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キャプティブ 2021.07.09

CA29 日英同盟の立役者 A leading figure in the Anglo-Japanese Alliance

For those who prefer to read this column in English, the Japanese text is followed by a British English translation, so please scroll down to the bottom of the Japanese text.

先週2021年7月2日、本コラム投稿した、「CS 28 『容易ならざる国際人』-榎本 武揚 “A dignified International Man” – Takeaki Enomoto」に以下を記した。

「無血開城の条件」の一つに、幕府軍の武器をすべて新政府軍に引き渡すことがあったが、「抗戦派」を貫いてきた榎本武揚は、これを頑なに拒否、1868年(慶応4年・明治元年)8月、戊辰戦争後の徳川幕府に対する政府の処置を不満とする抗戦派の旧幕府軍に加え、新撰組や奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平定敬らを収容、フランス軍事顧問団を含んだ、総勢2,500名とともに、開陽丸、回天丸等、8隻の幕府艦隊を率いて、蝦夷地(現在の北海道)に脱出、その後、函館の五稜郭に籠もって新政府軍と戦うことになった。

江戸の無血開城を経て行き場を失った旧幕臣達の生活を守るため、蝦夷地で「新たな国土の建設」を決意した彼らは、「新国家の体制」を決めるため、まずそのトップとなる「総裁」を選ぶ選挙を幕府軍の士官以上の者からおこなった。この結果、榎本武揚が当選、五稜郭を本拠地とした事実上の政権、「蝦夷共和国」の誕生を宣言することになった。

しかし「蝦夷共和国の誕生宣言」もつかの間、主力戦艦であった「開陽丸」が、1868年(明治元年)11月15日、蝦夷地、江差沖で暴風雨に遭い、座礁、沈没した。最大最強の戦艦の喪失によって、幕府軍の新政府軍に対する海上戦力の優位性が一気に崩れ、その後の戦いでは大敗の連続、更には戦費の枯渇、相次ぐ兵士の逃亡等が起きた。最終戦の「箱館湾海戦」で全軍艦を喪失、その結果降伏することになったのである。「幕臣の手による蝦夷地の開拓と北辺防備」を望んだ武揚の嘆願は新政府に受け入れられず、首謀者として捕縛され、江戸の牢獄に投獄されることになった。

(中略)

必死の助命嘆願が功を奏して、1872年(明治5年)榎本武揚の助命が実現した。黒田は、近代国家の体制作りに必要な知識を豊富に持っていた武揚を見込んで、明治新政府に雇用することの了解も取り付けた。榎本武揚の豊富な海外事情に関する知見等、彼の類い希なる才能が見込まれたためであった。榎本武揚が6度の大臣経験を含む新政府の多くの枢要な役職を務めたことにより、この結果、旧幕臣の多くが明治新政府の事務方として雇用されることになった。

最後の行に記した「旧幕臣」の一人に、後の「日英同盟」締結の立役者となった林 董(はやし ただす)がいた。

1.幕府英国留学生

昨年、7月本コラムに投稿した「CS12 - 英国で始まった「薩長同盟」The Satsuma-Choshu alliance began in England」に、長州藩からは「長州五傑(長州ファイブ)」と呼ばれる5名が1863年6月、薩摩藩からは「薩摩藩遣英使節団」と呼ばれる19名が、1865年3月、それぞれ英国に「留学生」として密航したことを記したが、「世界最先端の国に学ぶ」という戦略は、江戸幕府も同時期、同様に実行していた。

「留学生」の一人に選ばれた、前述の「林董」が、口述筆記で刊行した回顧録「後は昔の記」の「英国留学生」のページ(●国立国会図書館デジタルコレクション)にはその概要が、また平凡社が出版した「後は昔の記他(由井正臣校注)平凡社刊」の前半、「林董伯自叙伝 回顧録」の「幕府留学生として英国に行く」というページにはその時のことが詳細に記されていた。

それらによると、この「留学生派遣」は福沢諭吉が発案、この提案を受けた幕府は、幕臣に対して子弟の留学希望者を調査の上、「留学生試験」によって選抜がおこなわれた。合格した当時17歳の林を含む12名に随行員の幕臣2名を加えた次の14名が英国に派遣されることが決定、1866年(慶応2年)10月横浜港を出て12月にロンドンに到着、筆者が英国ロンドン出張の際に定宿にしているハイドパークに面したランカスターゲートのホテル近くの家にホームステイ(Hyde Park LancastergateNo.16居住のL. Lloyd宅)をしながら勉学の機会を待っていた。

中村敬宇(正直)、福沢英之助(福沢諭吉の従弟)、川路太郎(寛堂)、外山捨八、箕作奎吾、箕作大六(菊池大麓)、市川森三郎、湯浅源二、伊藤昌之助(岡保義)、安井真八郎、成瀬錠五郎、奥川一郎、杉徳三郎。

しかし、長州藩の「留学生」たちは2年前、薩摩藩は前年、既に英国に渡っていた彼ら「薩長の留学生」に比べ、明治維新のまさに勃発する直前の渡航だったことが災いすることになった、歴史の皮肉としか言いようが無いことが起きるのであった。

「留学先」がなかなか見つからずに、英国入国から9ヶ月経ってようやく1867年(慶応3年)秋、薩長の留学生他の海外からの聴講生を受け入れていたUCL(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン:現在の「ロンドン大学」の最古カレッジ)に入れた。しかし、この同時期日本では徳川幕府が、既に「大政奉還」をおこない、更に江戸幕府の廃絶と新政府の樹立が決まった「王政復古の大号令」が1868年1月3日(慶応3年12月9日)朝廷によって宣言され、これらの結果徳川幕府が崩壊したため、同年(明治元年)8月帰国を余儀なくされたのである。

このように留学期間は僅か1年半程度であったが、林董の語学力はかなりの域に達していたといわれる。「後は昔の記他(由井正臣校注)平凡社刊」の由井正臣による「解説」部分には、次のような記述がある。

慶応二年イギリス留学生として渡英した際、ほとんどの人が英語を読む程度でしかなかったなかにあって、当時十七歳の林一人だけ、外国人と自由に言葉を交わすことができたという。(同行者の一人菊池大麓の談話)

2.林董

「後は昔の記他(由井正臣校注)平凡社刊」には、嘉永3年2月22日(西暦:1850年4月4日)生まれと「董の幼少」のページに記されている。文久2年(西暦:1862年)、「英語を学ぶことが重要である」という両親は、「ローマ字の記述に名前」を残す宣教師ジェームス・カーティス・ヘボンの塾(ヘボン塾:「明治学院大学」の前身)を中心に様々な人達から英語を学ぶことを決め、そのために横浜に移住。この頃、姉の夫で幕府の御典医であった林洞海の養子となり林董三郎と改名、「林姓」になったこと等も詳しく記されている。

こういう英語の素養があった林董は、「十五歳の時幕府より英国に生徒を送るという風聞あり。予は是非とも此選にあたらんことを願い、当時の開成所にいでて試験を受く」と同書の「回顧録」のページに記しているように「幕府による留学生の英国派遣」の話を聞き、自ら積極的に行動して英国派遣留学生の一員になったことが解る。

前述の通り、英国ロンドンでUCL(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)にて学んでいたが、帰国後、「CS 28 『容易ならざる国際人』-榎本 武揚 “A dignified International Man” – Takeaki Enomoto」に記した「オランダから帰国して幕府の崩壊を見て決断した榎本武揚」と同様、英国から帰国して幕府滅亡によって行く先を失った林董は、「新天地の設立」を求めて、縁戚でもあった榎本武揚が率いた幕府艦隊に参加して箱館戦争を戦った。しかし、1869年(明治2年)の敗戦によって捕らえられ投獄。翌1870年(明治3年)釈放された。

将軍とその家族の診療をする「奥医師」であり後に大日本帝国陸軍初代軍医総監になった、実兄松本良順の紹介で、後に「カミソリ大臣」と呼ばれ外務大臣として不平等条約の改正に辣腕を振るった陸奥宗光と知り合った。

榎本武揚にとっての黒田清隆と同様に、1871年(明治4年)陸奥宗光が神奈川県令(県知事)赴任すると、「開港の一大拠点であった横浜」を抱える神奈川県にとって、「類い希なる英語力を有する林董」は欠くべからざる人物と評され県庁で採用されることになった。更に、その翌年には外務省に出向、1871年(旧暦:明治4年12月)11月から10ヶ月間に渡り日本から米国、ヨーロッパに派遣された、岩倉具視を全権として政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された「岩倉使節団」に「二等書記官 林董三郎」として参加した。

社会基盤整備と殖産興業を推進した中央官庁であった工部省の最高幹部の一人となり、また同じ「英国留学生」でもあった薩摩藩出身の山尾庸三の指示で、工部大学校(現在の東京大学工学部)の設立に尽力。工部省に異動、その後逓信省の幹部を歴任、1888年(明治21年)には香川県知事、翌々年には兵庫県知事に就任。その後、外務省に戻り、外務次官に就任、第1次松方内閣の外務大臣榎本武揚、第2次伊藤内閣の外務大臣陸奥宗光の外交を支えた。日清戦争後の下関条約(日清講和条約)の講和交渉とその後の三国干渉の対応等を経て、1900年(明治33年)駐英公使となった。

本年2021年3月本コラムに投稿した「RM59ー ポリティカルリスク (日英同盟)Political Risks (The Anglo-Japanese Alliance))に次の通り記した。

2. 日英同盟

三国干渉によって、国際社会における日本の発言力、政治力のなさが露呈した結果、いずれロシア帝国との戦いは不可避であると国民の誰もが思うようになっていった。そして、この後も、ロシアはますます露骨に極東進出を進めていった。1900年の北清事変に際して満州に出兵、しかし撤兵せず占領を継続していた。更には、親露派が政権を握った韓国を保護国化して、不凍港を手に入れ、遼東半島沿岸の制海権も握ったのである。

このようなアジアの流れのなかで、ロシアの勢力拡大に対する日英の利害が一致、日本と英国との間で日英同盟が締結された。日英同盟は1902年1月30日、ロンドンのランズダウン侯爵邸において、林董駐英公使と英ペティ=フィッツモーリス外相により第1次が締結され、第2次(1905(明治38)年)、第3次(1911年(明治44)年)と更新された。その後、1921(大正10)年のワシントン海軍軍縮会議の結果、調印された、日、英、米、仏による「四カ国条約」の成立に伴って、1923(大正12)年失効した。

この日英同盟は、当初は「日独英」の三国同盟の話として日本政府にもたらされたが、「清(現在の中華人民共和国)」に権益を伸ばそうとしていたドイツに対する対抗心から「日英同盟」の方にシフト、公使であった林董は英国の外務大臣ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスと交渉を重ねて、1902年(明治35年)1月30日、ロンドンで第一次日英同盟が調印されたのである。この交渉の背景、興味深い裏話は「後は昔の記他(由井正臣校注)平凡社刊」に収められている「日英同盟の真相」に具に記されている。

その後も日本の外交で活躍をし続け、1905年(明治38年)在英日本公使館が昇格して大使館となり、林董は初代駐英大使に任命され、1906年(明治39年)には帰国、第一次西園寺内閣で外務大臣として入閣して各種の条約交渉に辣腕を振るった。1909年(明治42年)から1910年(明治43年)にかけて、本稿で度々引用している回顧録「後は昔の記」を制作、刊行、1913年(大正2年)没した。

今回のまとめ

「なぜ、明治維新から短い期間で『西洋化=文明開化を成し遂げることができた』のか、なぜ『30年、40年という短い時の流れで、世界の大国を相手に戦い、日清戦争、日露戦争に勝利できた』のか」、明治という時代を考えるとこういう疑問が湧く。多くの西洋史家も同様の疑問を持つ。

その答えは、「明治時代の日本のリーダーは、『日本の目指すべき途、目標』を明確に自分の目で捕捉し、『自己の目標と日本の目標』を同化する知見を有していた、そしてそれを弛まなく実行したからである」と言えよう。

明治時代の日本を枢要な立場で率いたのは、「長州五傑(長州ファイブ)」、「薩摩藩遣英使節団」、そして「江戸幕府の英国留学生」たちを中心とする、単なる知識ではなく「自分の経験で培った国際的な知見と感覚を有する人達」であった。彼ら、明治時代を中心となって牽引した人達の原点は「英国」にあった。「藩=国」の時代に、「藩を超えた日本」という視点を持って、「日本人」として「日本全体の舵取りをどうしていくべきか」という命題の解決のためにもがき苦しみながら懸命に異国の地で格闘していた人達であった。

だからこそ「敵でも役に立つ者は味方へ」という発想で、旧幕臣であろうが、更には「内乱を指揮した張本人」ですら「日本の舵取りに必要」と考えると積極的に身分、出身を超えて登用した時代、それが明治という時代であったと感じる。

日清戦争、日露戦争の勝利を経て、国民は「一等国」という幻想に幻惑されていった。明治から大正へ、そして昭和へ時代を経ていくと、「日本は一等国である、だからこそこうあるべきである」と日本の舵取り、組織、基盤整備を「バブルの上」で見つめていくようになったのではないだろうか。その結果が、「戦争の専門家である陸海軍の将官ですら本音のレベルでは『勝てない』と思っていた太平洋戦争に突入していくこと」となって顕われたのである。「リスクマネジメントの考え方」がどこかに放擲され、前だけを見て突き進んで行った結果である。

これは何も太平洋戦争前の日本だけの事象ではなく、今でもその組織的な特性が日本社会、企業社会には色濃く残されているようである。最近、大手電機メーカーで起きた事案、鉄道車両の空調設備やブレーキ関連機器などで不正検査が相次いで判明、泥縄式の対応によってトップがその座を追われる事象にも顕われていると思うからである。調査委員会を設けて不正検査の実態解明に乗り出す方針も示されたが、長年にわたって事業部門ごとの都合が優先されてきた企業体質の改善は容易ではないと感じる。

「出自」、「身分」を超え、更には「敵でも役に立つ者は味方へ」の発想のもと「内乱を指揮した張本人」ですら「必要」と考えると「リスクマネジメント」を的確におこなったうえで積極的に登用した「明治という時代」に、日本の企業は発想を戻すべき時に来ているのではないだろうか。

今回の不祥事でも言われている「事業間の垣根」、これを根本的に無くす方法は一つしかない。それは、「事業を超えて、全社を串刺しにする本格的なリスクマネジメント組織の構築」である。そしてその上で必要なことが、「会社が有するリスクを自社で取る組織の構築」、つまり「自社専用保険会社=キャプティブの構築」である。「再々保険の確保」等、的確なリスクヘッジの手段を講じつつも「リスクを等閑にすること」を止めて自社で取るようにすることである。

「自社でリスクを取るようになる」と、当然「そのリスク、リスク量を真剣に検出、その対処方法等を検討すること」になる。欧米の企業ではある一定規模以上の企業では必ず置かれている組織、全社に対してリスクマネジメントに関しては大きな責任と権限を持つ「リスクマネジメント部門」が大半の日本企業には存在していないと感じる。

「リスクマネジメントはやられていますか?」と伺うと「もちろん、やっていますよ」という答えは頂くが実態を見ると「保険=リスクマネジメント」という考えで保険担当の部門、その多くは総務部門が「総務業務の一つの仕事」としておこなっているケースがほとんどである。「保険を掛けているのでリスクマネジメントはできている」と思われていることが多く、「保険にも保険金を受け取れない保険免責というものがありますが、また保険金額は妥当ですか、充分ですか?よく検証されましたか」と尋ねても残念ながら確たるお答えを頂くことは殆ど無いのが現実である。

「コロナ禍の先」が少しずつ見えてきた今だからこそ、「リスクを的確にマネージすること」を真剣に検討すべき時期ではないだろうか。それ無くして急に走り出すことは大ケガのもとになるからである。

執筆・翻訳者:羽谷 信一郎

English Translation

Captive 29 – A leading figure in the Anglo-Japanese Alliance

Last week, on July 2, 2021, I wrote the following in my column ’CS 28 “A dignified International Man” – Takeaki Enomoto’.

One of the conditions for the surrender of the Edo castle to the new government led by Satsuma and Choshu clans was that all weapons of the Shogunate forces be handed over to the new government forces. In August of the first year of the Meiji Era (1868-1912), he led a fleet of eight ships, including the Kaiyo Maru and the Kaiten Maru, to escape to Ezochi (present-day Hokkaido) with a total of 2,500 men, including French military advisors. They then holed up at Goryokaku in Hakodate to fight the new government forces.

In order to protect the lives of the old shogunate vassals who had lost their way after the surrender of the Edo castle to the new government, they decided to “build a new country” in Ezo (Hokkaido). To decide on the “structure of the new state”, they first held an election to choose the “president” from among the officers and men of the Shogunate’s army. The result was the election of Enomoto Takeyoshi, who proclaimed the birth of the “Ezo Republic”, a de facto government based in Goryokaku, Ezo.

However, the declaration of the birth of the Ezo Republic was short-lived when the Kaiyo Maru, one of the main battleships, ran aground and sank in a storm off Esashi in the Ezo region on 15 November 1868. The loss of one of the most powerful battleships of the war meant that the Shogunate’s maritime superiority over the new government forces was suddenly shattered, and the ensuing battles resulted in a series of heavy defeats, the depletion of war funds, and a succession of soldiers escaped and other incidents occurred. The decisive battle, the Battle of Hakodate Bay, resulted in the loss of all the warships and the surrender. Takeaki’s plea for “the development of Ezochi by the hands of the shogunate and the defence of the north” was not accepted by the new government, and he was captured as a ringleader and imprisoned in an Edo prison.

(Omitted)

The desperate pleas for his life were successful and in 1872, Takeaki Enomoto’s life was spared. Kuroda was so impressed with Takeaki’s wealth of knowledge necessary for the creation of a modern state that he agreed to employ him in the new Meiji government. This was due to Takeaki Enomoto’s wealth of knowledge of foreign affairs and his exceptional talent. As a result, many of the old shogunate’s vassals were employed as clerks in the new Meiji government, as Takeaki Enomoto served in many important positions in the new government, including six times as Minister.

One of ”the old shogunate’s vassals” mentioned in the last line was Tadasu Hayashi, who later played a leading role in the conclusion of the “Anglo-Japanese Alliance”.

1. Shogunate students in England

In my article “CS12 – The Satsuma-Choshu alliance began in England” in July last year, I wrote that five members of the Choshu clan, known as the “Choshu Five”, and nineteen members of the Satsuma clan, known as the “Satsuma Clan Mission to Britain”, secretly arrived in England in June 1863 and March 1865 respectively and the strategy of “learning from the most advanced countries in the world” was also being practised by the Edo shogunate at the same time.

The aforementioned Tadasu Hayashi, who was chosen as one of the “foreign students”, wrote his memoirs in dictation and published them on the page “Foreign Students in England” in the book “Ato wa Mukashi no Ki” (National Diet Library Digital Collection). In the first half of the memoirs, “Tadasu Hayashi’s Autobiography: A Memoir”, the page “Going to England as a Shogunate Student”, published by Heibonsha (with notes by Masaomi Yui), gives a detailed account of what happened.

According to the book, Yukichi Fukuzawa conceived the idea of sending students to England, and the shogunate, in response to the proposal, conducted a survey of the shogunate’s retainers to find out if any of their children wished to study abroad, and then selected them through an examination. It was decided that the following 14 students would be sent to England: 12 students, including the then 17-year-old Hayashi, and 2 shogunal retainers who accompanied them. They stayed in a house near the hotel in Lancaster Gate facing Hyde Park (L. Lloyd’s house in No.16, Hyde Park Lancastergate), which is the author’s regular accommodation on business trips to London, and waited for an opportunity to study.

They included Keiu Nakamura (Masanao), Einosuke Fukuzawa (Yukichi Fukuzawa’s cousin), Taro Kawaji (Kando), Sutehachi Toyama, Keigo Minosaku, Dairoku Minosaku (Dairoku Kikuchi), Morisaburo Ichikawa, Genji Yuasa, Masanosuke Ito (Yasuyoshi Oka), Shinpachiro Yasui, Jougoro Naruse, Ichiro Okugawa and Tokusaburo Sugi.

However, in what can only be described as an irony of history, the Choshu students had travelled to England two years earlier, while the Satsuma students had travelled to England the previous year, just before the outbreak of the Meiji Restoration.

In the autumn of 1867, nine months after their arrival in Britain, they were finally admitted to the University College of London (UCL), the oldest college in what is now the University of London, which accepted Satsuma, Choshu and other students from abroad. At the same time, however, the Tokugawa Shogunate had already made a “return to power” in Japan, and on January 3, 1868 (December 9, Keio 3), the Imperial Court issued the “Great Decree of the Restoration of the Monarchy”, which abolished the Edo Shogunate and established a new government. As a result, the Tokugawa Shogunate collapsed, and they were forced to return to Japan in August of the same year.

Although they studied for only a year and a half, Hayashi’s language skills reached a prominent level. In the “Commentary” section of the book “Ato wa mukashi no ki etc. (Notes by Masaomi Yui)”, published by Heibonsha, there is the following description by Masaomi Yui

When they went to England as foreign students in the second year of Keio, Hayashi, who was seventeen years old at the time, was the only one who could speak freely with foreigners, although most people could only read English. (According to one of his companions, Dairoku Kikuchi)

2. Tadasu Hayashi

He was born on 4 April 1850(on February 22 in the 3rd year of Kaei), according to the book “Ato wa Mukashi no Ki” (Notes from the past) published by Heibonsha. In 1862, his parents decided that it was important for him to learn English, so they moved to Yokohama to study at the school of James Curtis Hebon (Hebon Juku: the precursor of the “Meiji Gakuin University”), a missionary who left his name “in the Roman alphabet”. At that time, he was adopted by Dokai Hayashi, the husband of his sister, who was a doctor of the Shogunate, and changed his name to Tozaburo Hayashi. It describes in detail how the surname was changed to” Hayashi”.

Tadasu Hayashi, who had a good command of English, wrote: “When I was fifteen years old, I heard that the shogunate was going to send a student to England”. In the “Memoirs” of the same book. He heard about the “dispatch of students to England by the Shogunate” and acted proactively to become one of the students sent to England.

As mentioned above, he had studied at UCL (University College of London) in London, England. However, after his return to Japan, like “Takeaki Enomoto who returned from Holland and saw the fall of the Shogunate and made a decision” as described in CS 28 “A dignified International Man” – Takeaki Enomoto’, after returning from England, Tadasu Hayashi, who had lost his way due to the fall of the Shogunate, joined the Shogunate fleet led by his relative Takeaki Enomoto and fought in the Hakodate War in order to “establish a new state”. However, he was captured and imprisoned after the defeat in 1869 but was released in 1870.

He was introduced to Munemitsu Mutsu, later known as the “Razor Minister”,  by his elder brother Ryojun Matsumoto who was the first military surgeon general of the Imperial Japanese Army, and was instrumental in revising the unequal treaties as Minister of Foreign Affairs. Like Kiyotaka Kuroda for Takeaki Enomoto, when Munemitsu Mutsu was appointed governor of Kanagawa Prefecture in 1871, Tadasu Hayashi, who possessed a rare command of the English language, was regarded as an indispensable figure for the prefecture, which was home to Yokohama, a major base for the opening of ports. The following year, he was seconded to the Ministry of Foreign Affairs, and participated as “Second Secretary Tozaburo Hayashi” in the “Iwakura Mission,” which consisted of 107 people, including government leaders and students, and was dispatched from Japan to the United States and Europe for 10 months from November 1871 (December of the 4th year of Meiji).

He was one of the top officials of the Ministry of Works, the central government agency that promoted social infrastructure and industrial development. Under the direction of another “British student”, Yozo Yamao, from the Satsuma clan, he was instrumental in the establishment of the Industrial College (now the Faculty of Engineering at the University of Tokyo). In 1888 he became Governor of Kagawa Prefecture, and the following year Governor of Hyogo Prefecture. He then returned to the Ministry of Foreign Affairs, where he was appointed Vice-Minister for Foreign Affairs, supporting the diplomacy of the first Matsukata Cabinet’s Minister of Foreign Affairs, Takeaki Enomoto, and the second Ito Cabinet’s Minister of Foreign Affairs, Munemitsu Mutsu. He negotiated the Shimonoseki Treaty (Japan-Sino Peace Treaty) after the Japan-Sino War and dealt with the subsequent Tripartite Intervention and became Minister to the United Kingdom in 1900.

In my article “RM59 – Political Risks (The Anglo-Japanese Alliance)”, which I contributed to this column in March 2021, I wrote as follows.

2. The Anglo-Japanese Alliance
As a result of the Tripartite Intervention, which exposed Japan’s lack of voice and political power in the international community, everyone in Japan came to believe that a war with the Russian Empire was inevitable. After this, the Russians continued to expand their influence in the Far East increasingly blatantly: they went to Manchuria at the time of the North China Incident in 1900 but did not withdraw their troops and continued their occupation. It also made Korea, where pro-Russian factions were in power, a protectorate, obtained an ice-free port and seized control of the coast of the Liaodong Peninsula.

Amid these developments in Asia, the interests of Japan and Britain in the expansion of Russian power coincided, and the Anglo-Japanese Alliance was concluded between Japan and Britain. The first round of the Anglo-Japanese Alliance was concluded on 30 January 1902 at the Marquess of Lansdowne’s residence in London by Mr Tadasu Hayashi, Minister to the United Kingdom, and Mr Petty-Fitzmaurice, Foreign Secretary of the United Kingdom, and was renewed in 1905 (the second round) and 1911 (the third round), but the treaty expired in 1923 following the signing of the Treaty of Four Powers by Japan, Britain, the United States and France at the Washington Conference on Naval Disarmament in 1921.

Initially, the Japanese government had heard of a Tripartite Pact between Japan, Germany, and Britain, but its rivalry with Germany, which was trying to extend its interests into the Qing Dynasty (now the People’s Republic of China), led to a shift towards the Anglo-Japanese Alliance. The first Anglo-Japanese Alliance was signed in London on January 30, 1902, after a series of negotiations with Fitzmaurice. The background to this negotiation and the interesting story behind it is described in detail in the book “The True Story of the Anglo-Japanese Alliance” published by Heibonsha in the book “Ato wa mukashi no ki etc. (Notes by Masaomi Yui)”.

He continued to play an active role in Japanese diplomacy, and in 1905 the Japanese legation in Britain was upgraded to an embassy, and Hayashi was appointed the first ambassador to Britain. Between 1909 and 1910, he produced and published his memoirs, “Ato wa Mukashi no Ki”, which is often quoted in this article, and died in 1913.

Summary of this issue

When we think of the Meiji period, we often wonder why Japan was able to achieve Westernisation in such a fleeting period after the Meiji Restoration, and why it was able to fight the world’s great powers and win the Japan-Sino War and the Japan-Russia War in the space of 30 or 40 years. Many Western historians have asked the same question.

The answer is that the leaders of Meiji-era Japan had a clear idea of what they wanted to achieve, and they had the knowledge to assimilate their own goals to those of Japan, and they did so without fail.

The pivotal leaders of Meiji-era Japan were the Choshu Five, the Satsuma Clan’s British Mission, and the British students of the Edo Shogunate, all of whom possessed not mere knowledge but international knowledge and sensibilities cultivated through their own experience. These people, who led the Meiji era, had their origins in Britain. They were people who, at a time when “clan” meant “nation”, struggled hard to solve the problem of “how to steer Japan as a whole” as “Japanese people” from the perspective of “Japan beyond the clan”. That is why the Meiji era was a time when, based on the idea that “those who are useful even if they are enemies should be brought to our side,” even former shogunal retainers and even “those who led the civil war” were actively recruited, regardless of their status or origin, if they were thought to be “necessary for steering Japan.

After the victory of the Japan-Sino War and the Japan-Russia War, the people of Japan became disillusioned with the illusion of being a “first class country”. As time passed from the Meiji era to the Taisho era and then to the Showa era, people began to look at the steering, organisation, and infrastructure of Japan “on the bubble”, thinking that “Japan is a first-class country and that is why it should be like this”. The result was that Japan entered the Pacific War, a war that even the war experts, the generals of the army and navy, honestly believed was unwinnable. This was the result of “the idea of risk management” being thrown aside and only looking ahead.

This was not only the case in Japan before the Pacific War, and it seems that this organisational characteristic is still deeply embedded in Japanese society and business. Recently, a major electronics manufacturer was found to have carried out a series of fraudulent inspections of air-conditioning systems and brake-related equipment in railway cars. However, it is not easy to improve the corporate constitution which has given priority to the convenience of each business division for many years. The time has come for Japanese companies to go back to the Meiji era, when even those who led civil wars were actively recruited, based on the concept of “those who are useful even if they are enemies” and with proper risk management.

There is only one way to fundamentally eliminate the “barriers between businesses” that have been mentioned in the scandals. There is only one way to fundamentally break down the barriers between businesses, and that is to build a full-fledged risk management organisation that goes beyond businesses and skewers the whole company. In addition, it is necessary to establish an organization that takes the company’s own risks, in other words, to establish a captive insurance company for the company. While taking appropriate risk hedging measures, such as securing reinsurance, the company should stop equating risks and start taking risks itself.

When a company starts to take risks on its own, it naturally means that it seriously detects the risks and the amount of risk and considers how to deal with them. Most Japanese companies do not have a risk management department, which is an organisation that has significant responsibility and authority for risk management throughout the company, as is the case in companies above a certain size in Europe and the US.

When we ask, “Do you do risk management?”, we get the answer “Of course we do”. However, the reality is that in most cases, insurance departments, mostly general affairs departments, perform risk management as part of their general affairs duties, with the idea that “insurance = risk management”. They often think that “we have insurance, so we have risk management”, and ask “there is an insurance exclusion that prevents us from receiving insurance benefits, and is the amount of insurance reasonable or sufficient?” Unfortunately, I rarely get a definitive answer.

Now that we can gradually see where the covid-19 disaster is headed, it is time to seriously consider the need to manage the risks properly. Without it, a sudden start could lead to severe injury.

Author/translator: Shinichiro Hatani