キャプティブを活用したリスクマネジメントなら株式会社グローバル・リンク「お知らせ・コラム」ページ

キャプティブを活用したリスクマネジメントなら株式会社グローバル・リンク「お知らせ・コラム」ページ

Contact Contact
Contact Contact

Menu

Close

お知らせ・コラム

News & column

リスク対応策 2021.04.23

RM61 「金門島の釣人」(根本 博 陸軍中将)

「SankeiBiz(2021.2.14 12:35)」には、「台湾の蔡英文総統がツイッターで支援メッセージ 宮城と福島で最大震度6強」と題した次の記事が掲載された。

宮城県と福島県で2月13日深夜、最大震度6強を観測した地震を受けて、台湾の蔡英文総統は14日、ツイッターに「支援が必要であれば、いつでも台湾はかけつけます」などとするメッセージを投稿した。

蔡氏は「福島県と宮城県を中心とした震度6強の大きな地震が発生しましたが、日本の皆さんが無事でいることを信じています。今まで何度もお伝えしてきましたが、これからも日本を応援する気持ちが変わることはありません。日本の皆さんにとって支援が必要であれば、いつでも台湾はかけつけます」と日本語で発信。30分あまりで1万5000件の「いいね」が寄せられた。

このメッセージに対して、投稿への感謝や台湾との友好を訴える日本語、英語、中国語のそれらの多くは日本国内からとみられるツイートが殺到した。

また、2月26日には、中国が、「検疫で有害生物を検出した」として「台湾産のパイナップルの禁輸」を宣言、3月1日に一切の輸入を停止した。この際、台湾政府のトップらは「中国による不当な圧力、嫌がらせだ」として行動、その動きがツイッターやFacebookなどのSNSで拡散されると、「台湾産パイナップルを買って応援しよう」という動きが日本のネット上で起こりまたたく間に広がった。世界で最も厳しい食品輸入基準が存在する日本が、最も速く反応した国だった。「3日までのわずか3日間で、過去最高の5000トンを超えるパイナップルの注文が日本から舞い込み、更に1200トンの追加注文も来ている」と台湾政府の頼副総統が日本の応援への謝辞をツイートした。

台湾パイナップルを販売してきたネット・ストアはどこも完売状態となっている。普通スーパーで売られているフィリピン産などに比べると台湾産パイナップルは、高額で2~3倍以上の値段である。「東日本大震災の際の被災地支援」や、「コロナ禍でのマスク支援」など、これまでお世話になった台湾の方々に、「せめてもの恩返しをしたい」という思いの人が多く、またTVの報道番組でも度々取り上げられたためか、「中国の嫌がらせに、そういう台湾を断じて屈しさせない、台湾を助けよう」と思う多くの日本人がいるという証拠であろう。

そして、4月16日午後(日本時間17日未明)、菅義偉首相とバイデン米大統領はホワイトハウスで初めて会談、中国をめぐる様々な問題、経済等での日米協力などについて協議した。中国の台湾への挑発的な軍事活動で緊張が高まる台湾海峡に関しては、「平和と安定の重要性」で一致、共同声明には、日本が1972年に中国との国交を交してから初めて、「台湾」を明記した。

1.古寧頭(こねいとう)戦役

中華民国(台湾)政府が毎週発行している日本語版の政府系広報誌、「台湾週報」に2009年10月27日、次の記事が掲載された。

古寧頭戦役60周年に日本の軍事顧問団関係者の家族らが台湾を訪問

今年10月25日は、金門島の古寧頭一帯に夜襲をかけた中国共産党軍を国民党軍が迎撃し、大勝利を収めた古寧頭戦役から60年目の記念日である。これに先立つ10月23日、同戦役の国民党軍の作戦に協力した日本の軍事顧問団関係者の一人、吉村虎二氏のご子息である吉村勝行氏、そのほか、明石元二郎・第7代台湾総督の孫にあたる明石元紹氏、伝記作家の門田隆将氏、集英社の高田功・編集長らが金門島を訪れ、国防部常務次長の黄奕炳・中将、同総政戦局副局長の王明我・少将ら国防部関係者の歓迎を受けた。

吉村虎二氏やかつて日本の北支那方面軍司令官兼駐蒙軍司令官であった根本博・元陸軍中将ら旧日本軍将校7人は1949年当時、危険を冒して秘密裏に台湾に渡り、蒋介石総統による中国共産党軍への抗戦に協力した関係者である。根本氏らは福州綏靖公署主任代理、湯恩伯将軍の部隊で軍事顧問となり、古寧頭戦役において作戦を献策し、国民党軍を大勝利へと導いた。

今回訪台した吉村勝行氏は、「本来は根本博氏のご家族も自ら金門島を訪問しようとしたが、老齢で長旅ができず、私が代表して訪問した。先人の足跡を追想することができ、心温まるもてなしを受け嬉しい」と感想を述べた。

また、黄中将は古寧頭戦役に関する書籍を吉村氏らに贈呈し、「当時の古寧頭戦役における日本人関係者の協力に感謝しており、これは『雪中炭を送る(困った時に手を差し延べる)』の行為と言える。当時のこの歴史を振り返ると、永く感謝し懐かしむ思いである。国防部がこの戦役の紀念活動を行うことは、人々に戦争の残酷さを理解してもらい、平和をより一層大切にしてもらうことにある」と述べた。

吉村氏らは同地で李炷烽・金門県長(知事)を表敬訪問したほか、25日に行われた紀念大会および戦没者慰霊祭などの活動に出席した。

「古寧頭戦役」とは、「金門戦役」とも呼ばれる1949年に起きた、中国共産党軍と台湾国民党軍の戦いの帰趨を制した、台湾海峡金門島を巡る戦闘のことである。この戦いで中国共産党軍は、国民党軍に敗北、台湾を奪取できなかった。「軍事顧問」とあるが、この戦いを実際に指揮したのは、旧日本陸軍の根本博中将であった。

2.根本 博 陸軍中将

1936年(昭和11年)2月26日勃発した「二・二六事件」の際、陸軍省新聞班長として、有名な「兵に告ぐ、勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が発せられたのである。・・」という戒厳司令部発表を反乱軍の占拠地帯に向かって部下に拡声器で放送させ、反乱軍を動揺させ切り崩し工作を行なったのが、根本博大佐(当時)であった。

根本中将は、戦時中1944年(昭和19年)11月、内蒙古(現在のモンゴル)に駐蒙軍司令官として着任した。翌1945年(昭和20年)8月に迎えた「終戦」であるが、旧ソ連軍の満州侵攻は終戦後も止まることはなく多くの満州在住の日本人がその犠牲となった。同様に、旧ソ連と国境を接していた内蒙古、その地域在住の日本人約4万人の命も危機に晒されていた。

ソ連軍への抗戦は後に罪に問われる可能性もあったが、罪を問われた際は一切の責任を負う覚悟で、内蒙古に侵入するソ連軍に対して徹底抗戦の命令を日本軍に下した。停戦交渉をソ連軍に対して試みるが、「領土拡張」の強い意向を持つソ連軍はそれに応じず戦争状態は継続された。更に、蒋介石の中国国民党軍と内戦状態で対峙していた中国共産党の八路軍(人民解放軍の前身)の攻撃にも必死に耐え、日本人居留民4万人を無事に内蒙古から日本への帰路の途に就かせ、日本への引揚船に乗るまで居留民の食料や衣服の提供に尽力した。その翌年、1946年(昭和21年)8月、根本中将は、最高責任者として在留日本人4万人の日本への帰還及び中国北方方面の日本軍将兵35万人の復員を終わらせ、最後の船で日本へ帰国したのである。

終戦時、中国大陸には日本の軍人、軍属、一般市民約600万人が在住していたが、中国共産党軍と異なり、後に台湾、中華民国総統に就任した蒋介石の中国国民党軍は、日本軍の引き揚げに非常に協力的であり、自国のために使うべき鉄道路線も可能な限り日本軍、日本人居留民の輸送に割り当てた。そのため、「引揚げ」には10年以上かかると日本政府は予想していたと言われているが、1年弱で完了することができた。

蒋介石は、陸軍士官学校に入学を希望する中国、清からの留学生の準備教育を目的として設立された「東京振武学校」出身者で、日本陸軍の軍人であったまた、国民党軍上級幹部には、日本の陸軍士官学校卒業者が多かったので、日本人の気質及び日本軍人の軍律の厳しさを熟知しており「日本人が終戦に真摯に従う姿」が良く理解できていたため、蒋介石及び国民党軍幹部は自らが学んだ「武士道精神」に則り、上記のような武装解除の対応をしたのであろう。

筆者の父は、満鉄に勤めていた祖父のもと旧満州大連で生まれ、大阪に本社を置くゼネコンで勤務することが決まっていたが「海軍兵科第三期予備学生」として学徒出陣、海軍士官として戦争末期には台湾沖の澎湖島の高射砲部隊にいた。終戦後、台湾から大阪に直接復員した。父からは、「大連の親戚、家族を港まで迎えに行った時、みんな身一つで引揚げてきた」という話をよく聞いたものである。内蒙古からの引揚者が荷物を携えて来られたのも根本中将麾下の日本陸軍、また蔣介石以下、日本の武士道を学んだ中国国民党軍、彼ら「侍」の力によるものであろう。

根本元中将は、復員後、本コラムの「RMー58 ノブレス・オブリージュ(Noblesse oblige)」に記した白州次郎が住んでいた、東京の鶴川村(現在の町田市能ヶ谷)の自宅へ戻った。しかし、中国での国民党の敗北が決定的となり、1949年(昭和24年)1月に蔣介石が総統を辞任すると、蔣介石に対して「在留邦人と日本兵の日本への帰還に対して強い恩義を感じていた」根本元中将は、「釣りに行く」と言って、釣り竿1本を携えて家を出た。

通訳の吉村虎二氏を入れて総勢7名、現代版「7人の侍」は、上海の元貿易商、明石元長氏からの要請で台湾へ密航、8月蔣介石と面会した。米国からの軍事支援打ち切りの通告を受けて孤立無援の状態にあった蔣介石は、彼らの協力申し入れを受け入れ、根本元中将は「林保源」に名前を変え、その2ヶ月後10月24日、金門島における古寧頭戦役を指揮、上陸してきた中国人民解放軍を見事に破り、同島を死守した。以来、台湾本島から180㎞離れ中国本土を目の前にしたこの金門島は、現在でも台湾領なのである。

台湾政府も根本元中将も沈黙を守り続け立ため、その後長く謎に包まれていたが、2009年台湾の国防部(国防省に該当)が根本元中将の功績を公式に認め、その後公開された「蒋介石日記」でもこれらの事実が明確に裏付けられ、戦後60年以上経って「台湾を助太刀した」根本元中将たちの存在が明らかになったのである

3.明石元二郎

根本元中将の台湾への密航を支援した明石元長氏の実父は、陸軍大将の職位で台湾総督となった明石元二郎である。

「日露インテリジェンス戦争を制した天才参謀・明石元二郎大佐」(前坂俊之著、新人物往来社刊)」によると、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業、ドイツ留学を経て、1901年(明治34年)フランス公使館付陸軍武官となった。翌1902年(明治35年)ロシア帝国の首都ペテルブルクのロシア公使館付陸軍武官へ転任、「陸軍の仮想敵国」であったロシア国内の情報収集に努めロシアの反政府分子と接触、彼らと主として「ロシア革命支援工作」等の工作活動をおこなった。来たる日露開戦に備えロシア軍の情報を入手するため、映画「007ロシアより愛を込めて」さながら、日英同盟を背景に英国情報部のスパイと共に行動して貴重な軍事情報を英国および日本にもたらした人物であり、当時の国家予算が約2億3,000万円の時、100万円(現在の貨幣価値では400億円以上と言われている)という桁外れの巨額資金を陸軍から委ねられ防諜活動、破壊工作をした人物としても有名である。

その巨額資金の使途、行動等に関しては、本人がその詳細な長文報告書を「落花流水(らっかりゅうすい)」と題して残している。ロシアでは、アバズレーエフという偽名を使いスパイ活動、社会の暗部で活躍したが、私生活では極めて清廉であった。実際、「工作資金100万円」は、軍の機密に関する資金であり、返済の必要はないのだが、残金27万円を「100ルーブルが不足しているが、それは列車のトイレで落としてしまったため」と付記したような詳細な明細書を付け陸軍に全額返済した。彼は、1918年(大正7年)6月台湾総督に任命された。諜報、インテリジェンス一筋で、「スパイ蔑視」の風潮が色濃く残る陸軍の階級を上り詰めて陸軍大将になった明石は、「台湾は東洋の心臓である」と戦略的に台湾を非常に重要視して、台湾の経済成長に多大な貢献をした人物としても知られている。

この明石元二郎が活躍した日露戦争の裏舞台は、別コラムで描くことにして、本稿では、日本と台湾との関係を追ってみたい。

4.台湾の近代化改革

日清戦争の結果、1895年(明治28年)4月17日、現在でも残る、山口県下関市の有名料亭旅館「春帆楼」で調印された、下関の通称だった「馬関」をとって一般的には「馬関条約」と言われ、戦後「下関条約」と改名された、正式名称「日清講和条約(日淸兩國媾和條約)」によって、台湾及び澎湖列島は日本へ割譲され、日本は台湾を領有することとなり、その拠点として「台湾総督府」が台北に置かれ、同年6月17日始政式が行われ台湾統治が開始された。

日本統治前の台湾では、土地の所有制度が複雑であり、「一土地=一所有者」とはなっていなかった。封建時代の中国に存在した「一田多主」と言われる制度によって、一か所の土地には複数の地主がいたのである。これが清国の資本家の搾取を生み、台湾の農民が困窮していた大きな原因の一つであった。

「大租戸」と言われる「政府が認定した所有者」が、「大祖」と言われる租税を取る一方で、「小租戸」と言われる「実際の所有権を持ち自由に土地を処分できる」所有者が存在、さらにその土地を借りて耕作する「小作」が存在する等という土地所有に関する複雑な法慣習が存在していた。このような法慣習では、土地の所有権関係は不明確であり、「隠田」と言われる勝手に山林を開墾して田畑化した者の土地に対する権利関係も不明確であった。

台湾総督府は、戦国時代の太閤検地さながら、詳細な土地調査事業を統治の基盤にすべくおこなった。土地関係を把握して、その土地に関する所有権、使用権等を明確にする調査を徹底しておこない、「土地の所有権制度」を抜本的に変えた。この結果、台湾の農民は豊かになり、これが台湾が近代化していくための大きな一歩となったのである。

また、1898年(明治31年)、第4代台湾総督として児玉源太郎が就任すると、当時内務省の官僚だった後藤新平を民政長官に抜擢した、彼は、後に東京市長、また内務大臣として1923年(大正12年)起こった「関東大震災」からの復興の指揮を執り、皇居前の和田倉門交差点から東京駅前の東京駅中央口交差点までを結ぶ、幅70メートルを超える「行幸通り」を建設するなど、「欧米最新の都市計画を採用して、復興をおこなった」人物である。

この2人の「児玉・後藤政治」と呼ばれる約9年間続いた時代には、「植民地には日本の内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治する」という「特別統治主義」に則っておこなった道路、交通網の近代化も進み、台湾の近代化は大きく進んだ

特に、医者であった後藤新平は「風土病の原因は公衆衛生が未発達であるため」と断定、当時日本本土にも無かった「浄水場」の建設等を含めて公衆衛生に多大の投資をおこない、公衆衛生は大きく進展、台湾住民の平均寿命は飛躍的に伸びていくことになった。さらに、「台湾は台湾人が主体的に近代化を進めていくべき」と考えた日本政府は、そのための「教育」にも大きな力を注ぎ、「義務教育制」を発足させ、台湾住民の識字率を大幅に上げていった。

また、旧5千円札に肖像が描かれていた新渡戸稲造の才能を見いだしていた後藤は、同じ岩手出身ということもあり依頼し続け、ようやく2年後札幌農学校を辞職して、台湾総督府に技師として着任した。それまでの台湾のサトウキビは茎が細くて収穫量も少なかったため、新渡戸は、外国から台湾の風土にあった品種を導入、栽培方法も改良、さらに収穫期を異にする品種を栽培して、台湾の製糖工場が一年中稼働できるようにした。結果、着任当初の1902年には5万5000トンだった製糖生産量は、25年には48万トンに達し、36年からは年産100万トンを超えるまでになっていった。こういった、新渡戸の台湾製糖業への貢献は、台湾高雄市の台湾糖業博物館に展示されている。

更に、先に記した明石元二郎が、1918年(大正7年)第7代台湾総督に就任すると、その就任直後の訓示でも、「産業を発達させ、中国の南部地方やフィリピン等南洋方面との経済的結びつきを強めること」、また「台湾の慣習や文化を尊重し、親密かつ円満な関係を築くこと」を述べたが、僅か1年強の在任期間でありながら、まれに見る熱意をもって産業の振興、教育制度の拡充に力を注ぎ、台湾発展のスピードを更に上げていった。

例えば、現在でも工業都市として栄える高雄市だが、そのために高雄港の大拡充をおこなった。経済発展を確実なものにするために必要な「電力の確保」のため、「日月潭(じつげつたん)」の水力発電所建設を決め、1919年(大正8年)7月官民共同出資による台湾電力会社が設立され、1934年(昭和9年)完成、電力の安定供給が実現、高雄は急成長を遂げ、その後の台湾発展の礎となっていった。

また、鉄道網の拡充にも力を入れ、輸送量の限界に達していた縦貫鉄道を補完するため西部の海岸部を走る新たな「海岸線」と呼ばれる路線を建設、輸送力増強に加え、スピードアップも実現することになった。また、こういった近代化へ日本統治が大きく寄与したことに関しては、筆者が実際に確認したのは「台湾の中学1年生用の社会科の教科書」であったが、寄与した多くの日本人の実名を挙げて「史実」として、台湾では、現在使われている「教科書」にも記されていることなのである。

また、台湾総督府内の官制や地方庁制度の改革、国防を視野にした「華南銀行」の設立、司法制度や学校制度をより日本本土の体制に近づける努力をおこない、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正して台湾人にも帝国大学進学への道を開いた。さらには、清国の資本家によって乱獲されて荒れ果てた山林の育成のための営林署の権限強化、また台湾軍の創設など、様々な取り組みを行なったが、就任当初から、現地事情の把握のため、前例のない頻度で各地を視察したことによる過労がたたり、1919年7月、当時流行していた「スペイン風邪」と思しきインフルエンザに罹患、10月大分県別府での療養のため台湾を離れたが、10月24日亡くなった。

軍人(武人)であった彼は、「『いざ』という時のため」と、生前から部下に「万が一の際は台湾に葬るように」と遺言を残していたため、遺体は台湾に戻り、現在の康楽公園、林森公園にあたる三板橋(さんばんきょう)の共同墓地に埋葬された。台湾総督は、歴代19名誕生したが、台湾を永眠の地に選んだのは彼だけであった。現在、その墓地は台湾の北部、新北市三芝(さんし)にある。

彼の数々の決断は100年先を見越したものばかりであったようであり、その華が現在大きく開いているのである。このように、日本の台湾統治は、欧米列強がおこなったような「植民地」としての統治ではなく、「同じ日本人として、その一部の台湾を近代化させよう」という思想のもとであったと言えるのではないだろうか、だからこそ、そういう事情が理解されているからこそ、台湾は「親日国」であり続けてくれているのではないだろうか。

今回のまとめ

「『ものごとが起き、そして存在する』のは、その原因を詳細に調べなければ、その本当の背景、理由は分からない」ものである。「この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」(門田隆将著、角川文庫刊)によると、根本元中将の功績への感謝の品として、蔣介石は花瓶を根本元中将に手渡したとある。

この花瓶は、蒋介石が「エリザベス女王の成婚記念」に作らせた貴重な品で、2つの花瓶で一対となるもの」で、合計3セット、6点が作られた。1セットは、当然英国のエリザベス女王へ、もう1セットは、蒋介石が敬愛した日本の昭和天皇へと寄贈され、手元に残した1セットの1つを根本元中将に贈ったのである。「本来一対」であるべきその花瓶の片方は、蔣介石が長年傍らに置き、今は蔣介石の顕彰施設である「中正紀念堂」に展示されている

同書の最後には、先に記した「台湾週報」(2009年10月27日)記事に関し、以下の一文がある。

「古寧頭戦役60周年記念式典」の折、金門空港において、明石元紹さんと吉村勝行さんは、中華民国国防部常務次長の黄奕炳(こうえきへい)中将からこんな感謝の言葉を受けています。

1949年、わが国が一番苦しかった時に、日本の友人である根本様と吉村様二人にしていただいたことを永遠に忘れることはできません。わが国には『雪中に炭を送る』という言葉があります。一番困ったときに、お二人は、それをやってくれたのです。中華民国国防部を代表して心より御礼を申し上げ、敬意を表します」

今年、2021年1月23日、台北市にある超高層ビル「Taipei 101ビル」の上層階の窓に「日台友情」というメッセージが映し出され、東日本大震災10年目を「日台友情年」として感謝するイベントの開始式典がおこなわれた。式典には、日本の文科大臣に相当する台湾の李永得文化部長が列席、蔡英文総統も自身のツイッターに、日本語で「我々は世界に向けて、台湾と日本はいつまでも、固く結ばれている隣人だと伝えたい。台湾人と日本人は、心と心で深いつながりを築いています。その絆こそ、台日関係の最大の原動力であります。いつまでも日本を応援しています!」と投稿した。

ちょうど10年前、2011年起きた東日本大震災後に「台湾から義援金250億円が届いたこと」は我々の記憶にいまだに深く刻まれていることだろう。ただし、こういった「ものごと」の現状をただ見るだけなのか、それともその本源的な理由を探り、徹底して調査するかによって、その「ものごと」を活かせるか否かが決まっていく。

「親日国だからだな」と思って「そのままにする」のか、それとも「なぜ」と考えて、考えを更に進め調べていくのか。実は、「本物のリスクマネジメント」になるか否かの分岐点は、ここにある。「なぜ?」と思うか否かである。

ロンドンに「毎年、2ヶ月に1回の出張」をし始めた頃、日本の風習の所為か、ある有名なロイズ(Lloyd’s of London)のシンジケートの役員でありアンダーライターでもある人に、「当然、大学卒だろう」と思い、何気なく「大学はどこですか?」と聞いてみたら、「いや行っていないよ」と答えられたことがある。実は、筆者の親しいロイズ(Lloyd’s of London)のアンダーライター(保険引受人)達の多くは、大学を卒業していない。また、一般のアンダーライター、ブローカー会社の役員でもそういう人が多いと聞く。

彼らは長年、「実務でリスク判断を勉強して出世の階段を上った人たち」だからである。彼らに共通していると感じることは、「なぜ?」という言葉を実に多く発することである。「なぜこうなるのか」、「なぜこうなったのか」と絶え間なく聞いてくるし、また自問自答もする人たちであると言えよう。一言で言うと「ものごとを鵜呑みにしない」ということである。

「台湾が親日国」という「事実」がある、しかし、そういう「事実・結果」には、その「背景」と「理由」が必ず存在する。これをリスクの分野で検討する作業をリスクマネジメントと呼ぶ。だからこそ、「よく調査もしない」、また「よく考えもしない」、そんなリスクマネジメントは存在しない。しかし、「よく調査する、よく考える」ためには、「そのリスクが、自分に、自社に大きな損害を発生させる可能性がある」と考えるからこそ真剣にできる作業であるというのも、また事実である。

「保険を付けているから」と「保険会社任せにする発想」では本当のリスクマネジメントができない理由がここにある。だからこそ、グローバル・リンクは「再保険の手配は万全にしつつも、第一義的にはリスクを自社のリスクとして引受けるキャプティブ」をリスクマネジメントの切り札として推奨しているのである。

執筆・翻訳者:羽谷 信一郎

English Translation

Risk Management 61- “The fisherman of Quemoy” (Army Lieutenant General Hiroshi Nemoto)
The following article appeared in SankeiBiz (2021.2.14 12:35), titled “Taiwan’s President Tsai sends message of support on Twitter: Maximum intensity of 6 upper on the Japanese scale in Miyagi and Fukushima”.

Taiwan’s President Tsai Ing-wen posted a message on Twitter on February 14, saying, “If you need help, Taiwan will come to you at any time,” following an earthquake that hit Miyagi and Fukushima prefectures with a maximum intensity of 6.0 upper on the Japanese scale late on February 13.

Tsai said, “We believe that everyone in Japan is safe after the big earthquake with a seismic intensity of 6.0 upper centered in Fukushima and Miyagi prefectures. We have told you many times before, and we will never change our feelings of support for Japan. In just over 30 minutes, the post received 15,000 likes.

The message was followed by a flurry of tweets, many of them in Japanese, English and Chinese, apparently from within Japan, expressing gratitude for the post and expressing friendship with Taiwan.

On 26 February, China declared an embargo on Taiwanese pineapples, saying it had detected pests in quarantine, and suspended all imports on 1 March. As the move spread on social networking sites such as Twitter and Facebook, a movement to “support Taiwanese pineapples by buying them” quickly spread on the Japanese Internet. Japan, which has some of the strictest food import standards in the world, was the first country to react. In just three days, more than 5,000 tons of pineapples have been ordered from Japan, a record high, and another 1,200 tons have been ordered,” tweeted Taiwan’s Vice President Lai, thanking Japan for its support.

All online stores that have been selling Taiwanese pineapples are now sold out. The price of Taiwanese pineapples is two to three times higher than that of Philippine pineapples, which are usually sold in supermarkets. Many people want to return the favor to the Taiwanese people who have been so kind to them in the past, such as by providing support for the areas affected by the Great East Japan Earthquake and by providing masks for the covid-19 disaster. This is proof that there are many Japanese who want to help Taiwan.

On the afternoon of April 16 (early morning Japan time), Prime Minister Yoshihide Suga and US President Biden met for the first time at the White House to discuss a range of issues concerning China and US-Japan cooperation in economic and other areas. The two leaders agreed on the importance of peace and stability in the Taiwan Strait, where tensions have been rising due to China’s provocative military activities against Taiwan, and included Taiwan in the joint statement for the first time since Japan established diplomatic relations with China in 1972.

1. The Battle of Guningtou

On October 27, 2009, the following article appeared in the Taiwan Weekly, a Japanese language government magazine published weekly by the ROC (Taiwan) government.

Families of Japanese Military Advisors Visit Taiwan on the 60th Anniversary of the Battle of Guningtou

This year, 25 October marks the 60th anniversary of the Battle of Guningtou, in which the Nationalist forces intercepted the Chinese Communist forces that launched a night raid on the Guningtou area of Quemoy and won a major victory. Prior to this, on 23 October, Mr. Katsuyuki Yoshimura, the son of Mr. Toraji Yoshimura, one of the Japanese military advisors who assisted the KMT forces in the battle, visited Quemoy, along with Mr. Mototugu Akashi, the grandson of the 7th Governor of Taiwan, Mr. Motojiro Akashi, Mr. Takamasa Kadota, a biographer, and Mr. Isao Takada, the chief editor of Shueisha. They were welcomed by Lieutenant-General Huang Yi-bing, Deputy Director-General of the Ministry of Defence, and Major-General Wang Ming-ga, Deputy Director-General of the Ministry of Defence’s Political Warfare Bureau.

Seven former Japanese military officers, including Mr. Toraji Yoshimura and former Army Lieutenant General Hiroshi Nemoto, who used to be the Commander of the Japanese Army in North China and the Commander of the Japanese Army in Mongolia, risked their lives to go to Taiwan in 1949 to secretly help President Chiang Kai-shek fight against the Chinese Communist forces. Mr. Nemoto and his colleagues became deputy chiefs of the Suijing Public Office in Fuzhou, military advisers to General Yu Enbo’s troops, and led the Kuomintang troops to a great victory in the Battle of Guningtou.

Mr. Yoshimura Katsuyuki, who visited Taiwan this time, said: “Originally, Mr. Nemoto’s family wanted to visit Quemoy themselves, but they were too old to make the long journey, so I visited on their behalf. I am glad that I could reminisce about the footsteps of our predecessors and receive their warm hospitality”.

Lieutenant-General Huang Yi-bing also presented Mr. Yoshimura and others with a book on the Battle of Guningtou, saying: “I am grateful for the cooperation of the Japanese people during the Battle of Goningtou, which can be described as an act of ‘sending charcoal in the snow’. When we look back on this history of those days, we will be grateful and nostalgic for a long time. The Ministry of National Defense’s activities to commemorate this war are intended to make people understand the cruelty of war and to make them cherish peace more”.

Mr. Yoshimura and his colleagues paid a courtesy call on the governor of Quemoy, Lee Chu-feng, and attended a commemoration meeting and a memorial service for the war dead on the 25th.

The Battle of Guningtou, also known as the Battle of Quemoy, was fought in 1949 between the Chinese Communist Party (CCP) and Taiwan Nationalist Party (KMT) forces over the island of Quemoy in the Taiwan Strait. In this battle, the Chinese Communist forces were defeated by the Nationalist forces and were unable to take Taiwan. Although he is described as a “military advisor”, it was the former Japanese Army Lieutenant General Hiroshi Nemoto who actually led the battle.

2. Lieutenant-General Hiroshi Nemoto

On the occasion of the “2.26 Incident”, which broke out on February 26, 1936, as the chief of the newspaper team of the Ministry of the Army, he issued the famous “Imperial Order to Soldiers, the Emperor’s order has already been issued”. It was then Colonel Hiroshi Nemoto who had his subordinates broadcast the announcement of the Martial Law Command over loudspeakers to the rebel-held areas, in order to unsettle and break down the rebels.

Lieutenant-General Nemoto arrived in Inner Mongolia (present-day Mongolia) in November 1944 as Commander-in-Chief of the Mongolian Army during the war. The war ended in August 1945, but the invasion of Manchuria by the former Soviet Union did not stop even after the war ended, and many Japanese living in Manchuria became its victims. Similarly, the lives of some 40,000 Japanese living in Inner Mongolia, which bordered the former Soviet Union, were also at risk.

There was a possibility that he would later be charged with crimes for fighting against the Soviet army, but he was prepared to take full responsibility if they were charged, and gave orders to the Japanese army to fight tooth and nail against the Soviet army invading Inner Mongolia. Attempts were made to negotiate a ceasefire with the Soviet troops, but the Soviet troops, with their strong desire for “territorial expansion”, would not agree to this and the state of war continued. In addition, he desperately withstood the attacks of the Chinese Communist Party’s Eight Road Army (the forerunner of the People’s Liberation Army), which was confronting Chiang Kai-shek’s Chinese Nationalist forces in a state of civil war, and safely brought 40,000 Japanese residents from Inner Mongolia back to Japan, and made efforts to provide food and clothing for them until they boarded repatriation ships to Japan. The following year, in August 1946, Lieutenant-General Nemoto, as the chief executive, completed the return to Japan of 40,000 Japanese residents and the demobilisation of 350,000 Japanese military officers in northern China, before returning to Japan on the last ship.

At the end of the war, there were about six million Japanese soldiers, civilians and civilian employees living on the Chinese mainland, but unlike the Chinese Communist forces, the Chinese Nationalist forces of Chiang Kai-shek, who later became President of Taiwan and the Republic of China, were very supportive of the repatriation of Japanese troops. It is said, therefore, that the Japanese Government had expected the “salvage” to take more than ten years, but it was completed in less than a year.

Chiang Kai-shek was a graduate of the Tokyo Shinbu School, which had been established to provide preparatory education for students from China and the Qing who wished to enter the Military Academy of the Japanese Army.In addition, many of the senior officers of the Kuomintang Army were graduates of the Japanese Military Academy, so they were familiar with the Japanese temperament and the strictness of the military discipline of the Japanese soldiers, and they were able to understand “the Japanese people’s sincere obedience to the end of the war”. Chiang Kai-shek and the Kuomintang military leaders must have taken the above disarmament measures in accordance with the “Bushido(Samurai) spirit” which they had learned.

The author’s father was born in Dalian, Manchuria, to a grandfather who worked for the Manchurian Railway Company. Although he had been assigned to work for a general contractor based in Osaka, he was sent to study as a “third-term reserve student of the navy”, and as a naval officer, at the end of the war he was in an anti-aircraft gun unit on the Penghu Islands off Taiwan. After the war, he was demobilized directly from Taiwan to Osaka. I often heard it from him when he went to the port to pick up his relatives and family in Dalian, they had all been repatriated alone.

The fact that the repatriates from Inner Mongolia were able to come with their belongings was due to the power of the Japanese Army under the leadership of Lieutenant-General Nemoto, and the Chinese Nationalist forces under the former President Chiang Kai-shek, who had learned the Japanese way of “Bushido (Japanese chivalry)”, and their “samurai”.

After demobilisation, Lieutenant-General Nemoto returned to his home in Tsurukawa-mura (present-day Nogaya, Machida), Tokyo, where Jiro Shirasu had lived, as described in “RM-58: Noblesse oblige” in this column. However, when the defeat of the Kuomintang in China became decisive and Chiang Kai-shek resigned as president in January 1949, Lieutenant-General Nemoto, who “felt a strong sense of indebtedness to Chiang Kai-shek for the return of Japanese nationals and Japanese soldiers to Japan”, left home with a fishing rod, saying that he was going fishing.

Including interpreter Toraji Yoshimura, the group of seven, a modern-day version of ”the Seven Samurai”, travelled secretly to Taiwan at the request of a former Shanghai trader, Motonaga Akashi, to meet Chiang Kai-shek in August. Chiang Kai-shek, who was in a state of helplessness after being informed by the United States that its military support had been cut off, accepted the offer of help, and two months later, on October 24, former Lieutenant-General Nemoto changed his name to “Lin Baoyuan”, and led the battle of Guningtou on Quemoy, successfully defeating the Chinese People’s Liberation Army that had landed on the island and defending it. Since then, Quemoy, 180 kilometres from the main island of Taiwan and within sight of the Chinese mainland, has remained Taiwanese territory.

Both the Taiwanese government and Lieutenant-General Nemoto remained silent, and the story remained a mystery for many years. However, in 2009, Taiwan’s Ministry of National Defense officially acknowledged the achievements of Lieutenant-Genera Nemoto, and the “Chiang Kai-shek Diary” published afterwards clearly confirmed these facts, revealing the existence of Lieutenant-Genera Nemoto and others who “helped Taiwan” more than 60 years after the war.

3. Genjiro Akashi

The father of Motonaga Akashi, who assisted Lieutenant-General Nemoto in his secret voyage to Taiwan, was Genjiro Akashi, who became Governor-General of Taiwan at the rank of General of the Army.

According to the book “Colonel Motojiro Akashi, the Genius General Staff Officer Who Won the Japanese-Russo Intelligence War” (Toshiyuki Maesaka , published by Shinjinbutsu Oraisha), he graduated from the Military Academy and the Army War College, and after studying in Germany, he became an army officer attached to the French legation in 1901. In 1902, he was transferred to the Russian legation in Petersburg, the capital of the Russian Empire, where he gathered information on Russia’s domestic situation and came into contact with Russian rebels, with whom he mainly carried out espionage activities such as “supporting the Russian Revolution”. In order to obtain information on the Russian army in preparation for the coming war between Japan and Russia, he worked together with British intelligence agents against the background of the Anglo-Japanese alliance, as in the movie “007: From Russia with Love”, and brought valuable military information to Britain and Japan. At a time when the national budget was about 230 million yen, the Army entrusted him with an extraordinary amount of money, 1 million yen (said to be over 40 billion yen in today’s money), and he is also famous for his counter-intelligence and sabotage activities.

As for the use of the huge amount of money and his actions, he himself left a detailed long report entitled “Rakka Ryusui”. In Russia, he used the pseudonym of Abazhreev to spy on people, and was active in the dark side of society, but in his private life he was extremely pure. In fact, he repaid in full the balance of 270,000 yen to the army, with a detailed statement that he was short 100 rubles because he had dropped them in the toilet of the train. He was appointed Governor-General of Taiwan in June 1918. Akashi, who had a career in intelligence and had risen through the ranks of the army, where there was still a strong tendency to “despise spies”, to become a general in the army, is also known as a man who placed great strategic importance on Taiwan, saying that “Taiwan is the heart of the Orient”, and who contributed greatly to Taiwan’s economic growth.

The story behind the Japanese-Russo War, in which Genjiro Akashi played an active role, will be the subject of a separate column, but in this article we will try to follow the relationship between Japan and Taiwan.

4. Taiwan’s Modernisation Reforms

As a result of the Japanese-Sino War, the Treaty of Shimonoseki was signed on April 17, 1895, at the Shunpanro, a famous ryokan in Shimonoseki, Yamaguchi Prefecture, which still stands today.

It was commonly called the “Treaty of Bakan” after the common name of Shimonoseki. After the war, it was renamed the “Treaty of Shimonoseki”, and was officially known as the “Treaty of Peace between Japan and the Qing Empire”, which Taiwan and the Penghu Islands were ceded to Japan, which took possession of them. On 17 June of the same year, a ceremony was held to inaugurate the administration of Taiwan.

Prior to the Japanese occupation, the land ownership system in Taiwan was complex and did not follow the “one land, one owner” principle. In feudal China, the system of “one land, many owners” meant that a piece of land could have several owners. This led to the exploitation of the Qing capitalists and was one of the main reasons for the impoverishment of the Taiwanese peasants.

There were two types of landowners in the country: the “big landowners” who were authorized by the government and paid taxes called “big ancestors”, and the “small landowners” who owned land and could dispose of it freely, and there existed “small farmers” who rented the land and cultivated it. Under these legal customs, the relationship of ownership of land was unclear, and the rights of those who cultivated mountains and forests into fields, known as “hidden fields”, were also unclear.

The Taiwan Governor-General undertook a detailed land survey project, similar to that of “the Taiko survey” in the Warring States period, in order to establish the basis for his rule. The survey was carried out to ascertain the land relations and clarify the ownership and use rights of the land, and the “land ownership system” was fundamentally changed. As a result, Taiwan’s farmers became more prosperous, and this was a major step in Taiwan’s modernization.

In 1898, when Gentaro Kodama became the fourth Governor-General of Taiwan, he appointed Shinpei Goto, then a bureaucrat in the Ministry of Home Affairs, as the Minister of Civil Affairs. Later,as Mayor of Tokyo and Minister of Home Affairs, he was responsible for the reconstruction of the city after the Great Kanto Earthquake of 1923, and “adopted the latest urban planning techniques from Europe and the United States”, including the construction of Miyuki-dori, a street over 70 metres wide, connecting the Wadakuramon intersection in front of the Imperial Palace to the intersection at the central entrance to Tokyo Station.

During the so-called “Kodama-Goto political period”, which lasted for about nine years, Taiwan’s modernisation progressed greatly, as did the modernisation of roads and transport networks, which was carried out in accordance with the “special governance principle”, which stated that colonies should not be governed by Japan’s domestic laws, but by a special independent system. In particular, Shinpei Goto, a doctor, determined that the cause of endemic diseases was underdeveloped public health, and invested a great deal of money from the Japanese mainland in heavily in public health, including construction of water purification plants for the benefit of Taiwan which were not even available in mainland Japan at the time. Furthermore, the Japanese government believed that the Taiwanese people should take the initiative in modernizing the country, and to this end, it invested a great deal of effort in education, establishing a compulsory education system and greatly increasing the literacy rate of the Taiwanese people.

Goto, who had discovered the talents of Inazo Nitobe, whose portrait appeared on the old 5,000 yen note, kept asking him for help, and two years later he resigned from the Sapporo Agricultural School and joined the Taiwan Governor’s Office as an engineer. The sugar cane grown in Taiwan up to that time was thin-stemmed and the yield was low, so Nitobe introduced varieties from abroad that were suited to the Taiwanese climate, improved the cultivation methods, and grew varieties with different harvest seasons so that the sugar factories in Taiwan could operate all year round. As a result, sugar production increased from 55,000 tons in 1902 to 480,000 tons in 1925, and from 1936 to over 1 million tons a year. Nitobe’s contribution to Taiwan’s sugar industry is on display at the Taiwan Sugar Museum in Kaohsiung, Taiwan.

In 1918, when Motojiro Akashi was appointed as the seventh Governor-General of Taiwan, he issued a directive to “develop industry and strengthen economic ties with the southern regions of China, the Philippines and other parts of the South Seas”, and to “respect Taiwanese customs and culture and build close and amicable relations”. Although he was only in office for just over a year, he devoted himself with rare enthusiasm to the promotion of industry and the expansion of the education system, and further accelerated the pace of Taiwan’s development.

For example, the city of Kaohsiung, which still flourishes as an industrial city, underwent a major expansion of the Kaohsiung Port. In July 1919, the Taiwan Electric Power Company, a joint venture between the public and private sectors, was established and completed in 1934, providing a stable supply of electricity. Kaohsiung grew rapidly and became the foundation for the development of Taiwan. Motojiro Akashi also made great efforts to expand its railway network, and built a new “Coastal Line” running along the western coast to supplement the Transcontinental Railway, which had reached its limit in terms of transportation capacity, thereby increasing transportation capacity and speed. In addition, the Japanese occupation made a great contribution to the modernization of Taiwan, and although the author was able to confirm this in a first-year social studies textbook, the names of many of the Japanese who contributed to the modernization of Taiwan are listed as “historical facts” in the textbooks currently in use in Taiwan.

He also reformed the governmental and local governmental systems within the Taiwan Governor’s Office, established the Bank of South China with a view to national defense, made efforts to bring the judicial and school systems closer to those of the Japanese mainland, and amended the law to provide equal access to education for Japanese and Taiwanese, thus opening the way for Taiwanese to enter the Imperial University. In July 1919, he was struck down by the Spanish flu, which was prevalent at the time.In July 1919 he contracted influenza, which he thought was the Spanish flu. In October, he left Taiwan to recuperate in Beppu, Oita Prefecture, where he died on 24 October.

As he was a military man, he had left his last will and testament to his subordinates that he would be buried in Taiwan in case of emergency, so his body was returned to Taiwan and buried in the common cemetery at Sanbanqiao, which is now Kang Le Park and Lin Sen Park. Of the 19 successive Governors of Taiwan, he was the only one to choose Taiwan as his final resting place. Today, the cemetery is located in Sanzhi, New Taipei City in northern Taiwan.

It seems that his many decisions were made with a hundred years of foresight, and his flowering is now wide open. In this way, it can be said that Japan’s rule of Taiwan was not as a “colony” as the Western powers had done, but was based on the idea of “modernising Taiwan as a part of the Japanese people”, and it is because of this understanding that Taiwan has remained a “pro-Japanese” country. It is because of this understanding that Taiwan continues to be a “pro-Japanese” country.

Summary of this issue

The reason why things happen and exist cannot be understood without a detailed study of their causes. According to “This Life, Dedicated to Righteousness: The Miracle of Hiroshi Nemoto, the Army Lieutenant General Who Saved Taiwan” (Kadokawa Bunko, written by Takamasa Kadota), Chiang Kai-shek handed a vase to Lieutenant-General Nemoto as a token of appreciation for his service.

The vase was made by Chiang Kai-shek “in commemoration of Queen Elizabeth’s marriage” and was “a pair of two vases”, totaling three sets of six pieces, one of which was donated to Queen Elizabeth of England and the other to Emperor Showa of Japan, whom Chiang Kai-shek admired. One of the set Chiang Kai-shek had left behind was presented to Lieutenant-General Nemoto. One of the vases, which should have been a “pair”, was kept by Chiang Kai-shek for many years and is now on display in the Chiang Kai-shek Memorial Hall.

At the end of the book, there is the following sentence in relation to the article in the Taiwan Weekly News (27 October 2009) mentioned above.

On the occasion of the 60th anniversary of the Battle of Guningtou, at Quemoy Airport, Mototsugu Akashi and Katsuyuki Yoshimura received a word of thanks from Lieutenant General Huang Yi-bing, Deputy Director General of the Ministry of National Defense of the Republic of China.

In 1949, when our country was at its most difficult, we will never forget what our two Japanese friends, Mr. Nemoto and Mr. Yoshimura, did for us. In our country we have a saying: “Sending charcoal in the snow”. That is what you two did for us at the time of our greatest need. On behalf of the Ministry of National Defense of the Republic of China, I would like to express our heartfelt gratitude and respect.

This year, on January 23, 2021, the message “Friendship between Taiwan and Japan” was projected on the windows of the upper floors of the Taipei 101 skyscraper to mark the 10th anniversary of the Great East Japan Earthquake as the “Taiwan and Japan Friendship Year” at the opening ceremony of the event. Taiwan’s Minister of Culture Lee Yong-de, the equivalent of Japan’s Minister of Education, Culture, Sports, Science and Technology, attended the ceremony, and President Tsai Ing-wen wrote on her Twitter account in Japanese, “We want to tell the world that Taiwan and Japan will always be strong neighbours. Taiwanese and Japanese people have built a deep connection in our hearts and minds. That bond is the greatest driving force of the Taiwan-Japan relationship. We will always support Japan!”

Ten years ago, after the Great East Japan Earthquake in 2011, Taiwan donated 25 billion yen to Japan, which is still deeply etched in our memories. However, whether or not we can make the most of such “things” depends on whether we simply look at the current state of affairs, or whether we thoroughly investigate the underlying reasons. Or do you think “why?” and investigate further? In fact, this is the crossroads of “real risk management”.”Why?”

When I started my “bimonthly business trip” to London, I casually asked one of the directors and underwriters of the famous Lloyd’s of London syndicate, “Where is your university? He replied, “No, I didn’t go to university”. In fact, many of the Lloyd’s of London underwriters with whom I am familiar do not have a university degree. I have also heard that many of the general underwriters and directors of broking firms are like that. This is because they have spent many years “learning to make risk decisions on the job and working their way up the ladder”. He replied, “No, I didn’t go to university”. In fact, many of the Lloyd’s of London underwriters with whom I am familiar do not have a university degree. I have also heard that many of the general underwriters and directors of broking firms are like that. This is because they have spent many years “learning to make risk decisions on the job and working their way up the ladder”.

What I find they have in common is that they say “why? ”They are the kind of people who constantly ask why things are the way they are, why they are the way they are, and why they are the way they are. In a word, they do not believe everything they hear.

There is a “fact” that Taiwan is a pro-Japanese country, but there is always a “background” and “reason” to such a “fact/result”. The work of examining this in the field of risk is called risk management. That is why there is no such thing as risk management that does not “investigate well” or “consider well”. It is true, however, that to “investigate and think carefully” is a task that can only be undertaken seriously if you believe that the risk has the potential to cause significant damage to you and your company.

This is why you can’t really manage risk if you leave it to the insurance company because you have insurance. This is why Global Link recommends captives as the best way to manage risk, taking on the risk as their own in the first instance, while ensuring that reinsurance is in place.

Author/translator: Shinichiro Hatani