キャプティブを活用したリスクマネジメントなら株式会社グローバル・リンク「お知らせ・コラム」ページ

キャプティブを活用したリスクマネジメントなら株式会社グローバル・リンク「お知らせ・コラム」ページ

Contact Contact
Contact Contact

Menu

Close

お知らせ・コラム

News & column

リスク対応策 2021.03.05

RM58 ノブレス・オブリージュ(Noblesse oblige)ー白州次郎(Jiro Shirasu)

For those who prefer to read this column in English, the Japanese text is followed by a British English translation, so please scroll down to the bottom of the Japanese text.

外資系損害保険会社勤務時代は、直接のお客様として、また経営コンサルタント時代は、その傘下のロイズ保険ブローカー、コスモス・リスクソリューションズを通して長くお世話になった大手総合商社、伊藤忠商事、その社長に1998年に就任後、困難な状況にあった同社の業績を大胆な経営でV字回復させた実績を持つ丹羽宇一郎氏が経営者としての倫理を重視し、自ら実践、重視されてきた「ノブレス・オブリージュ」という聞き慣れない言葉がある。

同氏は、著書「人は仕事で磨かれる」(出版:文藝春秋社)のなかで、次のように述べている。

しかし、歴史をひもといてみれば、エリートなき国は滅びるんです。何も特権階級が必要だと言っているのではありません。選良意識が絶対というつもりもない。

この場合、エリートという定義をまずはっきりさせる必要があるでしょう。本来の意味でいうエリートとは、巷間で言われるような金持ちだとか特権階級を指すのではありません。むしろ特権階級だと思った時点でその人はエリートではなくなります。

エリートには、その地位に見合った責任と義務が生じます。これを「ノブリス・オブリージュ」といいます。他人のために尽くす。悪い時は矢面に立ち、良い時は後ろに下がる。謙虚さと謙遜と献身の精神を持たなければなりません。これは一般の人から見ると大変に苦痛なことです。それを苦痛と思わず、美徳として自然に行える人間、これがエリートです。したがって、民族の優劣とか金持ちかどうかがエリートの基準ではない。この意味から言うと、本当のエリートは人間性という観点から見て「選ばれた人」ということになります。

 

1.ノブレス・オブリージュ(Noblesse oblige)

フランス語の「貴族(Noblesse)」と「義務を負わせる(Obliger)」を合わせて産まれた言葉であり、昔の「騎士道」にも通じる、「リーダーには、社会のために我が身を犠牲にさえする覚悟が求められる」という考え方であり、「高貴であるために様々な特権を得ている者は、それに応じた義務を負うべきである」というものである。

コロナ禍の最中、欧米では実に多くの著名人、企業創業者等が、「新型コロナのワクチン開発」、また「医療従事者への支援」へと多額の私財を提供されているニュースが報道されてきたが、その背景にあるものである。無論、法的責任は無いが、ノブレス・オブリージュに則った行動をしない富裕層、特権層は、社会的な批判、指弾にさらされる可能性があり、「自己だけではなく他人のために行動すること」が社会的模範として根付いているのが欧米であると感じている。

英国では、中世以来、国王自らが兵を率いて戦った。その伝統は、英国王室に受け継がれている、王室の王子達は陸海軍の要職に就いて国防を担っている。エリザベス女王の父ジョージ6世(在位1936~52年)も第一次世界大戦のユトランド沖海戦では落命しそうになった記録がある。エリザベス女王の次男アンドリュー王子もフォークランド戦争に従軍した。

2011年11月12日のAFPは、次の報道を配信した。

【11月12日 AFP】英国とアルゼンチンの間で勃発したフォークランド紛争から30年目となる来年、英国のウィリアム王子(Prince William、29)が軍務でフォークランド諸島(Falkland Islands、アルゼンチン名マルビナス諸島 Islas Malvinas)へ派遣されることになった。王子が所属する英空軍(Royal Air Force、RAF)が10日、発表した。

英国の王位継承順位2位、英空軍捜索救難ヘリのパイロットでもあるウィリアム王子は、2012年の2月から3月にかけての6週間、南太平洋上のフォークランド諸島に派遣される。王子と同程度のキャリアのパイロットとして通常の任務だという。

空軍の規定により妻のキャサリン妃(Catherine, Duchess of Cambridge)は同行せず、派遣期間中にウィリアム王子がケンブリッジ公(Duke of Cambridge)としての公務を行うこともない。

現在の英国王室にもこのノブレス・オブリージュが息づいている証拠であり、これが王室から一般市民へと波及しているのである。

2.「プリンシプル」

この「ノブレス・オブリージュ」に基づく道徳観、生き方を大切にして、「プリンシプル」という言葉を生涯言い続けた人が、兵庫県三田市の心月院に眠っている。残された遺言書には、彼の父親が残した言葉と同じく「葬式無用 戒名不用」と記してあった。その墓碑には彼の妻の依頼によって、「不動明王を表す梵字」のみが刻まれており戒名は無い。白州次郎氏である。

白洲次郎は実業家であり、連合国軍占領下の日本で、吉田茂の側近として、「商工省」の外局として新設された貿易庁の長官を務め、その後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した。

1902年、富裕な貿易商のもとに産まれ、1985年に没した。1914年(大正3年)旧制第一神戸中学校(現、兵庫県立神戸高等学校)に入学、祖父である白洲退蔵がキリスト教伝道系学校の神戸女学院の創立に関わったことから白洲家には外国人女性教師が寄宿しており、ネイティブな英語を学んだ。その素養によって神戸一中を卒業後、ハーバード大学を卒業した父に習って留学の途へ、兄がオックスフォード大学へ進んだこともあり、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに進学、西洋中世史、人類学などを学ぶなかで、後に「ストラフォード伯爵」となるロバート(ロビン)・セシル・ビングと親しく友情を育み、英国貴族の生き方やライフスタイルを知り、「ノブレス・オブリージュ」、また「プリンシプル」を身に付けることとなった。

昭和金融恐慌の影響で、1928年(昭和3年)、父の経営していた白洲商店が倒産したため、日本への帰国を余儀なくされた。1929年(昭和4年)、英字新聞の「ジャパン・アドバタイザー」に就職、記者となり、その後ケンブリッジ大学留学時代の学友の経営する外資系の貿易企業に勤務、そして1937年(昭和12年)日本食糧工業(現、日本水産)の取締役に就任した。商談で、海外に赴くことが多く、駐英国大使であった吉田茂の知己を得て、英国大使館を「定宿」とするまでになったと言われている。

英国留学時代、日本と諸外国との国力差を痛感していた彼は、「迫り来る戦争のリスクとその被害」を予感、第二次世界大戦勃発の翌年であり、また日米開戦の前年、1940年(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(現在の東京都町田市能ヶ谷)に古民家を購入、その「鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったこと」から、また自身の性格を「無愛想」と評していたことから「武相荘(ぶあいそう)」と名付け、「戦争末期には必ず食糧難に襲われる」と戦争による食料不足を自給自足で補えるように農家に転業、農業に励む日々を終戦まで送った。

●「旧白州邸 武相荘」公式サイト

1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田茂の要請で、「終戦連絡中央事務局(終連)」の参与に就任した。白州次郎を表した言葉として良く取り上げられるものであるが、「風の男 白州次郎」(青柳恵介著、新潮文庫)によると、GHQの要求に対して白洲は英国仕込みの英語で主張すべきところは強く主張、「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」とGHQに啖呵を切るほどで、GHQからは「従順ならざる唯一の日本人」、「Difficult Japanese」と言わしめ、GHQの理不尽な要求に屈することなく、自身の「プリンシプル」(原理、原則、主義、道義等)をもって対等の立場で交渉をこなしていった。

昭和天皇からダグラス・マッカーサーにクリスマスプレゼントを届けた際、「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒、「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたと言われている。

また、GHQのNo.2、ホイットニー民政局長に「英国の上流階級の使う流暢な英語」を褒められた時、「あなたの英語も、もう少し勉強なされば一流になれますよ」と切り返したということもよく言われている逸話である。また、その後1949年(昭和24年)12月、商工省の外局として設立された貿易庁の長官に就任、「伏魔殿」と呼ばれた「汚職の巣窟」を改組、通商産業省(現、経済産業省)を設立した。

また、「サンフランシスコ講和会議全権団」の顧問として1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に随行した。この時、受諾演説の原稿は、外務省がGHQの了解を得た上で、GHQに対する美辞麗句を英語で書いた事に激怒した白州が、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席出来る筈。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と急遽日本語に書き直させたとも言われている。

その後、外務省顧問を経て、実業界に復帰、東北電力の会長他主要企業の役員や顧問を歴任した。白州の人柄を有名にした言葉であり、筆者も何度か訪れた「武相荘」で販売されている「Tシャツ」に描かれている文字に「Play Fast」がある。

晩年、軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めゴルフに興じた彼は、ゴルフ場を我が物顔にゆっくりプレーしている人たちに対して、「おい、ここはお前ひとりのコースじゃないんだぞ」と注意、以来シャツに自筆で「Play Fast」と書いて、それを着てコースを回り、スロープレーヤーを見かけると、どんな人にでも面と向かって注意したというエピソードが残っている。それほどまでにこだわったのは、「ゴルファーとして備えておくべき大切な心構え、『プリンシプル』を最も体現しているのが『Play Fast』である」と考えていたからだと言われている。

また、ある夏の日曜日、田中角栄(文中ではT首相)が総理大臣だったときアメリカ大使を連れプレーさせてほしいとやってきたが、白洲次郎理事長は「日曜日はメンバーズ、オンリー」と流暢な英語で大使にお断りしたという有名なエピソードも記されている。白洲次郎はプリンシプルの持ち主であり、アメリカ大使だろうと例外は認めなかったのである、規則は規則、原則は原則である、相手が誰とて例外は一切認めなかったエピソードである。

3.ケンブリッジ大学

白州次郎が育ったケンブリッジ大学は、1209年創立、町の人々と対立してオックスフォードから逃れてきた学者たちが、この町に住み着き、研究・教育活動を始めたのを起源とする中世大学である。彼らの活動はやがて、国王の保護のもと発展していった。オックスフォード大学に比べて、その卒業生にはアイザック・ニュートン、チャールズ・ダーウィン等自然科学系の著名人が多いが、ジョン・メイナード・ケインズ等、文化、経済の分野でも数々の著名人を輩出している。

英国の大学は「カレッジ制」がその運営の原則となっている。このカレッジを日本語に訳した場合「学寮」となることからも推察されるが、「寮」としての機能を持つ存在である。

日本でも「教育」が「寺子屋から始まった」ように、欧米でも教育のベースとなった場所は「修道院」であったため、教師と学生が寝食を共にしながら共に学ぶという修道院の形態に由来しているからである。ケンブリッジ大学には、31のカレッジがある。全ての学部生、大学院生は、1つのカレッジに所属する。しかし、カレッジは「寮としての存在」であるため、授業は、カレッジではなく、学部、学科単位でおこなわれる。

白洲次郎の兄が通ったオックスフォード大学とは強いライバル関係にあり、日本で早稲田、慶応を合わせて「早慶」と呼ぶように、両大学を合わせて「オックスブリッジ」と呼ばれる。

「年に6回の渡英生活」を始めた1999年以来、ロンドン郊外に足を伸ばす機会もほとんど無かったが、一昨年2019年9月、ウイークエンドを使ってオックスフォードの街中を散策した。市内の中心部の至るところにカレッジがあるのを見て、オックスフォード大学が「大学の中に町がある」と言われることの意味がよく呑み込めた。

本コラム「CS(企業戦略) 9-『One For All, All For One』(早稲田ーケンブリッジ戦)」に「日本から大学のラグビーチームが渡英、ケンブリッジ大学と対抗戦をおこなうので、その応援と折から来英中の早稲田大学の副総長、教授とともにケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジ (Pembroke College)のMaster(学長)主催の夕食会に参加するため」と記したが、2002年ケンブリッジに行った時の印象とは随分違うと感じた、ケンブリッジ大学は「町の中に大学がある」と言われて比較されることがよく理解できた。

今回のまとめ

「白洲次郎100の言葉」(宝島社刊)に「戦争前は日本の全部が自己陶酔だね、一種の。初めはちっちゃな嘘なんだ。ちっちゃな嘘ついて、それがバレそうになると、だんだん嘘を大きくしてゆくんだな」という言葉が載っている。日本が、軍部、政治家、そしてマスコミまでが自社の業容拡大のため、太平洋戦争への途をひたすら突っ走って行った。

しかし、豊富な海外生活から、「この戦争は必ず負け、東京は灰燼に帰す」と予測、裕福な家庭に育ち英国留学を経て政府要人とも交流があった彼は、さっさと田舎に引き込み「食料が足らなくなること」を見据えて農業を始めたのである。

そのことを具に語る言葉を白州次郎の神戸一中の後輩の小説家であり、初代文化庁長官を務めた今日出海が、「プリンシプルのない日本(白州次郎著 新潮文庫)」の冒頭文「野人・白州次郎」のなかで次のように記している。

僕は度々書いたが、彼は戦前日米戦争が不可避だと予言していた。その時は蒋介石を相手にせずと日本が言っていた頃である。そして日本人の大部分が米国と戦うなどとは思ってもみぬ頃である。そして必ず日本が敗北し敗北の経験のない日本人は飽くまで抗戦して、東京は焼野原になるだろうともいった。

そこで彼は地の理を研究して現在の鶴川村に戦前の疎開を敢行したのである。敗け込むと食糧難に陥ることも彼の予見で、百姓になって人知れず食料増産に心がけていた。

白洲次郎を語るエピソードは数多あるが、筆者が注目したのはこの点である。「戦争によって日本の国が灰燼に帰すかもしれない」リスク、また「戦争末期には食料が無くなる」リスク、これらを冷静に分析、予測して、さらには「敗戦に至れば日本の様々な制度が大きく変わり、すべてがアンシャンレジーム(旧秩序)になる」から、「現体制には関与しても意味がない」、そう割り切った行動をそれらのリスクへの対応策として取ったからである。見事な「リスマネジメント」である。

「眼前にある事象を無定見に受け止める」のではなく、自身の判断力によって、その「本質」と「将来」を検証、そして予測した結果の行動である。これこそいまの企業が学べるポイントではないだろうか。

コロナ禍、中国の台頭、米国の政治体制の大きな変化、これらが意味するものは何か、それは「本格的なリスクマネジメントが必要な時代」ということである。企業にとって、キャプティブを視野にした本格的なリスクマネジメントが必要な理由がそこにあるのではないだろうか。

執筆・翻訳者:羽谷 信一郎

English Translation

Risk Management 58ー Noblesse obligeーJiro Shirasu

ITOCHU Corporation, a major general trading company, was a direct client of mine when I worked for a foreign non-life insurance company, and when I was a management consultant, I had a long relationship with ITOCHU through its subsidiaries, Cosmos Risk Solutions as a Lloyd’s Insurance Broker. Mr. Uichiro Niwa, who was appointed president of Itochu in 1998 and has a track record of bringing about a V-shaped recovery in the company’s performance from a difficult situation through bold management, emphasizes ethics as a manager and has himself practiced and emphasized the unfamiliar term “Noblesse Oblige”.

In his book “Hito wa Shigoto de MIgakareru (People are honed by their work)” (published by Bungeishunjyu-sha), he says:

But if you look at history, a country without an elite will die. I am not saying that we need a privileged class. Nor do I mean to imply that electability is absolute.

In this case, we need to define the elite first. By elite I don’t mean the rich or the privileged, as is often claimed. In fact, the moment you think you are privileged, you are no longer elite.

The elite have responsibilities and duties that go with their status. This is called “Noblesse oblige”. They serve others. Take the brunt of the bad times and stand back in the good times. We have to have a spirit of humility, modesty and dedication. This can be very painful for the average person. The elite are the people who can do it naturally, without thinking of it as painful, but as a virtue. Therefore, ethnic superiority or richness is not the criterion of elite. In this sense, the real elite is the “chosen one” in terms of humanity.

1. Noblesse oblige

The word “noblesse oblige” is a combination of the French words “noblesse” and “obliger”, and is similar to the old idea of “chivalry”: “leaders must be prepared to sacrifice themselves for the good of society”, and “those who enjoy various privileges because of their nobility should assume corresponding obligations”.

This is the reason why, during covid-19 crisis, so many famous people and business founders in Europe and the United States have been reported to have given large sums of private money to “develop covid-19 (new coronary) vaccines” and to “support healthcare workers”. Of course, there is no legal responsibility, but the wealthy and privileged who do not act in accordance with the Noblesse Oblige may be subject to social criticism and reprimand, and I feel that in the West, “acting not only for oneself but also for others” has taken root as a social model.

In Britain, since the Middle Ages, the King himself led his troops into battle. This tradition has been passed on to the British Royal Family, whose princes hold key positions in the army and navy and are responsible for national defence. Queen Elizabeth’s father, King George VI (reigned 1936-52), is also recorded as having nearly lost his life in the Battle of Jutland in the First World War. Queen Elizabeth’s second son, Prince Andrew, also served in the Falklands War.

On November 12, 2011, AFP distributed the following report.

AFP – Britain’s Prince William, 29, will be sent on a military mission to the Falkland Islands (also known as the Islas Malvinas) next year to mark the 30th anniversary of the Falklands War between Britain and Argentina. Malvinas) on a military mission. The Royal Air Force (RAF), to which the Prince belongs, made the announcement on the 10th.

Prince William, who is second in line to the British throne and is also a Royal Air Force search and rescue helicopter pilot, will be sent to the Falkland Islands in the South Pacific for six weeks in February and March 2012. It is a normal assignment for a pilot of the Prince’s level of career.

Under RAF regulations, his wife Catherine, Duchess of Cambridge, will not accompany him, nor will Prince William have any official duties as Duke of Cambridge during his deployment.

This is evidence of the noblesse oblige that is alive and well in the British Royal Family today, and that it is spreading from the Royal Family to the general public.

2. “The Principles”

A person who cherished the moral values and way of life based on the Noblesse Oblige and kept saying the word “Principle” all his life is lying in Shingetsuin, Sanda City, Hyogo Prefecture. In his last will and testament, he wrote, “No funeral, no afterlife name”, just as his father had said. On the tombstone, at the request of his wife, there is only the Sanskrit character for “Fudo Myoo”, but no afterlife name. He was Mr. Jiro Shirasu.

Jiro Shirasu was a businessman who, as a close associate of Shigeru Yoshida in Allied-occupied Japan, served as director-general of the newly established Trade Agency, an outgrowth of the Ministry of Commerce and Industry, and later, as a businessman, served on a number of corporate boards, including as chairman of Tohoku Electric Power Company.

He was born in 1902 to a wealthy trader, and died in 1985. 1914 he entered the former Dai-ichi Kobe Junior High School (now Hyogo Prefectural Kobe High School), where his grandfather, Shirasu Taizo, had been involved in the founding of the Christian missionary school, Kobe Jogakuin, and the Shirasu family had a foreign female teacher staying with them. He learned native English. After graduating from Kobe First Junior High School, he followed his father, who had graduated from Harvard University, to study at Clare College, Cambridge, where he studied medieval history and anthropology. In the course of his studies in Western medieval history and anthropology, he developed a close friendship with Robert (Robin) Bing, the future Earl of Strafford, and learned about the life and lifestyle of the English aristocracy, which led him to acquire the “Noblesse Oblige” and the “Principles”.

In 1928, due to the financial crisis of the Showa period, his father’s business, Shirasu Shoten (corporation), went bankrupt and he was forced to return to Japan, where he worked as a reporter for the English-language newspaper, the Japan Advertiser, in 1929. In 1937, he became a director of Nippon Shokuryou Kogyo (now Nippon Suisan). It is said that he often travelled abroad for business negotiations and became acquainted with Shigeru Yoshida, the British ambassador to the UK, and ended up staying at the British Embassy as his “regular lodgings”.

When he was studying in England, he was acutely aware of the gap in national strength between Japan and other countries, and foresaw the “risk of war and its damage”.

In 1940, a year after the outbreak of World War II and a year before the outbreak of war between Japan and the United States, he bought an old house in Nogaya, Tsurukawa-mura, Minamitama-gun, Tokyo (present-day Nogaya, Machida-shi, Tokyo).
He named the house “Buaiso” because “Tsurukawa village was located between Musashi(Bu) and Sagami (Ai) provinces”, and because he described his own character as “unsociable (Buaiso in Japanese)”.

At the end of the war, there was always a shortage of food, so he became a farmer so that he could provide for himself and spent his days farming until the end of the war.

●”Old Shirasu residence Buai-so” Official Website

In 1945, at the request of Shigeru Yoshida, who was appointed Minister of Foreign Affairs in the Cabinet of Prince Higashikunino-miya, he was appointed as a counselor of the Central Secretariat for the End of the War. According to the book “Kaze no Otoko Shirasu Jiro” (Keisuke Aoyagi, Shincho Bunko), Shirasu responded to the GHQ’s request with a strong statement in English, and dared the GHQ to say “Japan lost the war, not became a slave”. He was called “Difficult Japanese” by GHQ, and negotiated on an equal footing with his own “principles” without giving in to GHQ’s unreasonable demands. When he delivered a Christmas present from Emperor Showa to Douglas MacArthur, he was furious when the gift was treated carelessly, saying, “Just put it somewhere else”. He is said to have shouted at MacArthur, “You can’t just leave a gift from the emperor lying around! “He is said to have shouted at MacArthur, who panicked when he tried to take it home.

It is also said that when he was complimented on his “fluent English used by the British upper class” by Whitney, Director General of the Civil Affairs Bureau, No.2 at GHQ, he replied, “Your English could be first class if you studied a little more”.Later, in December 1949, he became Director-General of the Trade Agency, which was established as a bureau under the Ministry of Commerce and Industry, and reorganised the “cesspool of corruption” known as “Fukumaden (abode of demons)” to form the Ministry of International Trade and Industry (now the Ministry of Economy, Trade and Industry).

As an advisor to the San Francisco Peace Conference plenipotentiaries, he accompanied them to the San Francisco Peace Conference in September 1951. At that time, Shirasu, who was furious that the Ministry of Foreign Affairs had written an acceptance speech in English with the approval of the GHQ, said, “At a peace conference, you should be able to attend with the same qualifications as a representative of a victorious nation. Who would be stupid enough to write a manuscript for such an important occasion in the language of the other side, after consulting with them? “It is said that he had the manuscript hurriedly rewritten in Japanese.

Later, after serving as an advisor to the Ministry of Foreign Affairs, he returned to the business world, serving as chairman of Tohoku Electric Power Company and as a director and advisor to other major companies. The words that made Shirasu’s character famous, and which appear on the T-shirts sold at “Buaiso”, which I have visited several times, are “Play Fast”. In his later years, when he was President of Karuizawa Golf Club and enjoyed playing golf, he warned people who were playing golf slowly that “Hey, this is not your own course”. The story goes that he wrote “Play Fast” in his own handwriting on his shirt and wore it around the course, warning any slow player he saw to his face. It is said that he was so obsessed because he believed that “Play Fast” was the best embodiment of the “Principles”, the important attitude that a golfer should have.

One summer Sunday, when Kakuei Tanaka (“Prime Minister T” in the text) was Prime Minister, he asked to play with the American Ambassador. Mr. Jiro Shirasu, the Chairman of the Board of Trustees, famously refused the ambassador in fluent English, saying “Sunday is for members only”. Shirasu Jiro was a man of principle, and he did not make exceptions for the American ambassador.

3. Cambridge University

The University of Cambridge, where Jiro Shirasu grew up, was founded in 1209. It is a medieval university where scholars who had fled from Oxford because of conflicts with the townspeople settled in the town and started their research and educational activities. Their work soon developed under the protection of the king. Compared to Oxford, the University of Cambridge has produced more graduates in the natural sciences, such as Isaac Newton and Charles Darwin, but it has also produced a number of cultural and economic figures, such as John Maynard Keynes.

The British university system is based on the principle of “colleges”, which, as can be inferred from the fact that the word “college” is translated into Japanese as “dormitory”. This is because, just as in Japan, education began at a “terakoya(temple school)”, so in Europe and the United States the basis of education was a “monastery”, where teachers and students lived and studied together. There are 31 colleges at the University of Cambridge. All undergraduate and postgraduate students belong to one college, but as colleges are “dormitories”, classes are held in departments rather than in colleges.

There is a strong rivalry with Oxford University, which Jiro Shirasu’s brother attended, and the two universities are known together as Oxbridge, just as Waseda and Keio are known together as Sokei (Waseda-Keio) in Japan.

Since 1999, when I started my “six visits to London in a year”, I have rarely had the opportunity to visit the outskirts of London, but in September 2019, I took a weekend trip to Oxford. When I saw that there were colleges all over the city centre, I could understand why Oxford University is known as “a city within a university”. In this column, “CS (Corporate Strategy) 9 – ‘One For All, All For One’ (Waseda-Cambridge Match)”, I wrote: “A university rugby team from Japan is coming to the UK to play a match against Cambridge University.To attend a dinner hosted by the Master of Pembroke College, University of Cambridge, together with the Vice Chancellor and Professors of Waseda University who are currently visiting the UK”.

I felt it was very different from my impression when I went to Cambridge in 2002.

Summary of this issue

In “100 Words of Jiro Shirasu” (published by Takarajima-sha), it is written: “Before the war, everything in Japan was a kind of self-absorption. In the beginning it was just a small lie, but when it was about to be exposed, the lie got bigger and bigger”. Japan’s military, politicians, and even the media, in order to expand their own business, rushed headlong into the Pacific War.

However, having lived abroad for many years, he predicted that the war would be lost and Tokyo would be burnt to ashes, and having been brought up in a wealthy family and having studied in England and interacted with government officials, he quickly moved to the countryside and began farming in anticipation of “a shortage of food”.

The words which speak of this in concrete terms are those of the novelist and first Commissioner of the Agency for Cultural Affairs, Hidemi Kon, who was one of Jiro Shirasu’s junior students at Kobe First Junior High School, and who wrote the following in the opening sentence of “Japan without Principles (Jiro Shirasu, Shincho Bunko) ‘Jiro Shirasu, a wild man'”.

As I have often written, before the war he predicted that war between Japan and the United States was inevitable. This was at a time when Japan was saying that it would not take on Chiang Kai-shek. And it was a time when most Japanese did not expect to fight the United States. He said that Japan would be defeated, that the Japanese, who had never experienced defeat, would fight to the bitter end, and that Tokyo would be burned to the ground.

So he studied advantage of location and made a pre-war evacuation to what is now Tsurukawa village. He also foresaw the food shortages that would result from the defeat, so he became a farmer and worked secretly to increase food production.

There are many stories about Jiro Shirasu, but this is the one that caught my attention. He calmly analysed and foresaw the risk that the country might be burnt to ashes by the war, and the risk that there would be no food at the end of the war. It is no use getting involved in the present system, and so he acted as a countermeasure to those risks. It was brilliant ”risk management”.

It is not a case of “accepting what is in front of you without judgment”, but of using his own judgement to examine the “true nature” and “future” of the situation, and then acting on that judgment. This is a lesson that today’s companies can learn from.

The covid-19 disaster, the rise of China, and major changes in the US political system all point to the need for serious risk management.This is why we need risk management with a view to establishing captives.

Author/translator: Shinichiro Hatani