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企業戦略 2021.07.02

CS 28 「容易ならざる国際人」-榎本 武揚 “A dignified International Man” – Takeaki Enomoto 

For those who prefer to read this column in English, the Japanese text is followed by a British English translation, so please scroll down to the bottom of the Japanese text.

初代内閣総理大臣は歴史の教科書に載り、多くの人々の記憶にあるが、第2代 内閣総理大臣を記憶している方は少ないだろう。その人は、1888年(明治21年)4月就任して、在任中に「大日本帝国憲法」の発布をおこなった、黒田清隆である。この黒田内閣で、第1次伊藤内閣の逓信大臣から引き続いて逓信大臣に留任した人物が榎本武揚(えのもと たけあき)であった。

榎本武揚の名前を知る人は、「榎本武揚が明治新政府の大臣となっていたこと」を聞いて驚くのではないだろうか。言わば、榎本武揚は「明治新政府に最大級の反旗を翻した人物」であり、そのために投獄もされた人物だからである。その彼が明治新政府の大臣に任じられ、しかも6度連続して種々の大臣を歴任したのである。

1.明治維新の流れ

江戸幕府の末期、榎本武揚は、実質的な徳川幕府の海軍のトップであった。1867年(慶応3年)10月「明治維新」への大きな動きが起きた。倒幕に向かって突き進んでいた薩摩藩、長州藩には、岩倉具視を中心とする公家達の動きによって、薩摩藩には慶応3年10月13日(西暦;1867年11月8日)、翌日には長州藩に対して、「討幕の密勅(正式な手続きを経ず、天皇の御璽も無い)」が公家の手によって発せられたからである。

しかし、この動きに既に気づいていた徳川幕府第15代将軍の徳川慶喜は、長州藩に密勅が下った日、朝廷に対して「大政奉還」を奏請、翌10月15日明治天皇が大政奉還を勅許することになった。このため、薩長が求めた「討幕」はその名目を失い、「討幕の実行延期の沙汰書」が10月21日に薩長両藩に対し下された。しかし、あくまでも「倒幕」を目指していた岩倉具視や薩長両藩は、徳川慶喜討伐のための様々な動きを行ない続けた。

その背景、理由は、大政奉還をおこなって政権を交代しても、朝廷による新政府の実務機関は整っておらず、また徳川家は膨大な領地を変わらず所有することになっていたため、徳川家には莫大な財産がある状態が続くからであった。「近代国家」を目指す倒幕派にとっては、徳川家、徳川慶喜は、その障壁となり更には大きな脅威となる存在であった。そのため、倒幕派は、江戸幕府の廃絶と新政府の樹立を「王政復古の大号令」として朝廷に宣言することを求め続け、慶応3年12月9日(西暦:1868年1月3日)明治天皇より発せられたのである。この翌日には、更に倒幕派によって「小御所会議」がおこなわれ、徳川慶喜に対して「右大臣職の辞任」、そして「徳川家の領地の返納を求める『辞官納地』」を決定したのである。

徳川方にとっては、「大政奉還」でさえ受け入れられない事態であったにもかかわらず、更にそれを突き進めるこの要求は到底受け入れられるものではなかった。結果、徳川幕府は、新政府側と大きく対立する事態となり、1868年(慶応4年・明治元年)1月の「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに、「戊辰戦争」に突入していくことになったのである。

鳥羽・伏見の戦いでは、幕府軍が敗れ、徳川方の拠点となっていた大阪城に一旦引いた際、徳川方の事態を悪化させる情報が江戸からもたらされた。「新政府側のテロ行為」が江戸で頻発、多くの火事が起きていたのである。この事態に対応するため、徳川慶喜は、幕府の軍艦、「開陽丸」に乗船、江戸に戻ることになった。しかし、「薩長側」から見れば、あくまでも「敵前逃亡」である。勢いづいた新政府軍は「徳川家の廃絶=新政府樹立」を旗印に徳川慶喜を追って江戸に乗り込んできた。

この事態に、「このままでは江戸が戦火によって灰燼に帰し、その混乱に乗じて、外国の攻撃がある」と憂慮した、徳川幕府の陸軍総裁であり、長崎海軍伝習所での榎本武揚の同窓生でもあった勝海舟は、薩摩の新政府軍参謀、「西郷隆盛」と会談、この結果「江戸城の無血開城」が決まったのである。こうして、幕府軍は、戦わずして江戸城を新政府軍に明け渡すことになった。

2.黒田清隆との出会い

「無血開城の条件」の一つに、幕府軍の武器をすべて新政府軍に引き渡すことがあったが、「抗戦派」を貫いてきた榎本武揚は、これを頑なに拒否、1868年(慶応4年・明治元年)8月、戊辰戦争後の徳川幕府に対する政府の処置を不満とする抗戦派の旧幕府軍に加え、新撰組や奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平定敬らを収容、フランス軍事顧問団を含んだ、総勢2,500名とともに、開陽丸、回天丸等、8隻の幕府艦隊を率いて、蝦夷地(現在の北海道)に脱出、その後、函館の五稜郭に籠もって新政府軍と戦うことになった。

江戸の無血開城を経て行き場を失った旧幕臣達の生活を守るため、蝦夷地で「新たな国土の建設」を決意した彼らは、「新国家の体制」を決めるため、まずそのトップとなる「総裁」を選ぶ選挙を幕府軍の士官以上の者からおこなった。この結果、榎本武揚が当選、五稜郭を本拠地とした事実上の政権、「蝦夷共和国」の誕生を宣言することになった。

しかし「蝦夷共和国の誕生宣言」もつかの間、主力戦艦であった「開陽丸」が、1868年(明治元年)11月15日、蝦夷地、江差沖で暴風雨に遭い、座礁、沈没した。最大最強の戦艦の喪失によって、幕府軍の新政府軍に対する海上戦力の優位性が一気に崩れ、その後の戦いでは大敗の連続、更には戦費の枯渇、相次ぐ兵士の逃亡等が起きた。最終戦の「箱館湾海戦」で全軍艦を喪失、その結果降伏することになったのである。「幕臣の手による蝦夷地の開拓と北辺防備」を望んだ武揚の嘆願は新政府に受け入れられず、首謀者として捕縛され、江戸の牢獄に投獄されることになった。

箱館戦争で敗れた段階で自害する覚悟をしていた武揚は、降伏した際、オランダ留学中に入手した後、肌身離さず大切に傍らに置いていた書物を新政府軍の参謀、「黒田清隆」に託した。その書物は、フランスの法学者オルトランが著した「万国海律全書」のオランダ語の翻訳版であり、最新の「国際法」について書かれ、榎本武揚が、多くの注釈を付けていたものであった。これを見た黒田清隆は、榎本武揚の情熱と才能に感銘を受け助命嘆願に奔走することになったのである。

必死の助命嘆願が功を奏して、1872年(明治5年)榎本武揚の助命が実現した。黒田は、近代国家の体制作りに必要な知識を豊富に持っていた武揚を見込んで、明治新政府に雇用することの了解も取り付けた。榎本武揚の豊富な海外事情に関する知見等、彼の類い希なる才能が見込まれたためであった。榎本武揚が6度の大臣経験を含む新政府の多くの枢要な役職を務めたことにより、この結果、旧幕臣の多くが明治新政府の事務方として雇用されることになった。

3.榎本武揚とは

1836年(天保7年)、江戸(現在の東京)に於いて、伊能忠敬の内弟子として測量のため忠敬と一緒に日本各地を歩き回った、旗本榎本武規(えのもとたけのり)の次男として誕生した。幕府の直轄教育機関であった「昌平坂学問所」に入学、更にジョン万次郎の私塾で英語を学んだ。19歳で、既に箱館奉行の従者として樺太探検に参加、1857年(安政3年)には前年幕府が海軍士官養成のため長崎に新設した長崎海軍伝習所に入所して、西洋の学問、航海術等を学んだ。

幕府は、軍備増強のため1861年(文久元年)「米国に蒸気軍艦3隻を発注して榎本武揚他の数名を航海術等の修練に米国に留学させること」にしたが、当時米国は「南北戦争」のまっただなかであり、このため米国がこの申し出を断ったため、1862年(文久2年)旧知のオランダに蒸気軍艦1隻(「開陽丸」)を発注、そのため彼らの留学先もオランダへ変更となった。1866年(慶応2年)7月開陽丸が竣工、同年10月榎本武揚他の留学生は開陽丸を操船してオランダを発ち、1867年(慶応3年)3月横浜港に戻ってきた。

この頃勃発したのが「明治維新」であり、徳川幕府の「壊滅」であった。この結果、5年間に渡りオランダで最新の造船技術、航海術等、遠洋航海、西洋式海軍の設立に必須である様々な知識を多岐にわたって習得して帰国したが、その才能を活かす場所が日本には無くなったのである。それが榎本武揚をして「反政府、新共和国建国」へと駆り立てた動機になった。

4.明治新政府内での榎本武揚

先に記したとおり、反政府分子、しかもその筆頭格でもあった榎本武揚の処置に関して、明治新政府内では大きな対立があった。長州閥は厳罰を求めたが、本コラムに本年5月投稿した「CS25 -『ワイン王』になった薩摩藩士 The Satsuma clansman who became “The wine king”」でも記したが、長州藩の数倍もの留学生を英国に密航させ海外の事象を学ばせようとした薩摩藩は開明的であったことが幸いして、薩摩閥の黒田清隆は、「榎本武揚の才能、特に国際的な事情に明るい知見」を高く評価していたため、「彼の能力」を惜しんで助命を強く主張したのである。

五稜郭の戦いで降伏した榎本武揚の処分に際し、新政府の重鎮であった同郷の西郷隆盛に対して、「榎本を殺すのなら、そんな新政府、自分は辞めて坊主になる」と頭を丸めてまでして助命嘆願したのであった。1872年(明治5年)1月、1869年の投獄から2年半を経て特赦を受け出獄した3ヶ月後、榎本武揚は、黒田清隆が次官を務めていた北海道開発のための役所「開拓使」に雇用され、北海道鉱山の検査巡回を担当することとなった。

持ち前の技量と国際情勢に明るい知見から、2年後の1874年(明治7年)には、駐露特命全権公使に就任、「樺太千島交換条約」を締結、海外事情に明るい榎本武揚らしく、長年海外移民への関心を持ち、当時スペイン領のマリアナ諸島やペリリュー島を購入、またニューギニア島やソロモン諸島などにも触手を伸ばして、それらの島々を拠点に貿易事業を推進すること等を政府内で建言、後にはコーヒー生産を期待して「メキシコ移民」策を促進するなど、「狭い日本の枠にとらわれない発想」を常にしていた。

この後、外務大輔、海軍卿(大臣)、駐清(中国)特命全権公使を務め、明治新政府に内閣が発足した後は6度の内閣で連続して、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任、子爵となったのである。

1891年(明治24年)、北海道開拓の経験から学んだ農業の重要性を活かすため、「徳川育英会育英学農業科」(現在の「東京農業大学」)を創設、学長となった。1900年、様々な場面で助けられた黒田清隆が逝去した際には葬儀委員長を務めたが、その8年後の1908年(明治41年)享年73歳で逝去した。

5.盟友、黒田清隆

1840年(天保11年)、薩摩藩の下級武士の長男として生まれた黒田清隆は、剣の使い手として有名で、薩摩藩の示現流門下でも有数の使い手と言われていた。1863年(文久3年)の「薩英戦争」に参加した後、砲術を志し、江戸で、幕臣江川英龍に学んだ。一方、1866年(慶応2年)に締結された「薩長同盟」に際しては、薩摩藩側の使者として長州藩と下交渉をおこない、大坂で薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎の対面を実現させる等、「倒幕」「薩長同盟」のために活発に動いていた薩摩藩士の一人でもあった。

榎本武揚と邂逅した「函館戦争」では、明治新政府軍の参謀として指揮を執り、新政権成立後、開拓次官、その後、開拓長官として1870年(明治3年)から1872年(明治5年)まで北海道の開拓に携わった。1877年(明治10年)に起きた「西南戦争」では熊本城の攻略に功を立て、翌年大久保利通が暗殺されると薩摩閥の重鎮となったが、「開拓使官有物払下げ事件」に関与したとして世論から攻撃されることになり、1888年(明治21年)第2代内閣総理大臣に就任したが、条約交渉の失敗等の責任を取り、翌年辞任した。

「頭は良いとは思えないが、人柄は抜群」と評されるとおり、榎本武揚を見いだし、新政府の重要なポストに据えて見事な仕事をさせるなど、榎本武揚の助面嘆願でも「頭を丸めた」ように「強い人心掌握力を持った人物」と言われている。

今回のまとめ

明治新政府に敢然と反旗を翻し戦争まで広範に指揮した榎本武揚。この行為は、現代で言えば刑法77条1項の「内乱罪」であり、「首謀者は、死刑又は無期禁錮」に処せられる罪である。その「首謀者」の榎本武揚を助けたものは、「彼の持っていた技量、知見」であり、それが明治新政府には必要だったからである。類い希な「特長」を持っていた、「専門家」であったということである。

企業に於いては、この「特長=優位性」は企業の事業成長の成否を握っているカギである。だからこそ、「企業の特長」に関しては、「競合優位性」(competitive edge)が企業戦略上、最重要視されているのである。競争戦略論の第一人者であるマイケル・E・ポーター、ハーバード大学経営大学院教授は、自著「競争の戦略」のなかで、企業がこの競合優位性を発揮するためには、①コスト・リーダーシップ、つまり低価格化、②集中化、そして③差別化、この三つの戦略しかないと断じている

「T字型人材」という言葉を聞いて久しい。T字型人材とは、確固たる専門分野を一つ持ったうえで、更に幅広い知識、知見を持つ人材のことを言う。現代は、顧客ニーズに合わない商品をいくら作っても売れない時代。しかし、いまだに過去の成功体験に溺れ、独りよがりの商品を出して「売れない」と言っている企業が多い。とりわけ、長年「護送船団体制」であり、なかなかその名残が消えない金融業界では競合優位性のある企業戦略を構築している企業は少ないと感じている。市場開発機能の本質が理解されておらず、販売チャネルを志向した「販売、営業戦略」ばかりが立案され、顧客ニーズに立脚した「マーケティング戦略」が策定されていない企業が実に多いからである。

企業戦略の策定に於いても、「確固たる得意分野」を持ちつつも、更にその得意分野を活かす事業分野を開発していく企業戦略「当たり前」のこの企業戦略が実行されていない企業がいかに多いか。「リスクマネジメント」は「企業戦略の最重要課題」であると言い続けてきたが、この「当たり前の戦略」を実行するには、このリスクマネジメントを中核に据えた企業戦略の存在が無ければならない。「キャプティブ」という「自社専用保険会社」を設立、運営していく、「現実の事業」のなかでしか「T字型企業」に飛躍していくことはできない、その理由は、「具に自社に内在する、遭遇するリスクを検証、分析、対応していくこと」は「現実の事業のB/S,P/Lを見ることなく実行することはできないから」である。

コロナ禍の先にかすかな光が見えてきたいまこそ、「その後」を睨んでキャプティブを視野にした本格的なリスクマネジメントを実行する時期ではないだろうか。

執筆・翻訳者:羽谷 信一郎

English Translation

Corporate Strategy (CS) 28 “A dignified International Man” – Takeaki Enomoto

The first Prime Minister is remembered by many of us from our school history textbooks, but few of us remember the second Prime Minister. He was Kiyotaka Kuroda, who took office in April 1888 and during his tenure promulgated the “Constitution of the Empire of Japan”. In the Kuroda Cabinet, the Minister of Posts and Telecommunications, who had been appointed by the first Itoh Cabinet, was taken over by Takeaki Enomoto.  

Those who know his name may be surprised to hear that he was a minister in the new Meiji government. This is because he was “the greatest opponent of the new Meiji government” and was even imprisoned for it. He was appointed as a minister of the new Meiji government and held various ministerial positions six times in succession.

1. The Meiji Restoration

During the final years of the Edo shogunate, Takeaki Enomoto was effectively the head of the Tokugawa shogunate’s navy, and in October 1867, a major movement towards the “Meiji Restoration” took place. In October 1867, the Satsuma and Choshu clans, which had been pushing for the overthrow of the Tokugawa shogunate, were forced by Iwakura Tomomi and other court nobles to issue a secret edict (without formalities and without the Emperor’s seal) to the Satsuma clan on 13 October 1867 (8 November AD) and to the Choshu clan the following day.

However, the 15th Shogun of the Tokugawa Shogunate, Yoshinobu Tokugawa was already aware of this move and on the same day that the secret edict was issued to the Choshu clan, he petitioned the Imperial Court for the return of power and on the following day, 15 October, the Emperor Meiji gave his approval to the return of power to the Imperial Court. As a result, the Satsuma and Choshu’s request for the “overthrow of the shogunate” lost its name, and on 21 October, the Satsuma and Choshu clans were given a “written order to postpone the implementation of the overthrow of the shogunate”. However, Tomomi Iwakura and the Satsuma and Choshu clans, who were still aiming to overthrow the shogunate, made various moves to defeat Yoshinobu Tokugawa.

The reason for this was that even after the change of government, the working institutions of the new government by the Imperial Court were not in place, and the Tokugawa family would still own a vast amount of land, which meant that the Tokugawa family would continue to have an enormous amount of wealth. The Tokugawa family and Yoshinobu Tokugawa were a barrier and a threat to the “modern state”. The overthrowers therefore continued to demand that the Imperial Court declare the abolition of the Edo Shogunate and the establishment of a new government in the form of the “Great Decree of the Restoration of the Monarchy”, which was issued by the Emperor Meiji on 9 December 1868 (3 January 1868 AD). On the following day, a further meeting was held by the overthrow of the shogunate, who decided that Yoshinobu Tokugawa should “resign his position as Minister of the Right” and “return the lands of the Tokugawa family”.

For the Tokugawa shogunate, even the return of power was unacceptable, but this demand to go further was never acceptable at all. The Tokugawa Shogunate came into conflict with the new government and entered the Boshin War, starting with the Battle of Toba-Fushimi in January 1868 AD (Keio 4, the first year of Meiji).

In the Battle of Toba-Fushimi, the Shogunate forces were defeated and once they retreated to Osaka Castle, which was the base of the Tokugawa side, information was brought from Edo (now Tokyo) that aggravated the situation of the Tokugawa side. Terrorist acts on the part of the new government were frequent in Edo, and many fires were set. In order to cope with this situation, Yoshinobu Tokugawa was forced to return to Edo aboard the Kaiyomaru, a Shogunate warship. In the eyes of the Satcho (Satsuma and Chosyu clans) side, however, he was fleeing before the enemy. The new government’s troops had gained momentum and, under the banner of “the abolition of the Tokugawa family = the establishment of a new government”, they pursued Yoshinobu Tokugawa into Edo.

Concerned that Edo would be burnt to ashes by the war, and that foreign powers would take advantage of the chaos, Kaishu Katsu, who was president of the Tokugawa Shogunate’s army and an alumnus of Takeaki Enomoto at the Nagasaki Naval Academy, met with Takamori Saigo, chief of staff of the new government forces in Satsuma, and decided to open Edo Castle without blood. The Shogunate forces were thus able to surrender Edo Castle to the new government forces without a fight.

2. The encounter with Kuroda Kiyotaka

One of the conditions for the bloodless opening of Edo Castle was that all the weapons of the Shogunate forces be handed over to the new government forces, but the ” standing and fighting to the death” Takeaki Enomoto stubbornly refused. In August of the first year of Meiji (1868), in addition to the old Shogunate forces, which were dissatisfied with the government’s treatment of the Tokugawa Shogunate after the Boshin War, the Shinsengumi, the Ouetsu Confederacy, and Sadataka Matsudaira, feudal lord of the Kuwana clan, led a fleet of eight Shogunate ships, including the Kaiyou Maru and the Kaiten Maru, with a total of 2,500 men, including French military advisors, to Ezochi (present-day Hokkaido).

In order to protect the lives of the old shogunate warriors who had lost their way after the bloodless siege of Edo, they decided to “build a new state” in Ezochi. To decide on the structure of the new state, they first held an election to choose a “president” from among the officers and men of the shogunate. The result was the election of Takeaki Enomoto, who proclaimed the birth of the “Republic of Ezo”, a de facto government based at “Goryo-kaku”, on Hakodate in Hokkaido.

However, the “birth of the Ezo Republic” was short-lived, as on 15 November 1868, the Kaiyo Maru, the flagship of the Ezo Republic, ran aground and sank in a storm off Esashi in the Ezo region. The loss of one of the most powerful battleships of the war meant that the Shogunate’s maritime superiority over the new government forces was suddenly shattered, and the ensuing battles resulted in a series of heavy defeats, the depletion of war funds, and the flight of a succession of soldiers. The decisive battle, the Battle of Hakodate Bay, resulted in the loss of all the warships and the surrender. Takeaki’s plea for the “cultivation of Ezo by the shogunate and the defence of the north” was not accepted by the new government, and he was captured as a ringleader and imprisoned in an Edo prison.

When he surrendered, he entrusted to Kiyotaka Kuroda, the chief of staff of the new government, a book which he had acquired while studying in Holland and kept close to his body. The book was a Dutch translation of the “Complete Book of the Universal Law of the Sea” written by the French jurist Ortolan, and it contained the latest in “international law”, with extensive commentary by Takeaki Enomoto. Kiyotaka Kuroda was so impressed by Enomoto’s passion and talent that he decided to plead for his life.

His desperate pleas for his life were successful, and in 1872, Takeaki Enomoto’s life was spared. Kuroda was so impressed by Takeaki’s wealth of knowledge necessary for the creation of a modern state that he agreed to employ him in the new Meiji government. This was due to Takeaki Enomoto’s wealth of knowledge of foreign affairs and his exceptional talent. As a result, many of the former shogunate’s vassals were hired by the new Meiji government as clerks, as Takeaki Enomoto held many important positions in the new government, including six times as minister.

3. Who is Takeaki Enomoto?

Born in 1836 in Edo (present-day Tokyo), he was the second son of Takenori Enomoto, an apprentice to Tadataka Ino, who traveled around Japan with Tadataka to survey the land. At the age of19, he had already participated in the expedition to Sakhalin as a follower of the Hakodate magistrate, and in 1857 he entered the Nagasaki Naval Academy, which had been established by the shogunate in Nagasaki to train naval officers, where he learned Western science and navigation. The shogunate was in the process of building up its armaments.

In 1861, the Shogunate decided to “order three steam warships from the United States and send Takeaki Enomoto and several others to study in the United States to train in the art of navigation”, but the United States was amid the “Civil War” at the time, and because of this, the United States refused the offer.

In 1862, an order for a steam warship (the Kaiyo Maru) was placed with the Netherlands as an old acquaintance, which led to a change of destination for the students.

In July 1866, the Kaiyo Maru was completed, and in October of the same year, Takeaki Enomoto and other students left the Netherlands on the Kaiyo Maru, returning to Yokohama Port in March 1867, where they were met by the “Meiji Restoration” and the “destruction” of the Tokugawa Shogunate. As a result, he returned to Japan after five years in the Netherlands, where he had acquired a wide range of knowledge, including the latest shipbuilding technology and navigation techniques, essential for ocean-going voyages and the establishment of a Western-style navy. There was nowhere in Japan to put his talents to use. This was the motivation that drove Takeaki Enomoto to “rebel against the government and establish a new republic”.

4. Takeaki Enomoto in the New Meiji Government

As mentioned earlier, there was a major conflict within the Meiji government regarding the treatment of the rebels and their leader, Takeaki Enomoto. The Choshu faction called for severe punishment, but as I wrote in my article “CS25 – The Satsuma clansman who became “The wine king”” in May this year, the Satsuma clan had several times as many students smuggled to Britain to learn about foreign affairs than the Choshu clan. Fortunately, the Satsuma clan was more open-minded than the Choshu clan, and Kiyotaka Kuroda, a member of the Satsuma clan, had a high opinion of ” Takeaki Enomoto’s talent, especially his knowledge of international affairs”.

After the surrender of Takeaki Enomoto at the Battle of Goryokaku, Kiyotaka Kuroda pleaded with Takamori Saigo to spare Enomoto’s life, saying, “If you kill Enomoto, I will quit the new government and become a monk”. In January 1872, two and a half years after his imprisonment in 1869, three months after being granted a special pardon, Takeaki Enomoto was hired by the Hokkaido Development Office (Kaitakushi), of which Kiyotaka Kuroda was vice-minister, to inspect Hokkaido’s mines.

Two years later, in 1874, his skills and knowledge of international affairs led to his appointment as Minister Extraordinary and Plenipotentiary to Russia, where he concluded the “Karafuto-Chishima Exchange Treaty”, and, as Takeaki Enomoto was well versed in foreign affairs, he had a longstanding interest in overseas immigration, purchasing the then Spanish islands of Mariana and Peleliu, as well as New Guinea and the Solomon Islands, and advocating within the government the promotion of trade projects based on these islands. Later, he promoted the idea of “immigration to Mexico” in the hope of producing coffee and was always thinking “outside the narrow boundaries of Japan”.

After this, he served as Minister of Foreign Affairs, Minister of the Navy, Minister Extraordinary and Plenipotentiary to the Qing (China), and after the formation of the new Meiji government, he served in six successive cabinets as Minister of Posts and Telecommunications, Minister of Education, Minister of Foreign Affairs, Minister of Agriculture and Commerce, and became a Viscount.

In 1891, in order to make use of the importance of agriculture that he had learned from his experience in the development of Hokkaido, he founded the “Tokugawa Ikueikai Ikuei Gaku” (present-day “Tokyo University of Agriculture”), and became its president. 1900, when Kiyotaka Kuroda, who had helped him in many ways, passed away, he served as chairman of the funeral committee. Eight years later, in 1908, at the age of seventy-three, he passed away.

5. His ally, Kiyotaka Kuroda

Kiyotaka Kuroda was born in 1840, the eldest son of a low-ranking samurai of the Satsuma clan, and was one of the best swordsmen in the Jigenryu school of the Satsuma clan. In 1866, when the Satsuma clan signed the Satcho (Satsuma- Choshu clans) Alliance, he acted as an emissary for the Satsuma clan to negotiate with the Choshu clan and arranged a meeting between Takamori Saigo of the Satsuma clan and Kogoro Katsura of the Choshu clan in Osaka. He was one of the most active members of the Satsuma clan in the “Satcho Alliance”.

During the “Hakodate War”, in which he had a chance encounter with Takeaki Enomoto, he commanded the army of the new Meiji government as a general staff. After the establishment of the new government, he became the vice-minister for the development of Hokkaido, and later the director-general for the development of Hokkaido from 1870 to 1872. In 1877, he was instrumental in the capture of Kumamoto Castle during the Civil War, and when Toshimichi Okubo was assassinated the following year, he became a leading figure in the Satsuma clan.

In 1888, he became the second Prime Minister, but resigned the following year after taking responsibility for the failure of the treaty negotiations. He is said to have had a “strong grip on people’s hearts and minds”, as shown by the fact that he discovered Takeaki Enomoto and placed him in an important post in the new government, where he did an outstanding job.

Summary of this issue

Takeaki Enomoto, who completely rebelled against the new Meiji government and led it to war, was guilty of what in modern times would be called “internal disturbance” under Article 77(1) of the Penal Code, a crime punishable by death or life imprisonment for the ringleader. What aided the ringleader, Takeaki Enomoto, was the fact that the new Meiji government needed his “skills and knowledge”. He was a “specialist in a particular field” who possessed unique “characteristics”.

In a company, this “characteristic” is the key to the success or failure of the company’s business growth. Therefore, competitive edge is the most important feature of a company’s strategy. In his book “The Strategy of Competition”, Michael E. Porter, a leading authority on competitive strategy, argues that companies can only achieve this competitive edge through three strategies: (1) cost leadership, i.e. lower prices; (2) concentration; and (3) differentiation.

We have long heard the term “T-shaped people” used to describe people who have one area of expertise and then a wider range of knowledge and expertise. Currently, no matter how many products you make that don’t meet customer needs, they will not sell. However, there are many companies that are still drowning in the success of the past, releasing self-satisfied products, and saying, “they don’t sell”. I feel that few companies in the financial services industry have developed a competitive strategy, as they have been in the “convoy system” for many years, and the vestiges of this system are hard to erase. This is because many companies do not understand the nature of the market development function and only develop sales and marketing strategies that focus on sales channels and not on customer needs.

In terms of corporate strategy, how many companies do not implement the “natural” corporate strategy of having a “strong field of expertise” and then developing a business field that makes the most of that field of expertise? We have always said that risk management is the most important aspect of corporate strategy, but it is not possible to implement this “natural strategy” without a corporate strategy with risk management at its core. The reason for this is that it is not possible to examine, analyse and respond to the risks inherent in the company without looking at the B/S and P/L of the actual business. This is because it is not possible to do so without looking at the B/S and P/L of the actual business.

Now that we have seen a glimmer of light beyond the covid-19 disaster, it is time to implement full-scale risk management with a view to capturing “The after”.

Author/translator: Shinichiro Hatani