake it off, his wife pulled the sword as hard as she could. The Japanese sword was “a real one” and the blade cut deeply into the suspects’ hands, who, startled by the gushing blood, fled and were rushed to a hospital some distance from the scene.
The doctor who treated him said that the wound was so deep that he would have bled to death had been left untreated. After a trial, the suspects were sentenced to three years and eight months in prison, while the brave housewife was acquitted on the grounds of self-defence.
1. The material of the Japanese sword
Unlike modern steelmaking methods, which use iron ore as the raw material, Japanese swords are made from iron sand, which has fewer impurities. This allows for fast reduction at low temperatures and produces a higher quality steel than is possible with the standard steelmaking method. This steel is known as “Tama-hagane”. Tama-hagane is made by “tatara-buki,” a unique Japanese steel-making method that was responsible for almost all domestic iron production until the Meiji Restoration and the establishment of Western-style ironworks. Even today, Japanese swords are made using the tatara-buki method.
This is because the geology of the Japanese archipelago is relatively new, and the only way to make iron products was to use iron sand until the development of the Kamaishi mine in Iwate prefecture in the Meiji era.
2. Japanese Sword Forging
One of the most iconic scenes in sword-making films is that of the swordsmith and his apprentice alternately hammering away at the blade. The word “forging” has come to mean the refinement of body, mind and technique through rigorous training and discipline.
The Chinese character “forging” is read in the kun’yomi (Japanese reading) as “kitaeru”, which means to “temper” the sword, and “ren” is read in the same way as “neru”, which means to beat up the steel with a mallet and stretch it over and over again, and then fold it in the centre.
The steel used to make Japanese swords is divided into three types: tama-hagane, pig iron and knife iron. These are then pounded with a mallet into pieces of steel, selected to have the right mix of each type of steel, and piled up again and again to be melted and hardened into four different types of steel: shin-gane (heart metal), mune-gane (wing metal), hano-kane (blade metal) and gawa-gane (side metal). The steel is then “folded” many times to remove impurities such as sulphur and excess carbon to create thousands of layers of homogeneous and tough steel.
This is followed by quenching. The light in the workshop is dimmed and the temperature of the steel is judged by the amount of light, the blade is heated deeply in the fire and then submerged in a water tank to cool it down. The difference in the steel causes the sword to warp in the water, a characteristic of Japanese swords. In addition to the warping effect of quenching, there is another purpose. In addition to warping, quenching has another purpose: it produces a very hard structure on the surface of the sword, called martensite.
3. History of Japanese swords
The book,“the Japanese sword” was written in 1939 by Junji Honma (publised by Iwanami Shoten, the “foremost scholar of Japanese swords”, and will be reprinted in 2019 in a limited edition by Iwanami Shinsho as “Iwanami Shinsho Classics”. The book has been an exceptional hit with fans of the game “Token(sword) Ranbu(dance)”, and despite the fact that it is still in the same old font as it was at the time, it seems to be popular with women who are known as “sword girls”.
According to the book, bronze swords were produced in Japan in ancient times, but by the Kofun(tumulus) period, iron swords had begun to be produced. In the late Heian period (794-1185), Japanese swords developed in proportion to the growing power of the warrior class(samurai). Japanese swords were produced in Bizen Province (present-day Okayama Prefecture), where high quality iron sand could be found, and in Yamashiro and Yamato provinces in the Kinki region, the political and cultural centre of Japan. This trend was accelerated by the establishment of the Kamakura shogunate and the subsequent rise of the samurai. Today, over 100 Japanese swords are designated as National Treasures, 80% of which are from the Kamakura period.
In the Muromachi period (1333-1573) and the early Warring States period (1573-1573), the production of swords reached its peak, but with the rise of the teppo (gun), their role as weapons gradually changed and by the Edo period (1603-1868) they had become decorative items for the samurai. However, when the Tokugawa Shogunate decreed that a samurai’s formal attire should consist of two swords, a long battledress and a short wakizashi, the production of swords increased and the industry began to flourish. However, with the Meiji Restoration, the situation changed dramatically.
The Edo period’s security policy granted “autonomy to the feudal lords and others in the administration of land, people, politics and criminal law”, and the “five people group system”, a self-governing organisation of the local population, even granted the right to arrest those who wanted to be arrested. In fact, the number of “yoriki”(senior sumurai) and “doshin(samurai)” in the magistrate’s office, who are portrayed in movies and TV programs as being in charge of the security of the city, was very small.
As a result, even after the Meiji Restoration, when the expulsion of foreigners and the killing and maiming of foreigners caused by the movement to expel them from Japan, the police were unable to investigate the perpetrators or prevent their deaths, and were forced to allow British and French troops to be stationed in Yokohama to protect foreign residents.The situation was such that Yokohama could hardly be described as an “independent” country.
In the Meiji government, the clan soldiers of Satsuma (Kagoshima), Choshu (Yamaguchi), Tosa (Kochi) and Hizen (Saga), who formed the Restoration government, were in charge of maintaining public order. However, as the clan soldiers were the army and not the police, In 1871, about 3,000 “rasotsu”, a term used to describe “patrol officers”, were recruited and deployed in Tokyo.
This trend was followed by a similar move in all prefectures. As a result, Aritomo Yamagata, the first Minister of Home Affairs, who was in charge of maintaining public order and police forces throughout Japan, proposed the “Order for the Abolition of the Japanese Sword” in 1875 against the backdrop of a complete police system. The following year, in 1876, the “Abolition of the Sword Order” came into effect, forbidding the wearing of swords except in special cases authorized by the government, or by military or police officers in uniform. The sword industry declined rapidly, many sword smiths lost their jobs and many of the best swords went overseas.
In 1875, the Meiji government decided to preserve the tradition of the Japanese sword by adopting the military sword as the armour of the officers of the newly established Japanese Army and Navy. Initially, the sword was a sabre, in line with European and American models, but this was gradually replaced by the Japanese sword in order to protect the industry.
However, after the Pacific War, the General Headquarters of the Allied Powers (GHQ) considered Japanese swords to be weapons and conducted a “sword hunt”. However, in order to “protect the Japanese sword”, the Japanese sword was registered as a tool for “Iai-Do” and “Batto-Do” and as a work of art.
Summary of this issue
The Japanese sword was developed in the pursuit of achieving three contradictory qualities simultaneously: “unbreakable, unbendable and sharp”.
“Unbreakable and unbendable” is the coexistence of the two contradictory properties of strength and flexibility in materials engineering. Maintaining the right balance between the two is a difficult and highly technical task. It is also difficult to maintain a balance between “cutting” and “unbreakable”. In order to be able to cut, the edge of the blade has to be thinner, and if it is thinner, it is more likely to break. The solution to this problem is to use different steels with a hard edge, but with a gradual decrease in hardness towards the core of the blade.
In one profession, the sword smith I see many elements of the international superiority of modern Japanese companies.In the management of a company, the most important corporate strategy is to maintain a proper balance between the two contradictory characteristics of strength and flexibility, between offence and defence.
Risk management is the process of rigorously examining this advantage. In the Kamakura, Muromachi and later periods, when the term “risk management” did not exist, sword smiths were the forerunners of “Monozukuri Japan”, examining the process of sword making in minute detail and learning how to make better swords. The unimaginable labour of the sword smith and his unrelenting dedication to his craft have resulted in the towering beauty of the Japanese sword.
The vaccination of the world against covid-19 pandemic has helped to slow down its momentum. The key to recovery in the “post-Corona” period is management, which needs to adopt a new business strategy with risk management at its heart. In order to achieve this, the management of the company as a “sword smith” is required to consider the establishment of a captive, which is a full-fledged form of risk management.
Author/translator: Shinichiro Hatani