キャプティブ 2021.05.07
CA 26 三浦 按針- 慶長三陸地震 Anjin Miura- Keicho Sanriku Earthquake
For those who prefer to read this column in English, the Japanese text is followed by a British English translation, so please scroll down to the bottom of the Japanese text.
本コラムの「CA24-東日本大震災の余震 Aftershocks of the Great East Japan Earthquake」に、以下を本年2021年2月14日投稿した。
昨日、2021年2月13日午後11時7分、太平洋プレート内、福島県沖の深さ55キロを震源として、宮城県と福島県で最大震度6強を観測したマグニチュード7. 3の地震が起きた。気象庁は、本日14日未明に開いた記者会見で、「2011年3月11日の東日本大震災を引き起こした地震の余震と考えられる」と発表、「今後1週間程度、同規模の地震に注意してほしい」と伝えた。
震度6強は、宮城県蔵王町と福島県国見町、相馬市、新地町で、またその揺れは北海道から中国地方までの広範囲で観測され、東日本大震災の際、東京新宿の高層ビル群を大きく長時間揺らした「長周期地震動」も、最大の「階級4」を福島県中通りで観測した。
各地で、火災や落石、電線の破断といったことが相次ぎ、大規模な停電も東北地方から関東地方にかけて一時的に発生した。東北自動車道、常磐自動車道などが通行止めになり、常磐自動車道では、路面の隆起、また土砂崩れが起きた。政府は、昨日午後11時過ぎに首相官邸の危機管理センターに官邸対策室を設置、被害状況の把握を急ぎ、本日未明、首相官邸で記者会見をおこない、「地震による津波の可能性は若干の海面変動がある可能性があるが、被害の心配はない」と述べた、
気象庁のホームページによると、「東北沖を震源とする最大震度6強の地震は2011年4月7日以来、約10年ぶり」ということである。
そして、5月1日、再度宮城県沖、震源の深さ51キロで、最大震度5強を観測したマグニチュード6.8の地震が発生した。
1.三陸
東北地方で地震が発生する度によく聞く、青森県、岩手県、宮城県にまたがる地域の海岸を「なぜ三陸地方、三陸海岸と言うのだろうか、大昔の呼称か」と疑問に思って調べてみたところ、意外にもその成り立ちは新しいことが解った。
飛鳥時代、660年朝鮮半島で日本と友好関係にあった「百済」が滅亡、この結果、唐、新羅との対立関係が決定的に悪化したことにより国防力の増強を図る必要が出てきた。それまで、「有力豪族の寄り合い所帯」の面が強かった大和朝廷政権は、朝廷を頂点とする中央集権国家へと、当時の天智天皇は豪族を再編成するとともに国制改革を精力的に進めていった。その一つが、天智9年(670年)作成された、日本史上最初の戸籍である「庚午年籍(こうごのねんじゃく)」であり、部姓や氏がつけられ国の諸制度整備のための上記律令制の基礎となったのである。
飛鳥時代以降継続的に制定されていった「律令制の時代」の呼称では、この「三陸地方」は平安時代まで「道奥」から「みちのく」と呼ばれた。その後、漢字名が「道奥」から「陸奥」と変わり、現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県にあたる地域は、「陸奥国」と呼ばれるようになった。
そんな律令制時代の「国」の呼称を大きく変える出来事が、1869年1月19日(明治元年12月7日)起きた。戊辰戦争によって薩長軍に敗退して「賊軍」とされた「奥羽越列藩同盟諸藩」に対する処分が行われ、太政官布告によって、現在の青森県、岩手県、宮城県にあたる、この「陸奥国」が5つに分割され、「陸奥国」(現在のほぼ青森県)、「陸中国」(現在のほぼ岩手県)、「陸前国」(現在のほぼ宮城県)が置かれ、「陸奥国」、「陸中国」、「陸前国」、これら3国が「三陸」と総称されるようになったのである。
2.「さむらい ウィリアム」(ジャイルズ・ミルトン著 原書房刊)
ロンドンに「毎年6回の出張」をしていた頃、大手総合商社傘下の「保険ブローカー(保険仲立人)」の社長をされていた同窓の先輩から「羽谷さん、『日本と英国の架け橋』になろうとしているのなら、日本と英国との関係で是非読んだ方が良い本がありますよ」と勧められて購入した本が、「さむらいウィリアム」であった。
「ウィリアム」とは、関ケ原の戦いの半年前日本に漂着、徳川家康に気に入られて「旗本」に取りたてられ、「外交顧問」として徳川幕府に仕えた英国人、「ウィリアム・アダムズ」、日本名「三浦按針」のことである。この本は、彼が1600年4月豊後(現在の大分県)に漂着したところから日本で1620年に亡くなるまでの間に起きた出来事を中心に、英国、ポルトガル、オランダの商人達が大航海をおこなった際の出来事について興味深く記されていた。
英国とオランダが制海権を掛けて1652年から1654年にかけ戦った「第一次英蘭戦争」前、同じ船乗りとしてオランダ人船員たちと交流を深めていたウィリアムは、ロッテルダムから極東を目指した5艘からなる船団の1艘、旗艦ホープ号の航海士として採用され、1598年6月下旬、船団はロッテルダム港を出航した。しかし航海は、壊血病の猛威、寄港地での現地住民の襲撃等、苦難の連続であり、航海の途中ウィリアムはリーフデ号に配置転換されていたが、極東に到達した船は5艘中リーフデ号のみであった。
航海も1年以上過ぎようやく太平洋上に入ったが、水も食料も尽き、乗組員は次々と病に倒れていった。「さむらい ウィリアム」(ジャイルズ・ミルトン著 原書房刊)にはその時の光景が次のように綴られている。
一六〇〇年四月十二日、ロッテルダムを出港して一年八ヶ月以上経ったその日に、アダムズは神秘的な光景を目にして起き上がった。水平線上になにやら藤色のぼんやりとしてものが見え、時間を追うごとにはっきりしてくる。アダムズは乗組員達に大声で呼びかけ、病人には手を貸して、デッキまで連れていった。最初は自分の目が信じられなかったが、ゴールを目前にしているのだと確信できるようになった。
風は長いあいだ弱い向かい風だったが、いきなり向きを変えて、リーフデ号を陸のほうへと押しやった。海岸線が迫ってきて、崖や樹木や寺院が建ち並ぶ一角が見分けられるようになった。「こうしてわれわれは、豊後と呼ばれる土地から、およそ一リーグのところに無事に錨をおろした」。ピントから遅れることおよそ六〇年。だが、まさに同じ豊後の港に、ウィリアム・アダムズはたどり着いたのだ。
発見のモニュメント(the Monument of Discovery)
数々の探検家、航海者を支援して大航海時代の幕を開いたポルトガルのエンリケ航海王子、首都リスボンを流れるテージョ川岸には、彼の没後500年を記念した記念碑、「発見のモニュメント」がある。正面の石畳には世界地図のモザイクがある。辿った航路と世界各地を「発見」した年が描かれているが、日本については、種子島に鉄砲が伝来した1543年ではなく1541年とある。
この年は、豊後(大分)に台風でポルトガル船が漂着、「親切な対応への謝礼として鉄砲が贈られた」とする説が存在する年でもある。その人間こそ、上記「さむらい ウィリアム」に「ピントから遅れることおよそ六〇年」とある、ポルトガル人冒険家、フェルナン・メンデス・ピント(Fernão Mendes Pinto)である。
On the banks of the Tagus River, which flows through the capital city of Lisbon, there is a monument, the Monument of Discovery, commemorating the 500th anniversary of his death, on the banks of the Tagus River, the Portuguese prince of voyage who assisted numerous explorers and voyagers to usher in the Age of Discovery. In front of the monument, there is a mosaic of a world map. It shows the route he traveled and the year he “discovered” various parts of the world, but the year of Japan is not 1543, when guns were introduced to Tanegashima, but 1541.
It is also believed that Portuguese ships washed ashore by a typhoon in Bungo (Oita) and that guns were presented to the Portuguese as a reward for their kindness. That man is Fernão Mendes Pinto, the Portuguese adventurer mentioned in ”Samurai William” above as being “some sixty years behind Pinto”.
3.「天下人」家康との謁見
時は、「天下人」豊臣秀吉が1598年に亡くなり、関ヶ原の戦いが勃発する半年前であった。リーフデ号が漂着した豊後臼杵の領主が通報した長崎奉行は、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだが、既に「権力者」となっていた五大老首座の徳川家康が決裁、大坂へ護送させ、併せて船も回航のうえ、徳川家康自身が引見した。
英国・オランダと敵対するスペイン・ポルトガルのイエズス会士の「為にする注進」で、リーフデ号を海賊船だと思っていた家康であったが、航海の目的や、現在の世界情勢、英国やイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を具に説明するウィリアム・アダムズとヤン=ヨーステン(名)・ファン・ローデンステイン(姓)を、その正直さから気に入って誤解を解き、執拗に処刑を要求する宣教師らの意見を無視して彼らを江戸に招いた。
以降、ウィリアム・アダムズは、徳川家康の庇護のもと三浦半島に領地とサムライの身分を与えられ、以降日本名、「三浦按針」と名乗った。また、ヤン=ヨーステン(名)・ファン・ローデンステイン(姓)も、現在東京駅の南側一帯の「八重洲」の由来となった日本名、「耶楊子」(やようす)と名乗り、江戸城内堀に屋敷を与えられ家康に厚遇された。その後、家康は、ウィリアム・アダムズやヤン・ヨーステンらに遠洋航海が可能な「ガレオン船」を建造させ海外交易を進めた。関ヶ原の戦いで「天下人」になって以降、「日本の国王」として安南(現在のベトナム)、スペイン領マニラ、カンボジア、シャム(タイ)、パタニ(タイ南部)などの東南アジア諸国に使者を派遣、外交関係を樹立、更に1604年には朱印船制度を確立、多くの「朱印船」によって大規模な海外貿易がおこなった。
しかし、家康が1616年(元和2年)に亡くなると徳川秀忠が第2代将軍となった江戸幕府は、貿易を平戸に制限する「鎖国体制」を敷き、ウィリアム・アダムズは不遇を託つことになり、幕臣や次期将軍候補の徳川家光らに警戒され、1620年(元和6年)平戸で失意のなか死去することとなった。「世界を相手」と考えた家康の器量と大事な天下分け目の戦いであった「関ヶ原の戦い」に間に合わなかったことをよく評される、秀忠の器量の違いがもたらした結果であり、その後の日本の発展に大きなマイナスのベクトルを与えることになった。
4.慶長三陸沖地震
1609年、スペインが植民地フィリピンに置いた総督が、当時「ニュー・スペイン」と呼ばれたメキシコに行く途中、船が難破したが、「鎖国令」前であったため日本で救助され、しかも当時の「天下人」家康は、帰国費用を用立て、さらには外交顧問となっていたウィリアム・アダムズが建造したガレオン船さえも与えて帰国させた。
その翌年、1610年、「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」と呼ばれる、マカオでの日本人によるポルトガル貿易船の爆沈事件があった。これは、肥前日野江(現在の長崎県南島原市)藩主の有馬晴信が「占城」(チャンパ王国:現在のベトナム)に派遣した朱印船がマカオに寄港中、日本人船員が起こした騒擾事件をマカオの総司令官が鎮圧した際に、多くの日本人の死者が出た事件である。
この事件により、ポルトガル船の長崎来航が中断、また幕府が「キリスト教の禁教」に向かうきっかけとなり、さらにはそれまで家康の信任が厚かった通詞のジョアン・ロドリゲス神父が長崎代官等の中傷によって、同年マカオに追放され、このことから、家康はロドリゲスに代わって、ウィリアム・アダムズを重用するようになった。この結果、スペイン、ポルトガルは、幕府に対する有力な窓口を失ったのである。
こういう背景のなか、1611年、「セバスチャン・ビスカイノ」というニュー・スペイン総督が、その「1609年の難破船の救済の答礼と費用弁済のため」と称して日本にやってきた。しかし、彼らの本来の目的はキリスト教の布教交渉をすることであったが、家康はそれは認めなかった。そこで、ビスカイノは「今後も同じように海難の恐れがあり貴国のためにもなる」と日本沿岸の測量を家康に願い出たところ、家康はこれを許可、朱印状を与えた。
ビスカイノ率いる測量隊は、浦賀を出発して北上していたところ、1611年12月2日(和暦:慶長16年10月28日)、越喜来(おきらい)という漁村、現在の岩手県大船渡市三陸町の沖合で「慶長三陸地震津波」と言われる巨大な高波に3度襲われた。2011年の東日本大震災は、この慶長三陸地震からちょうど400年後に同じ被災地を襲ったことになる。当時の蝦夷地(北海道)にはこの地震に関する記録が全く残されていないが、現在懸念されている「千島列島沖から北海道沖の超巨大地震」であった可能性もあると言われる非常に大きな地震であった。
今回のまとめ
これまで本コラムでもたびたび触れてきたが、平安時代に編纂された歴史書、「日本三代実録」には、現在の神奈川県、東京都、埼玉県などで、878年元慶(がんぎょう)地震と呼ばれる大地震があり、「圧死者は数え切れないほどだった」などと記載されている。また、この大地震を挟んで、869年に貞観(じょうがん)地震、887年に仁和(にんな)地震と呼ばれるさらに2つの大地震が起きていた。
869年の「貞観地震」は、東北の太平洋沖合で起きたマグニチュード8を超える巨大地震とされていて、大津波が押し寄せたことなどから、2011年の東日本大震災が、この「貞観地震の再来では」とも言われている。その9年後の878年に起きたのが、当時の相模国、武蔵国(今の関東南部地域)に大きな被害を与えた、関東直下を震源とする推定マグニチュード7.4以上の「元慶地震」である。その後も大地震は日本では起き続けている。その一つが東日本大震災大震災のちょうど400年前に起きた「慶長三陸地震」である。
気象庁のホームページの「よくある質問集」の一つに以下の記述がある。
地震の予知はできますか?
○月×日に□□地方で大きな地震があると聞きましたが、どうでしょうか?
地震を予知するということは、地震の起こる時、場所、大きさの三つの要素を精度よく限定して予測することです。例えば「(時)一年以内に、(場所)日本の内陸部で、(大きさ)マグニチュード5の地震が起こる」というようなあいまいな予測や、毎日起きているマグニチュード4程度以下の小さな地震を予測するような場合はたいてい当たりますが、それに情報としての価値はあまりないと考えます。少なくとも「(時)一週間以内に、(場所)東京直下で、(大きさ)マグニチュード6~7の地震が発生する」というように限定されている必要がありますが、現在の科学的知見からは、そのような確度の高い地震の予測は難しいと考えられています。
以上により、一般に、日時と場所を特定した地震を予知する情報はデマと考えられます。お聞きになった情報で心配される必要はありませんが、日本は地震国であり、地震が起こらない場所はないと言っても過言ではありません。日ごろから地震に対する備えをお願いいたします。
このように地震の予知は「不可能」とされている。この状況で、「地震が起きるのを座して待つ」のか、それとも「積極的な行動に出る」のか。今般のコロナ禍に於いて、あれほど「感染者数、死亡者数で悲惨な状況であった英国、米国」が最新のIT技術を駆使したワクチン接種体制でワクチン接種を加速化させ、経済の急速な回復を見るまでの状況になってきている。一方日本では、未だに接種優先度が高いとされた高齢者のワクチン接種も遅々とした状態である。
この違いはどこにあるのか。端的に言って、英国、米国は「ワクチンができる前から『できた後、ITを駆使して、如何にスムーズに接種ができるようにするかという接種体制の構築』に全力を挙げていた」ということではないだろうか。「ワクチンが出来てから動き出した」としか思えない、更には、「地方自治体からワクチン接種のクーポンが送付され、それから電話、インターネットで予約」という日本のアナログ接種体制との大きな差を感じるのは筆者だけであろうか。
発生が予見されなかった「新型コロナ」と違い、「南海トラフ地震は、概ね100~150年間隔で繰り返し発生しており、前回の南海トラフ地震(昭和東南海地震(1944年)及び昭和南海地震(1946年))が発生してから70年以上が経過した現在では、次の南海トラフ地震発生の切迫性が高まってきています。」(「気象庁」ホームページ)と明確に示されている。いまこそ、キャプティブの設立を視野に本格的な地震リスクマネジメントをすべき時ではないだろうか。起きてからでは遅いからである。
執筆・翻訳者:羽谷 信一郎
English Translation
Captive 26 – Anjin Miura- Keicho Sanriku Earthquake
The following was posted in this column, CA24 – Aftershocks of the Great East Japan Earthquake, on 14 February 2021.
Yesterday, 13 February 2021, at 11:07 pm, an earthquake measuring 7.3 on the Richter scale, 55 km deep off the coast of Fukushima Prefecture, within the Pacific Plate, occurred in Miyagi and Fukushima Prefectures with a maximum intensity of 6.0 strong on the Japanese scale. The Japan Meteorological Agency (JMA) announced at a press conference held earlier today, February 14, that the quake is considered to be an aftershock of the earthquake that caused the Great East Japan Earthquake on March 11, 2011, and asked people to be careful of earthquakes of the same magnitude for the next week or so.
The quake was felt across a wide area, from Hokkaido to the Chugoku region, and the largest of the “long-period tremors,” which shook the skyscrapers of Shinjuku in Tokyo for a long time at the Great East Japan Earthquake , was recorded in Nakadori, Fukushima Prefecture.
Fires, falling rocks, and broken power lines were reported in many areas, and large scale power outages occurred temporarily in the Tohoku and Kanto regions. The Tohoku Expressway and Joban Expressway were temporarily closed to traffic, with the Joban Expressway experiencing road rises and landslides. At dawn today, the government held a press conference at the Prime Minister’s official residence, saying that there was no concern about damage, although there was a possibility of a tsunami caused by the quake and a slight change in sea level.
According to the Japan Meteorological Agency’s website, this is “the first time in about 10 years since April 7, 2011 that an earthquake with a maximum seismic intensity of 6.0 strong on the Richter scale has struck off the coast of Tohoku”.
Then, on 1 May, a 6.8 magnitude earthquake struck again, this time off the coast of Miyagi Prefecture, with an epicentre 51 kilometres deep and a maximum intensity of just over 5 on the Richter scale.
1. Sanriku
Whenever there is an earthquake in the Tohoku region, we often hear about the coastline of the area that straddles Aomori, Iwate and Miyagi prefectures, and wonder why it is called the Sanriku region or Sanriku coast.
In the Asuka period, in 660, Baekje, which had friendly relations with Japan on the Korean peninsula, was destroyed, and as a result, the rivalry with Tang Dynasty and Silla Dynasty worsened decisively, and it became necessary to strengthen national defence. The Yamato Court, which until then had been largely a conglomerate of powerful clans, was transformed by Emperor Tenchi into a centralised state with the court at its head. One of them was “Kogo no Nenjaku”, the first family register in the history of Japan, which was made in the 9th year of Tenchi (670), and it became the basis of the above Ritsuryo system for the development of various systems of the country by assigning family names and clans.
In the “Ritsuryo period”, which was continuously established after the Asuka period, this “Sanriku region” was called “Michinoku” from “Michi-oku” until the Heian period. Later, the Chinese characters were changed from “Michioku” to “Mutsu”, and the area that is now Fukushima, Miyagi, Iwate and Aomori Prefectures was called “Mutsu no kuni (Province)”.
On January 19, 1869 (December 7, the first year of Meiji), an event occurred that drastically changed the name of the country during the Ritsuryo system. On the same day, a proclamation was issued by the Grand Council of State against the Ouetsu Confederacy, which had been defeated by Satcho’s army in the Boshin War and was considered a “bandit army”. By a proclamation issued by the Grand Council of State on the day, Mutsu Province (now almost Aomori prefecture), Rikuchu Province (now almost Iwate prefecture), and Rikuzen Province (now almost Miyagi prefecture) were divided into five parts, and these three countries, Mutsu Province, Rikuchu Province, and Rikuzen Province, came to be called Sanriku. These three countries came to be known collectively as “Sanriku”.
2. “Samurai William” by Giles Milton, published by Hara Shobo
When I was in London for “six business trips every year”, a senior colleague of mine who was the president of an insurance brokerage firm of a major general trading company recommended me to buy “Samurai William”, saying “Mr. Hatani, if you are going to be a bridge between Japan and Britain, you should definitely read this book on the relationship between Japan and Britain”.
William” is the name of an Englishman, “William Adams” or “Anjin Miura”, who drifted to Japan half a year before the Battle of Sekigahara, was liked by Ieyasu Tokugawa, and was taken up as a “Hatamoto”(direct retainer of the shogun), a diplomatic adviser to the Tokugawa Shogunate. The book is a fascinating account of the events that took place between the time he drifted ashore in Bungo (now Oita Prefecture) in April 1600 and his death in Japan in 1620, when English, Portuguese and Dutch merchants embarked on their great voyages.
Prior to the First Anglo-Dutch War of 1652-1654, in which England and Holland fought for control of the seas, William, who had made friends with Dutch sailors as a fellow seaman, was employed as mate on the flagship ”Hope”, one of a fleet of five ships sailing from Rotterdam to the Far East. In late June 1598 the fleet sailed from Rotterdam. The voyage, however, was fraught with hardships, including the ravages of scurvy and attacks by local inhabitants in the ports of call, and although William was reassigned to the Liefde during the voyage, he was the only one of the five ships to reach the Far East. After more than a year of sailing, they finally entered the Pacific Ocean, but, the ship ran out of water and food, and one by one the crew fell ill. In “Samurai William”, by Giles Milton, published by Hara Shobo, the following is a description of the scene.
It was now four months and twenty-two days since we had sailed in the Pacific. Adams was beginning to lose hope.If we don’t land somewhere within the next few days, we’ll be dead for sure.
On the twelfth of April 1600, more than one year and eight months after leaving Rotterdam, Adams awoke to a mysterious sight. There was a vague wisteria-coloured object on the horizon, which became clearer with each passing moment. He shouted to the crew and helped the sick man to the deck. At first he couldn’t believe his eyes, but then he became convinced that he was on the verge of the finish line.
The wind had been a light headwind for a long time, but suddenly it changed direction and pushed the Liefde towards land. “The coastline came closer and closer, and we could distinguish cliffs, trees and temples in the distance. We were thus safely anchored about a league from the land called Bungo”. Some sixty years later than Pinto. But it was in that very same port that William Adams arrived.
3. An audience with Ieyasu, “the ruler”
After the death of Hideyoshi Toyotomi in 1598 and It was six months before the outbreak of the Battle of Sekigahara . The Lord of Usuki in Bungo, where the Liefde had drifted ashore, reported the incident to the Nagasaki Magistrate, who asked Hideyori Toyotomi at Osaka Castle to give instructions, but Ieyasu Tokugawa, the head of the Five Grand Councilors, who was already “the ruler”, made the decision and had the ship escorted to Osaka.
Ieyasu thought the Liefde was a pirate ship, as the Spanish and Portuguese Jesuits, who were hostile to the English and Dutch, explained. However, he was misled by the honesty of William Adams and Jan Joosten, who explained the purpose of the voyage, the current world situation and the conflict between the Protestant nations of England and Britain and the Catholic nations of Portugal and Spain. He invited them to Edo, over the objections of the missionaries who persistently demanded their execution.
From then on, under the patronage of Ieyasu Tokugawa, William Adams was granted an estate and samurai status on the Miura Peninsula, and thereafter took the Japanese name of “Anjin Miura”. Jan Joosten (first name) van Rodensteen (surname) also took the Japanese name of Yayousu, from which the area south of Tokyo Station now known as Yaesu is derived, and was given a mansion in the inner moat of Edo Castle and treated well by Ieyasu. After the Battle of Sekigahara, Ieyasu, as the “Ruler of Japan”, sent envoys to Southeast Asian countries such as Annam (present-day Vietnam), Spanish Manila, Cambodia, Siam (Thailand) and Pattani (southern Thailand) to establish diplomatic relations. In 1604, a system of vermilion seal ships was established, and many “vermilion seal ships” were used to carry out large-scale overseas trade.
However, after Ieyasu’s death in 1616, the Edo Shogunate, under the leadership of Hidetada Tokugawa, imposed a system of national seclusion that restricted trade to Hirado. He died of a broken heart in Hirado in 1620. This was the result of the difference between Ieyasu’s capacity to deal with the world and Hidetada’s capacity, which is often criticised for not being ready in time for the important battle of Sekigahara. This was to be a major negative vector for the subsequent development of Japan.
4. Keicho Sanriku Earthquake
In 1609, the viceroy whom Spain had placed in the colony of the Philippines was on his way to Mexico, then known as “New Spain”, when his ship was wrecked. However, he was rescued in Japan because the country was not yet under “national seclusion”, and Ieyasu, the ruler of the time, provided for his return and even gave him a galleon built by his diplomatic adviser, William Adams.
The following year, in 1610, there was an incident called the “Nossa Senhora da Graça”, in which a Portuguese trading ship was sunk by the Japanese in Macau. This was an incident in which many Japanese were killed when the commander-in-chief of Macau suppressed a disturbance caused by Japanese sailors while a vermilion seal ship sent by Arima Harunobu, the lord of Noe (present-day Minamishimabara City, Nagasaki Prefecture), to the Kingdom of Champa (present-day Vietnam), was calling at Macau.
This incident interrupted the arrival of Portuguese ships in Nagasaki and led the Shogunate to “forbid the practice of Christianity”, and also led to the exile of Father João Rodrigues, who had been a trusted advisor to Ieyasu, to Macau in the same year due to slander by Nagasaki’s deputies. As a result, Ieyasu replaced Rodrigues with William Adams.And, Spain and Portugal lost a powerful contact with the Shogunate.
It was against this background that in 1611 the Viceroy of New Spain, Sebastiano Biscaino, arrived in Japan, purportedly to “repay the relief of the shipwreck of 1609 and to reimburse the expenses”.However, Ieyasu did not approve, as their original purpose was to negotiate the spread of Christianity. So Biscaino asked Ieyasu for a survey of the coast of Japan, “for the good of your country, as there is a risk of similar maritime disasters in the future”.
The surveying party, led by Biscaino, left Uraga and was heading north when, on 2 December 1611 (28 October Keicho 16 in Japanese calendar), they were hit three times by huge waves known as the “Keicho Sanriku Earthquake Tsunami” off the coast of the fishing village of Okirai, now Sanriku-cho, Ofunato City, Iwate Prefecture. The Great East Japan Earthquake of 2011 struck the same disaster area exactly 400 years after the Keicho Sanriku Earthquake. There are no records of this earthquake in Hokkaido, but it is believed that it could have been a “super earthquake off the Kuril Islands and Hokkaido”, which is the current concern.
Summary of this issue
As I have often mentioned in this column, the historical book “Nihon Sandai Jitsuroku”, compiled in the Heian period (794-1185), mentions that there was a big earthquake called the Gangyo earthquake in 878 in present-day Kanagawa, Tokyo and Saitama prefectures, and that “the number of crushing deaths was uncountable”. This earthquake was followed by two more major earthquakes, the Jogan Earthquake in 869 and the Ninna Earthquake in 887.
The Jogan Earthquake of 869 was a massive earthquake with a magnitude of over 8 on the Richter scale that struck off the Pacific coast of Tohoku. Nine years later, in 878, the Gangyo Earthquake, with an estimated magnitude of over 7.4 on the Richter scale, struck directly beneath the Kanto region, causing great damage in what was then Sagami and Musashi provinces (today’s southern Kanto region). Since then, major earthquakes have continued to occur in Japan. One such earthquake was the Keicho Sanriku Earthquake, which occurred exactly 400 years before the Great East Japan Earthquake.
One of the frequently asked questions on the Japan Meteorological Agency’s(JMA) website is as follows
Is it possible to predict earthquakes?
I heard that there is going to be a big earthquake in the area of □□ on March X. What do you think?
Predicting earthquakes means to predict with a high degree of accuracy the three factors of when, where and how big the earthquake will be. For example, a vague prediction such as “(time) within a year, (place) in the interior of Japan, (magnitude) an earthquake of magnitude 5 will occur” or a prediction of a small earthquake of magnitude 4 or less, which occurs every day, will usually come true, but I think it has little value as information. I don’t think it has much informational value. At the very least, it should be limited to “an earthquake of magnitude 6 to 7 will occur within a week (time), (location) directly under Tokyo”, but current scientific knowledge suggests that it is difficult to predict such an earthquake with a high degree of certainty.For this reason, information that predicts earthquakes with a specific date, time and location is generally considered to be a hoax. There is no need to worry about the information you have heard, but Japan is an earthquake-prone country and it is no exaggeration to say that there is no place where earthquakes do not occur. We ask you to be prepared for earthquakes on a daily basis.
As you can see, prediction of earthquakes is considered “impossible”. In this situation, should we “sit and wait for an earthquake to happen” or should we “take proactive action”? In the wake of the recent covid-19 disaster, the UK and the US, which were in such a dire situation in terms of the number of infected people and deaths, have accelerated vaccination using the latest information technology and have seen a rapid economic recovery. In Japan, on the other hand, vaccination of the elderly, who were considered to be a high priority, is still lagging behind.
What is the difference? Simply put, in the UK and the US, “even before the vaccine was available, we were doing everything we could to build a vaccination system that would make full use of IT to ensure smooth vaccination once it was available”. Is it just me, or is there a big difference between this and Japan’s analogue vaccination system, in which vaccination coupons are sent out by local authorities and then bookings are made by phone or internet?
Unlike the “covid-19”, the occurrence of which was not foreseen, “Nankai Trough earthquakes occur repeatedly at intervals of 100 to 150 years, and now that more than 70 years have passed since the last Nankai Trough earthquakes (the Showa Tonankai Earthquake (1944) and the Showa Nankai Earthquake (1946)), the imminence of the next Nankai Trough earthquake is increasing”. (JMA website). Now is the time for full-scale earthquake risk management with a view to establishing captives.Because after the earthquake it is too late
Author/translator: Shinichiro Hatani