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企業戦略 2021.05.14

CS24 直江兼続「北の王国」を夢見て Kanaetsugu Naoe: Dreaming of the Northern Kingdom 

For those who prefer to read this column in English, the Japanese text is followed by a British English translation, so please scroll down to the bottom of the Japanese text.

直江兼続(なおえかねつぐ、以下兼続)は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将だが、この兼続を主人公にしたNHK大河ドラマ「天地人」(2009年放送、原作:火坂雅志)で、裏切りやだまし討ちが横行する下克上の戦国時代にあって、「義」を貫き通した生き方や、「愛」という字を前立にあしらった兜を用いていたことでも話題になり、最高視聴率26.0%、平均視聴率 21.2%と高い視聴率を記録した。

兼続は、戦国大名として有名な上杉謙信(以下、謙信)の養子となりその後を継いだ上杉景勝(うえすぎかげかつ、以下景勝)の筆頭家老として、景勝を生涯支えた。関白豊臣秀吉(以下秀吉)は、景勝の陪臣に過ぎない兼続の活躍とその才を高く評価して兼続を「従五位下山城守」に任官し「豊臣性」も授けている。小和田哲男著「戦国武将の実力 111人の通信簿」(中公新書)では、兼続の「統率力、教養、実行力、企画力」を高く評価し、謙信にも負けず劣らずの名将であり「戦国最強のナンバー2」であったとしている。

上杉領(越後)の平定や上杉家の存続に多大な貢献を果たしてきた兼続だが、関ヶ原合戦(慶長5年<1600年>)の処分により景勝は「会津(120万石)から出羽米沢(30万石)に減移封」(慶長6年<1601年>)させられたが、徳川家康(以下家康)の上洛命令を批判した兼続の返書(いわゆる「直江状」)や関ヶ原合戦の前後に兼続が主導して家康に抗ったことに対して処罰を招いたのである。家康が天下の主導権を握りつつある中で、景勝と兼続が家康に敢えて抗った背景について、童門冬二の小説「北の王国 直江兼続」(学陽書房)では、景勝と兼続は、伏見城や大阪城に渦巻く上方諸大名の忖度、権謀術数、駆引取引に嫌気がさし、上方から独立した自治区「北の王国」での上杉の天下を夢見ていたと描いている。

1.直江兼続と上杉景勝

兼続は永禄3年(1560年)に、越後上田庄(現在の新潟県南魚沼市)で坂戸城主長尾政景(景勝の父)に仕えた樋口兼豊の長男として生まれた。景勝の母(謙信の姉、仙桃院)が、幼少期から聡明で非凡な才能を見込んでいた兼続(当時は「樋口与六」、わずか4歳で景勝よりも5歳年下)を景勝の近習として取り立て、景勝が謙信の養子となって春日山城へ入る折に兼続を同行させた。景勝の側近であった直江信綱が暗殺された折に上杉家筆頭クラスの重臣である名家「直江家」(藤原鎌足の孫麻呂の末裔とされる)の断絶を惜しんだ景勝が、天正9年(1581年)に兼続を直江家の婿養子にして未亡人(お船、先代直江景綱の娘)と再婚させて直江家を継がせたことから「直江兼続」となった。

兼続は、謙信の死後に起きた上杉家の跡継ぎ争い(御館の乱)で景勝に味方し、景勝の側近狩野秀治が病で倒れると、兼続は常に景勝のそば近くにあって側近中の側近として内政や外交を任されるようになり、筆頭家老にあたる執政の地位に就いた(天正12年<1584年>)。佐渡征伐(天正17年<1589年>)や小田原征伐(天正18年<1590年>)など景勝の主要な出陣に従軍するとともに、秀吉からの求めによる景勝の上洛(初回は天正14年<1586年>)にも付き従っている。

その後も、秀吉の命令による「越後から会津への転封」(慶長3年<1598年>)、景勝の新城築城や軍備増強を謀反と疑った家康による景勝への上洛命令に対する「兼続の反論(直江状)」と「家康の会津攻め出陣」(慶長5年<1600年>6月)、関ヶ原合戦前後の出羽(山形)における「伊達軍、最上軍との戦い」(慶長5年<1600年>7~9月)、関ヶ原合戦の処分による「会津(120万石)から米沢(30万石)への減移封」(慶長6年<1601年>8月)、「大坂冬の陣・夏の陣における徳川軍としての参加」(慶長19年・20年<1614年・1615年>)と、上杉家の生き残りを左右する難局が続いたが、景勝と兼続は、兼続が主導して景勝が断を下す形で緊密に連携して乗り切った。

景勝と兼続は、景勝が「武人、勇将、寡黙」タイプであったのに対して、兼続が「文人、官僚、雄弁」タイプと、対照的であったらしい。景勝が「兼続を執政に抜擢して、任せるところは任せ、『ここぞ』というときだけ口を出すあたりは、リーダーとしてありうべき姿」(前掲『戦国武将の実力 111人の通信簿』より)を示し、兼続はその人生をかけて景勝を支え続けたのである。

2.文武両道で実績を残した兼続

兼続は、知謀の軍師として知られる。秀吉が柴田勝家に勝利して織田信長の後継者の有力候補に躍り出た賤ヶ岳の戦い(天正11年<1583年>)の後に、兼続が秀吉の側近であった石田三成(以下三成)に接触して秀吉政権下での上杉家の生き残りに大きく貢献した。関ヶ原合戦後には、「反家康」の立場をとっていた景勝は所領の3/4を没収されたが、家康は、名門「上杉」を惜しみ、「景勝に逆心なく、兼続の仕業」として上杉家の存続を許し、天下に名高い兼続を憎みながらも徳川政権下の天下静謐のためと兼続を助命したようだ。その後、兼続は、徳川幕府内で人脈をつくり上杉家安泰を図る目的で、自身の嫡子(後に直江景明)を廃して、徳川家の重臣・本多正信(後に徳川秀忠付の老中)の次男・本田政重(以下政重)と兼続の長女・松との縁組みを行って婿養子として直江家を相続させている(慶長9年<1604年>、7年後に政重は米沢を離れて前田利家に召し抱えられ金沢藩筆頭家老・本多政重となった)。

兼続は経済官僚としても多くの実績を残している。越後領内の反景勝勢力を平定して得た旧族諸氏の遺領を新たな知行編成や蔵入地(景勝の直轄地)拡大に活用するとともに、領国の諸港を通じて日本海の海上交通圏を掌握して、景勝の権力基盤を強化した。また、佐渡等での金山・銀山開発を本格化させ、越後の中世以来の特産物である「青苧」(あおそ、麻糸の原料)の栽培を統制して増産を進めるなど、兼続は、上杉家の領国支配を支える経済基盤を整備・統括している。

さらに、兼続は文化人としても有名であった。兼続は若い頃から漢詩を詠み、連歌もよくし、当代一流の文化人に伍していたという。古今東西の歴史書や医学書、仏教典籍を書写・蒐集し、兼続が文禄・慶長の朝鮮役(1592~97年)に参陣した折に兵火で焼失しようとする漢籍を収集し持ち帰って「直江文選」を出版した。また、米沢藩の学問所である禅林文庫(後の興譲館<現在の山形県立米沢興譲館高等学校>)を創立している。

3.北の王国

景勝は、文禄4年(1595年)には、「越後、佐渡、信濃川中島四郡、出羽庄内三郡の合計91万石余」を領していたが、慶長3年(1598年)、秀吉の命で景勝は長く上杉家の父祖の地であった越後から会津120万石に加増移封させられた(佐渡、出羽庄内三郡の領有は継続)。兼続は、秀吉没後、豊臣政権を二分する家康と三成の陣営が激しい対立による上方の混乱に乗じて、越後を取り戻し、会津、出羽、伊達政宗が領する陸奥も併合した「北の王国」、つまり、上方から独立した自治権を有する連邦制下の自治区を陸奥、出羽、越後の地に樹立して、その地に土着した国造りを企てたという。しかし、関ヶ原合戦の処分により「会津(120万石)から出羽米沢(30万石)に減移封」(慶長6年<1601年>)させられて、実現しなかったことは前述のとおりである。

東北では、古代においては、統一した政治勢力はなかったものの、政治的・文化的に大和朝廷による征服・吸収やその支配下に入った地域への帰属や同化を長きにわたり拒否していた蝦夷(えみし)が存在し、関東以南とは異なる歴史をたどっている。律令制の時代(8世紀)になって陸奥国と出羽国が置かれ、11世紀半ばには陸奥国の安倍氏、出羽国の清原氏の覇権争いを経て、寛治1年(1087年)に奥州藤原氏(清衡、基衡、泰衡の3代)が奥州支配を固めた。中央では源平の政争で混乱していたこともあり、朝廷は朝廷への協力姿勢を崩さなかった奥州藤原氏の奥州支配を認め、奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力と政治的中立を背景に源平合戦の最中も平穏の中で独自の政権と平泉文化を確立した。

幕末には、戊辰戦争中の慶応4年/明治元年(1868年)5月、陸奥、出羽、越後の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王を盟主とした反維新政府的攻守同盟である奥羽越列藩同盟を結び、会津藩・庄内藩の「朝敵赦免嘆願」を行った。この赦免嘆願が拒絶されると、同盟諸藩は新政府軍と戦ったが個々に降伏し、9月には中心的存在の仙台・会津が降伏して同盟は消滅した。新政府の中核であった薩摩藩を除くことが目的であったとされるが、すでに新政府軍との戦闘の最中でもあり指揮系統も統一されず、同盟は一枚岩ではなく新政府軍への寝返りも相次いで瓦解した。

このように、東北には、古代から近代まで、上方/中央との地理的、文化的差異から、政治的にも一線を画そうとしてきた歴史があり、兼続の「北の王国」の夢も、上方/中央に染まらずに土地に根を張った生き方を目指したものであろう。

今回のまとめ

兼続の戒名(達三全智居士)の「達三」とは、「智仁勇に達した」との意味らしいが、まさに「達三」に恵まれて、激動の時代にあって上杉家に多大な功績を残した。一方、質素倹約家であり、社会に有益な事業には多額の資財を投じて惜しまず、兼続没後の遺品は武具と書籍のみだったという。そして、智将として天下に名高かったが、ぶれることなく互いに信頼する景勝を陪臣として支える生涯を送った。因みに、兼続の兜の前立てにあつらえた「愛」は、兼続の信条を表した「愛民の精神」からきたものとの説や、軍神である「愛宕権現または愛染明王の一字」をとったものとの説もあるようだ。

現代の企業においても、兼続にみられるような組織に対するロイヤリティと責任感、危機対応力を備えた社員を育成したいところだ。景勝と兼続の主従を、企業の「会社と人材」に置き換えると、「コミュニケーションと相互信頼」、「チャンスを与えて失敗を恐れずに任せる」ことの重要性を再認識させられる。経営環境が急変する今日においても「企業の危機を救える人材」が求められるが、企業リスクに対して自律能動的に対処して会社のリスクマネジメントを推進できる「リスクマネジャー」や「CRO(チーフ・リスク・オフィサー)」といったリスクマネジメント人材の育成・登用が重要と考える。

実は、兼続の「北の王国」は、実現できた可能性があったという。慶長5年(1600年)7月、家康は上杉討伐で小山(現栃木県小山市)に到着した折に「石田三成蜂起」の報に接し、家康は上杉討伐軍の「小山軍議」を経て関ヶ原合戦に向けて引き返すが、小山のすぐ手前の白河(福島県白河市)で布陣していた景勝・兼続が土地勘のなく劣位にある家康の遠征軍を追撃していたら、歴史は大きく変っていただろう。ランチェスター戦略の「弱者戦略3原則」の1つである「局地戦・接近戦に持ち込む」のである。グローバル競争下の現代企業の生き残り戦略においては、戦略策定のための情報収集とともにリスクマネジメントが重要である。上述のリスクマネジメント人材の育成・登用とともに、中核事業に関わる巨額損失リスク(震災リスク、サイバーリスク等)につき、キャプティブ設立を視野に入れたリスクマネジメント戦略の策定をお薦めしたい。                                                                                                                                                                                                                               執筆者: 菅原 伸雄

翻訳者:羽谷 信一郎

English Translation

Corporate Strategy(CS)24 – Kanetsugu Naoe: Dreaming of the Northern Kingdom

Kanetsugu Naoe was a military commander from the Warring States period to the early Edo period. He was the main character in NHK’s historical drama “Tenchijin” (broadcast in 2009, original story by Masashi Hisaka). Kanetsugu’s “righteousness” and the fact that he wore a helmet with the character for “Ai (love)” on the front made him a hot topic, and the show recorded a high viewer rating of 26.0% and an average viewer rating of 21.2%.

Kanetsugu was the first retainer of Kagekatsu Uesugi, the adopted son and successor of the famous warlord Kenshin Uesugi, and supported Kagekatsu throughout his life. Hideyoshi Toyotomi (hereinafter referred to as Hideyoshi), who was only a retainer of Kagekatsu, highly evaluated Kanetsugu’s activities and talent, and appointed him as “Yamashiro no Kami” (subordinate to the fifth rank) and conferred “Toyotomi-ness” on him. In the book, “Sengoku Busho no Kousei: 111 Nin no Tsushinbo” (The Correspondence of 111 Warlords), written by Tetsuo Owada, Kanetsugu’s “leadership, culture, execution and planning” are highly evaluated, and he was as good as Kenshin and “the strongest number two in the Sengoku”.

Kanetsugu made a great contribution to the settlement of Uesugi territory (Echigo) and the survival of the Uesugi family, but after the Battle of Sekigahara (1600), Kagekatsu was forced to “reduce his feudal domain from Aizu (1.2 million koku) to Dewa-Yonezawa (300,000 koku)” (1601). Kanetsugu’s reply letter (so-called “Naoejo”) criticizing Tokugawa Ieyasu’s (hereinafter referred to as Ieyasu) order to go to Kyoto, and Kanetsugu’s leadership against Ieyasu before and after the Battle of Sekigahara led to his punishment. In Fuyuji Domon’s novel, “The Kingdom of the North, Naoe Kanetsugu” (Gakuyoshobo), it is written that Kagekatsu and Kanetsugu were fed up with the discoveries, intrigues, and extortionate transactions of the Kamigata feudal lords swirling around Fushimi Castle and Osaka Castle, and that they dreamed of a “Kingdom of the North”, an autonomous region independent from Kamigata.

1. Kanetsugu Naoe and Kagekatsu Uesugi

Kanetsugu was born in 1560, the eldest son of Kanetoyo Higuchi, who served Masakage Nagao (Kagekatsu’s father), the lord of Sakado Castle, in Uedasho, Echigo (present-day Minami-uonuma City, Niigata Prefecture). Kagekatsu’s mother (Kenshin’s sister, Sentoin) took Kanetsugu (then “Yoroku Higuchi”, only 4 years old and 5 years younger than Kagekatsu), who she had expected to be intelligent and extraordinarily talented from his childhood, as Kagekatsu’s close apprentice, and had him accompany Kagekatsu when he was adopted by Kenshin and went to Kasugayama Castle. When Nobutsuna Naoe, one of Kagekatsu’s close aides, was assassinated, Kagekatsu regretted that the Naoe family, one of the Uesugi family’s most important vassals (said to be descended from Magomaro, the son of Kamatari Fujiwara), was cut off, and in 1581, he adopted Kanetsugu as his son-in-law and remarried his widow (Ofuna, the daughter of the previous Kagetsuna Naoe) to succeed the Naoe family. This is how he became ” Kanetsugu Naoe “.

After the death of Kenshin, Kanetsugu sided with Kagekatsu in the war for the succession of the Uesugi family (the Otate Rebellion), and when Kagekatsu’s close aide Hideji Kano fell ill, Kanetsugu was always close to Kagekatsu and was entrusted with domestic and diplomatic affairs as his closest aide. He accompanied Kagekatsu on his major campaigns, such as the conquest of Sado (1589) and Odawara (1590), and also accompanied Kagekatsu on his first trip to Kyoto (1586) at the request of Hideyoshi.

After that, he participated in “the transfer from Echigo to Aizu” ordered by Hideyoshi (1598), “Kanetsugu’s reply (Naoe letter)” to Ieyasu’s order for Kagekatsu to go to Aizu, who suspected Kagekatsu’s building of a new castle and military build-up as a treason, and “Ieyasu’s attack on Aizu” (June 1600), and “Date’s army, Mogami’s army” in Dewa (Yamagata) before and after the Battle of Sekigahara. (July-September 1600), the “Battle of Date and Mogami” in Yamagata (July-September 1600), the “Reduction of the Aizu (1.2 million koku) to Yonezawa (300,000 koku)” (August 1601), and the “Participation in the Osaka Winter and Summer Campaigns as part of the Tokugawa Army” (1614 and 1615). Kagekatsu and Kanetsugu worked closely together, with Kanetsugu taking the lead and Kagekatsu giving the decisive decisions, to get through these difficult times.

Kagekatsu and Kanetsugu are said to have been opposites, with Kagekatsu being a “warrior, brave general and taciturn” type, while Kanetsugu was a “man of letters, bureaucrat and eloquent”. Kagekatsu “selected Kanetsugu to be the regent, and entrusted him with what he could do, and only intervened when he thought it was the right thing to do, which is the way a leader should be” (from “Warlord’s Strength: 111 Correspondence”), and Kanetsugu continued to support Kagekatsu with his life.

2. Kanetsugu’s achievements in the arts and sciences

Kanetsugu is known as a military strategist of wisdom. After the Battle of Shizugatake (1583), where Hideyoshi’s victory over Katsuie Shibata made him the leading candidate to succeed Oda Nobunaga, Kanetsugu contacted Mitsunari Ishida, Hideyoshi’s close aide, and contributed greatly to the survival of the Uesugi family under Hideyoshi. After the Battle of Sekigahara, Kagekatsu, who had taken an “anti-Ieyasu” position, had 3/4 of his territories confiscated, but Ieyasu, who regretted the famous “Uesugi” family, allowed the Uesugi family to survive as “it was Kanetsugu’s doing, not Kagekatsu’s contrary mind”. After that, Kanetsugu disinherited his legitimate son (later Kageaki Naoe) and married Masashige Honda, the second son of Masanobu Honda (later an old lieutenant to Hidetada Tokugawa) and Kanetsugu’s eldest daughter, Matsu, in order to make connections within the Tokugawa shogunate and to secure the safety of the Uesugi family. (In 1604, seven years later, Masashige left Yonezawa to become the first retainer of the Kanazawa domain, Masashige Honda, under Toshiie Maeda).

Kanetsugu was also a prolific economic bureaucrat. He also strengthened Kagekatsu’s power base by controlling the maritime traffic on the Sea of Japan through various ports in his domain. In addition, Kanetsugu developed the gold and silver mines in Sado and other areas in earnest, and controlled the cultivation of “Aoso”, a specialty of Echigo since the Middle Ages, to increase its production.

Kanetsugu was also renowned as a man of culture. From a young age, Kanetsugu wrote Chinese poetry and Renga poetry, and was said to have rivaled the best cultural figures of his day. He copied and collected historical, medical, and Buddhist texts from all over the world. When Kanetsugu went to Korea during the Japanese invasion of 1592-97, he collected Chinese classics that were about to be destroyed by fire, brought them back, and published “Naoe Bunsen”. He also founded the Yonezawa clan’s academy, Zenrin Bunko (later known as Kojokan, now Yonezawa Kojokan High School).

3. Kingdom of the North

In 1595, Kagekatsu held a total of 910,000 koku in Echigo, Sado, the four counties of Kawanakajima in Shinano, and the three counties of Dewa Shonai, but in 1598, by order of Hideyoshi, Kagekatsu was transferred from Echigo, which had long been the ancestral home of the Uesugi family, to 1,200,000 koku in Aizu (he continued to hold Sado and the three counties of Dewa Shonai). After the death of Hideyoshi, Kanetsugu took advantage of the turmoil in Kamigata caused by the violent confrontation between the camps of Ieyasu and Mitsunari, which divided the Toyotomi administration, to regain Echigo, and to establish the “Kingdom of the North”, which included Aizu, Dewa and Mutsu under the control of Date Masamune. In other words, they planned to establish autonomous regions in Mutsu, Dewa and Echigo, with autonomy independent of the Kamigata region. However, as mentioned above, this did not come to pass as the Aizu (1,200,000 koku) was reduced to 300,000 koku (300,000 koku) in Dewa-Yonezawa in 1601 following the Battle of Sekigahara.

In the Tohoku region, although there was no unified political force in ancient times, there were Emishi, who politically and culturally refused for a long time to be conquered or absorbed by the Yamato Court, or to belong to or assimilate into the regions that came under its control. In the Ritsuryo period (8th century), Mutsu and Dewa provinces were established, and in the mid-11th century, after a struggle for supremacy between the Abe clan in Mutsu and the Kiyohara clan in Dewa, the Oshu Fujiwara clan (Kiyohira, Motohira and Yasuhira) consolidated control of Oshu in 1087. In the midst of the political turmoil of the Genpei War, the Imperial Court approved the rule of the Oshu Fujiwara, who had remained cooperative with the Imperial Court, and the Oshu Fujiwara established their own government and Hiraizumi culture in peace during the Genpei War against the backdrop of their powerful military strength and political neutrality, which was said to number 170,000 cavalrymen.

At the end of the Tokugawa Shogunate, in May 1868, during the Boshin War, the Mutsu, Dewa and Echigo clans formed the Ouetsu Alliance, an anti-Revolutionary governmental offensive and defensive alliance headed by Prince Rinnojimiya Kogen Nyudo. When this petition was rejected, the allied clans fought against the new government forces but surrendered individually, and in September, Sendai and Aizu, the core of the alliance, surrendered and the alliance was dissolved. It is said that the purpose of the alliance was to exclude the Satsuma clan, which was the core of the new government, but as the clans were already in the middle of fighting against the new government forces, the command structure was not unified and the alliance was not monolithic.

Thus, from ancient times to modern times, the Tohoku region has had a history of trying to draw a political line due to geographical and cultural differences with Kamigata/Central Japan, and Kanetsugu’s dream of a “Northern Kingdom” was probably aimed at a way of life that was rooted in the region and not tainted by Kamigata/Central Japan.

Summary of this issue

“Tatsusan” of Tatusan zenchikoji as Kanetsugu’s Buddhist name means “a man of wisdom, benevolence and courage”. He was truly blessed with “Tatsusan” and did a great service to the Uesugi family in a turbulent time.

On the other hand, he was a frugal man and did not hesitate to invest a lot of money in projects that were beneficial to society. After Kanetsugu’s death, all he had left was his armor and books. He was famous as a wise general, but he never wavered in his support for Kagekatsu, whom he trusted. There is a theory that the “Ai” (love)on the front of Kanetsugu’s helmet is derived from his belief in the “Spirit of Aimin”, or from a character from the military god Atago Gongen or Aizenmyoo.

In today’s business world, it is important to develop employees who have the same loyalty to the organisation, sense of responsibility and ability to deal with crises as Kanetsugu. Replacing the relationship between Kagekatsu and Kanetsugu with that between the company and its people, we are reminded of the importance of “communication and mutual trust”, and of “giving people a chance and leaving them in charge without fear of failure”. In today’s rapidly changing business environment, there is a need for “human resources who can save the company from crisis”, and we believe it is important to develop and promote risk management personnel such as “risk managers” and “chief risk officers (CROs)” who can autonomously and actively deal with corporate risks and promote risk management in the company.

In fact, Kanetsugu’s “Kingdom of the North” could have been realized. In July 1600, when Ieyasu arrived in Oyama (now Oyama City, Tochigi Prefecture) to defeat Uesugi, he was informed of the uprising of Mitsunari Ishida, and after the “Oyama Military Conference” of the army to defeat Uesugi, Ieyasu turned back towards the Battle of Sekigahara. If they had pursued Ieyasu’s expeditionary force, history would have been very different. This is one of the “three principles of the strategy of the weak” of the Lanchester Strategy, “to bring the battle to a local and close battle”. In the survival strategy of modern companies under global competition, risk management is important as well as information gathering for strategy formulation. In addition to the development and promotion of risk management personnel as mentioned above, we recommend the development of a risk management strategy with a view to establishing a captive for the risk of massive losses (earthquake risk, cyber risk, etc.) related to core businesses.

 

Author: Nobuo Sugawara

translator: Shinichiro Hatani