企業戦略 2021.07.16
CS29 歴史は繰り返す History repeats itself
For those who prefer to read this column in English, the Japanese text is followed by a British English translation, so please scroll down to the bottom of the Japanese text.
昨年、2020年2月本コラムに投稿した「CS 3ー関ヶ原の戦い The Battle of Sekigahara」に「天下分け目の戦い」と言われた、慶長5年9月15日(西暦:1600年10月21日)に起きた「関ヶ原の戦い」に関して以下を記した。
戦いは午前8時頃始まり、午前中は西軍優勢であったが、昼過ぎ、西軍の小早川秀秋の裏切りが起こるや形勢は一気に逆転、西軍は総崩れとなり、東西合せて16万とも言われる大軍決戦の結果がわずか7時間で決着した。明治初期、ドイツから来日、陸軍大学校の教官として日本陸軍近代化の基礎を築いたクレメンス・メッケルが、両軍の布陣を見て、「西軍の勝ちである」と即座に答えた戦いが、なぜ短時間で東軍の一歩的な勝利に終わったのか、その原因は何か。
東軍、西軍、それぞれの勢力に関しては、諸説あるが、最近の研究では、「陣地の備え」、「兵力」いずれにおいても、豊臣方の西軍が徳川方の東軍を遙かに圧倒していたことが解ってきた。
1.関ヶ原の戦いの西軍の敗因
冒頭のコラム記事「CS 3ー関ヶ原の戦い The Battle of Sekigahara」のなかに、「西軍の敗因」として以下を記した。
組織が拡大すると、ある一定段階ごとに変化と進化が求められる。永遠の拡大は存在しないからである。草履とりから天下人となった秀吉の組織もそうであった。組織の統治、行政手腕が期待される、三成を中心とした「文治派」と呼ばれる事務方の勢いが力を増した。しかし、彼らの戦略に「進化」が顕れることはなかった。天下を統一した後も、秀吉や三成は「更なる領地獲得」という旧来の戦略をそのまま踏襲したのである。7年間にわたる、得るもののなかった朝鮮出兵である。
この不満を抱えながらも「アンシャン・レジーム(旧秩序)」を継続しようとした西軍と、次なる時代、確固たる武家政権樹立を目指して幕藩体制を志向、既に「組織の進化」を起こしつつあった東軍との戦い、「新旧の秩序の戦い」、これが関ヶ原の合戦であった。
関ヶ原に布陣した家康に対して、西軍の総大将に任じられた毛利輝元は大阪城に居残り出陣しない、また実質的に徳川と反徳川の戦いでありながら、「秀頼公のご出馬を」という三成の再三の要請を淀殿が断るなど、西軍は「トップの不在」という致命的な負のベクトルを全軍に与えることになったのである。
西軍の象徴である豊臣秀頼の出馬が無かったことがどれほど全軍の士気に影響を与えたことか、個別の合戦で敗色が濃くなりつつあった時、一気に全軍へ士気の低下が伝播していった。「我々はトップのために戦っているのに、そのトップは戦場に不在である」ということがどれほど全軍に大きな影響を与えたか、「個別の戦い」はできても、また「戦術には長けていて」も、全軍を率いるための確固たる「戦略が存在しなかった」のである。このことによって「一瞬のうちに全軍が崩壊した」ため、「誰しもが長期戦になると予想した戦いが、わずか7時間で決着が着いた」のである。
2.明治維新勃発
今月、7月2日本コラムに投稿した「CS 28『容易ならざる国際人』-榎本 武揚 “A dignified International Man” – Takeaki Enomoto」、7月9日投稿した「CA29ー日英同盟の立役者・林 董 A leading figure in the Anglo-Japanese Alliance・Tadasu Hayashi」、この2つの舞台は「明治維新」であった。
関ヶ原の戦いから250年有余年が経過した頃、黒船来航から始まった欧米列強の日本への経済的、軍事的拡大政策が起きていた、「帝国主義」が日本にも押し寄せてきたのである。これに対する抵抗運動として「攘夷」が始まり、それが大きなエネルギーとなって明治維新に向かう大きな流れが日本全国で一斉に蠢き始めたのである。
中国、当時の「清」が1840年から2年間の「アヘン戦争」で敗退、戦勝国である英国を筆頭とする欧米による帝国主義政策の影響が東アジアに浸透するにつれ、そのことを識った日本では、水戸学等の国学を基盤とした、「外国勢力を排斥して江戸幕府開闢以来の基本政策である鎖国政策と幕藩体制を維持しようとする攘夷思想」が現れてきた。しかし、江戸幕府は開国、通商路線を選択していたため、攘夷思想は相対する討幕運動と結びつき、「幕府を倒し朝廷のもとに攘夷の実行を求める尊王攘夷運動」として、倒幕派の武士階層を中心に広く普及していくことになった。
この流れのなか、幕政の中心に浮かび上がって「開国」を主導したのが、譜代大名中最高の石高を有し「譜代大名筆頭」と言われた、彦根藩第15代藩主、井伊直弼であった。1858年(安政5年)「大老」に就任。幕政の全ての権限を握る立場に就き、「欧米列強からの侵略戦争を避けるため」として、本来は必要である「天皇の勅許」を得ること無く、安政5年6月19日(西暦:1858年7月29日)、後に大きな禍根を残した不平等条約「日米修好通商条約」を締結した。当然、この井伊直弼を中心とする幕府の諸策に反対する者たちが多く顕われてきたが、この動きに対して、井伊直弼を中心にする幕府によって、後に「安政の大獄」と呼ばれる、100名以上に及ぶ、尊王攘夷派、一橋派の大名、公卿、志士たちへの弾圧、粛清がおこなわれた。しかし、1860年(安政7年)、「桜田門外の変」において井伊直弼が暗殺され、急転直下、安政の大獄はその収束を見ることになった。
モノゴトの「動き」に対しては「反動」が必ず起きる。「作用」の力が働けば、必ず起きる力が「反作用」の力である。「運動の第3法則」、一般的には「作用・反作用の法則」と知られている、この自然界の摂理は、当然「人間の営み全て」に当てはまる。「作用・反作用の法則」では、「二つの物体が互いにカ・作用を及ぼす場合、両者は向きが反対で大きさが等しい」とされている。「安政の大獄」という、徳川300年の歴史のなかでかつて無かった「幕府の弾圧」、それへの「反作用」は、「かつて無いほどの力」となって「新しい世」を求めて歴史の歯車を動かしていくことになったのである。
しかし、その力の迸りを見ながらも幕府は、あくまで公(朝廷)と武(幕府及び諸藩)を結びつけた現状の幕藩体制のなかで欧米列強への対応をおこない、日本の国力、武力の強化を図る「公武合体政策」を掲げ続け、「攘夷の要求」へは曖昧に妥協しながら幕藩体制の存続をはかろうとした。この曖昧な対応によって、外国勢力の脅威に直面していた雄藩の支持を失っていくことになり、「幕府を廃して朝廷の下に中央集権的な政治体制を樹立する構想」には雄藩も加わり全国の藩で急速に支持されていく動きへと変貌していった。
また、長年幕府に従属してきた藩のなかにも「藩独立」の考え方が生まれてきた。開国を是認する各藩のなかには、「幕府による対外貿易の独占に反対して欧米列強に対抗するため幕藩体制の変革を訴える勢力」が現れ始めたのである。これらの勢力も、「体制の中心としての朝廷」を念頭に置いた動きであったため、京都の朝廷を舞台に複雑な政争、内乱が展開されていくことになったのである。
3.八月十八日の政変と禁門の変
1863年9月30日、和暦では「文久3年8月18日」、後に「八月十八日の政変」と呼ばれる朝廷内での政変が起きた。会津藩、薩摩藩など「幕府の攘夷」を支持する勢力が、「朝廷による攘夷」を図ろうとする急進的な尊攘派公家、その背後にいた長州藩を朝廷から排除した出来事である。
この「作用」に対しても当然「反作用」が後に起きた。この政変によって京都から追放された長州藩が、主敵と考えた京都守護職の会津藩主松平容保らの排除のため挙兵したのである。戦火によって京都市中の3万戸の家が焼失するなど激烈な市街戦が繰り広げられた、1864年8月20日(和暦:元治元年7月19日)に起きたこの戦いは、「禁門の変」、また「蛤御門の変」とも呼ばれるが、長州藩勢力は敗北、そして過激な尊王攘夷派は衰退していった。この後、長州勢と戦った一橋慶喜(後の徳川慶喜)、会津藩、桑名藩が主導して政局が進んで行くことになり、「京都御所に向かって発砲したため『朝敵』とみなされた長州藩」に対して、「長州征討」(長州征伐)がおこなわれることになった。
長州征討は、1864年(元治元年)、1866年(慶応2年)の2回、禁門の変を起こした長州藩の処分をおこなうため長州藩へ征討の兵を出しておこなわれた。しかし、「征伐」とみなされるのは「第一次長州征討」のみであり、「長州藩の3人の家老の切腹、4人の参謀の斬首、山口城の破却等」に「戦果」をあげることが出来たが、「第二次長州征討」では新式の兵備を整えていた長州藩による反撃で幕府軍が大苦戦。更に、そのさなか、第十四代将軍徳川家茂が死去、混乱のなか第十五代将軍となった徳川慶喜は、幕府側の小倉城が陥落した報を受け朝廷に働きかけ「休戦の勅命」を依頼、結果停戦となったのである。
この第二次征討の「敗退」によって幕府の軍備の脆弱性が白日の下に曝されることになり、幕府滅亡を早める結果になったが、この動きの裏では、昨年2020年7月12日本コラムに投稿した「CS12 ー 英国で始まった『薩長同盟』The Satsuma-Choshu alliance began in England」に詳しく記した薩長同盟が1866年に結ばれ、歴史の軸は明治維新へ向かって大きく回転し始めていたのである。
「新政府軍の前線に掲げられた『錦の御旗』の製作場所」(「山口商工会議所」公式ウェブサイトより引用)
The place where the “Nishiki no Mihata”(A Flag of the Imperial Court), the flag displayed at the front of the new government army, was made (quoted from the official website of “the Yamaguchi Chamber of Commerce and Industry”)
4.「錦の御旗」
第二次長州征討から2年後、歴史の皮肉か、徳川幕府の樹立を決定づけた「関ヶ原の戦い」から260有余年後、1868年1月27日から30日(和暦では、慶応4年1月3日から6日)に掛け、今度は徳川幕府の崩壊を決定づける戦い、「戊辰戦争」の初戦、「鳥羽伏見の戦い」が起きた。その戦いの主役は、関ヶ原の戦いで「西軍」に与した、薩摩藩、長州藩、そして「東軍」の徳川勢であった。
「第二次長州征討」の失敗は、幕府の威信を大きく低下させることになったが、この「作用」は新たな動き、「反作用」を引き起こした。
薩摩藩には、1867年11月8日(和暦:慶応3年10月13日)、その翌日には長州藩に対して、「討幕の密勅」が発せられたのである。更に、この動きを既に知っていた徳川慶喜は、長州藩に密勅が下った日、朝廷に対して「大政奉還」を奏請、翌日10月15日には明治天皇が大政奉還を勅許した。
「倒幕の名目」を失った薩長は、徳川慶喜討伐のための動きを朝廷に対して引き続き行なった。その結果、幕府の廃絶と新政府の樹立を決める「王政復古の大号令」が、1868年1月3日(和暦:慶応3年12月9日)発せられ、倒幕派と幕府側による武力衝突、「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに一連の「戊辰戦争」が勃発したのである。
徳川慶喜は、「鳥羽・伏見の戦い」では大坂城で指揮を執ったが、「戦い」に詳しい幕臣が傍にいなかったため、的確な戦略をたてられなかった。兵力(兵員数)では、幕府側が遙かに勝っていたが、新政府側は幕府側の兵備を上回る新式兵備を取り入れていた。そのため戦いは一進一退であったが、この時「切り札」として新政府側(薩長)が用意した「戦略」は見事であった。幕府軍を「朝敵」にする戦略であった。仁和寺宮(後の小松宮)を臨時の官職「征討大将軍」に任命、「錦の御旗」を掲げて幕府軍征討の本陣を置いたのである。これが契機となり、日和見をしていた各藩が、「まさに、旗幟を鮮明」にして新政府側に付き、瞬く間に大勢は決することになったのである。
「朝敵の汚名」と感じた徳川慶喜は戦意を失い、周りの意見を聞くことはまったく無く、1月7日には大坂城を脱出、「CS 28『容易ならざる国際人』-榎本 武揚 “A dignified International Man” – Takeaki Enomoto」に記した、艦長榎本武揚不在のまま、軍艦「開陽丸」に乗船、江戸へと向かったのである。
大坂城に残された榎本武揚は、残された銃器や刀剣などを運び出し、城内にあった18万両を他の幕府軍艦に積み、新撰組、旧幕府軍の負傷兵らとともに、1月12日大阪湾を出発、15日江戸に到着、「徹底抗戦」を具申したが、「錦の御旗」に恐れをなした徳川慶喜は、上野の寛永寺に籠もって「恭順の姿勢」を示すばかりであった。憤懣やるかたの無い「徹底抗戦」を主張する幕臣、大名は、榎本武揚が率いる旧幕府艦隊の軍艦に乗船、蝦夷地に向かった。一方、勢いに乗る薩長は、「徳川慶喜の追討令」のもと東征軍を組織して、「戊辰戦争」の第二幕が東北、北海道を中心に展開することになったが、新式兵備の新政府側は破竹の勢いで、1年半後幕府側の敗北をもって、新しい時代を迎えることになったのである。
なぜ、兵力に於いては新政府側の3倍近くの徳川幕府側が「鳥羽伏見の戦い」で負けたのであろうか、その理由は、「昔ながらの『兵力(兵員数)=戦力』」と考えたことである。「鉄砲が登場する前」であれば、「兵員数=刀・槍の数」として「兵員数=兵力」と考えることもできた。しかし、「鉄砲」の登場は「武器=鉄砲の進化」という新たな命題を突きつけることになったが、「300年間の天下泰平の世」を生き「徳川幕府=絶対権限者」という思考に取り憑かれていた幕府の上層部には、もはや「武器=鉄砲の進化」を考える戦略思考は残ってはいなかったということである。
「寡兵で2度の長州征討を乗り切った長州藩」そして、「薩英戦争に負け、その戦略の欠点を検証して、『武器の違い、その進化を身を以て体験』して英国に総勢19名もの『薩摩藩遣英使節団』を『留学生』として派遣、欧米の進んだ文化を取り込むことに躍起になっていた薩摩藩」、これに対してリスクマネジメントで最も避けるべき判断である「思い込み」によって「我が方の兵力は3倍」と考え、闇雲に旧来の戦いを仕掛けた幕府軍。戦いの帰趨は、「錦の御旗」を見る前から付いていたと言っても過言ではないだろう。
事実、早くから英国の最新鋭の武器を導入していた薩摩藩、長州藩の銃は、幕府軍の旧式の銃より遙かに長い射程距離を有していた。そのため、幕府軍の銃の射程外から狙い撃ちされると、幕府軍は応戦のしようが無く、「撃たれるに任せる」しかなかったのである。
更には、「戦略面」でも、相手の兵力を「兵員の数」のみで測り勝利を楽観視していた幕府軍に対して、新政府側(薩長)は入念に戦いの戦略を立てその検討を繰り返したといわれている。幕府側は、ハードだけでなくソフトでも負けていたのである。
今回のまとめ
「戦いに於ける総大将の不在ということの影響の大きさを認識していなかった」ということが「関ヶ原の戦い」における「西軍」の最大の敗因である。それから260有余年経過して、今度は「東軍」が同じ過ちを「総大将の敵前逃亡」という形で「鳥羽伏見の戦い」で見せた。
現代でも、「トラブルを起こした際の対応」に同じ過ちを冒す企業が多いと感じている。「初期段階からトップが記者会見をおこなう」のか、それとも「担当役員がおこなう」のか、「誰が考えても解るはず」と思えるような危機対応の初歩さえ準備されていないと感じることが多い。「トップが出てこない対応」には、「『まだ、私の出番ではないだろう』と後ろにいるトップが思っているのでは」と、トラブルで大きな迷惑、損害を被ったと感じている企業、人々は、そう見るのが普通である、そう理解して相応の対応をすれば「クレーム」も、「その後の動き」も異なっていく。実は、「クレーム対応」は、この「初期対応」によって「危機になるかならないか」が決まる。「初期対応こそクレーム対応の全て」と言っても過言ではないのである。
「鳥羽伏見の戦い」が我々に教える教訓はまだある、「進化」ということである。これは、何も「銃」のような武器に限らず、組織に於いても、例えば「リスクマネジメント組織」でも言えるのである。一旦構築したリスクマネジメント組織は外部環境と内部環境の変化に応じて、変更しなければリスクマネジメント組織自身がボトルネックとなり、リスクの正確な把握と対応がかえって困難になる可能性があるからである。「射程の短い銃」になる可能性がある。それほど、現代は「リスクの変容」と表現されるほど、企業を取り巻くリスクが激変しているからである。
かつて、「地震リスク」といえば、地震の揺れによって建物、設備・機械等に起こる物的損害を意味していたが、2011年3月11日の東日本大震災を契機として、国土のほとんどの地域で海岸と接する日本では、「地震のメインリスクは津波」と考えられるようになり、「津波タワー」等の設置もおこなわれてきた。
さらに、長期間水が引かなかった場合のライフラインの崩壊、生産施設の不稼働によって企業が被る収益の低下が問題視されようになってきている。「モノが壊れることのみを地震リスク」と考えていた時代が、東日本大震災を契機として大きく変化したのである。
また、これまでは、「いかに法令を順守するかのみが重要」だったが、昨今ではその時々の社会的な関心や価値観に適応した行動をとっているかが問われるようになってきている。法令を順守していても、社会の期待に反する行動をとれば企業への評価は大きく毀損され、法的な制裁も下されるようになってきている。
2年前には誰しも予想もしなかった「新型コロナの感染拡大(パンデミック)」によって多くの大切な命が失われ、世界経済に多大な影響が与えられている。地震リスクにせよ感染症リスクにせよ、そういう「新たなリスクが発生する」という前提に立って、新たなリスクを事前に想定、そして検知、検証、対応できるように、リスクマネジメント組織も常に進化していかなければならないのである。
そのためには、抜本的なリスクマネジメント対策であるキャプティブの設立を視野にした本格的なリスクマネジメントが必須の時代に確かに入ってきたと言えるのではないだろうか。
執筆・翻訳者:羽谷 信一郎
English Translation
Corporate Strategy (CS) 29 – History repeats itself
In the article “CS 3 – The Battle of Sekigahara” which I wrote in this column last February 2020, I wrote about the Battle of Sekigahara which took place on September 15, 5th year of Keicho (October 21, 1600 A.D.) and was known as the “Battle of Sekigahara”.
The battle began at around 8:00 am, and although the western forces were dominant in the morning, the battle was reversed afternoon when Hideaki Kobayakawa of the western forces betrayed them, and the western forces collapsed. Clemens Meckel, who came to Japan from Germany at the beginning of the Meiji era and laid the foundations for the modernization of the Japanese army as an instructor at the Army War College, looked at the formation of the two armies and immediately replied, “The West won the battle,” but why did the battle end in a one-step victory for the Eastern Army in such a brief time and what were the causes?
There are many theories about the strength of the eastern and western armies, but recent research has shown that the western army of the Toyotomi side was far superior to the eastern army of the Tokugawa side in terms of both “positional readiness” and “military strength”.
1.Causes of the Defeat of the Western Army at the Battle of Sekigahara
In the column “CS 3 – The Battle of Sekigahara” written at the beginning of this article, I wrote the following as “the cause of the defeat of the Western Army”.
When an organisation expands, change and evolution are required at certain stages. This is because there is no eternal expansion. Such was the case with the organization of Hideyoshi, who rose from a sandal-cutter to become a natural ruler. The “Bunji-ha”, or administrative staff, led by Mitsunari, who were expected to govern and administer the organisation, gained in strength. However, no “evolution” was evident in their strategy. After unifying the country, Hideyoshi and Mitsunari continued to follow the old strategy of “further territorial gains”: seven years of unsuccessful campaigns in Korea.
The battle of Sekigahara was a battle of the old and the new orders, between the West, which tried to continue the “ancien régime” (the old order) despite its dissatisfaction, and the East, which was already undergoing an “organizational evolution”, aiming at the establishment of a firm samurai government in the next era and the shogunate system.
While Ieyasu was deployed at Sekigahara, Terumoto Mori, who had been appointed general-in-chief of the Western Army, remained at Osaka Castle and did not go into battle. Moreover, although the battle was effectively between the Tokugawa and anti-Tokugawa forces, Yododono refused Mitsunari’s repeated requests for Hideyori to come to the battle, giving the entire western army the fatal negative vector of “the absence of a top leader“.
How much the absence of Hideyori Toyotomi, the symbol of the western army, affected the morale of the whole army. The fact that “we are fighting for the head of the army, but the head is not on the battlefield” had a profound effect on the whole army, which was able to fight “individual battles” and was “skilled in tactics” but had no firm “strategy” to lead the whole army. Because of this, “the whole army collapsed in an instant” and “the battle, which everyone expected to be a long one, was settled in just seven hours”.
2. The outbreak of the Meiji Restoration
The “CS 28: A dignified International Man” – Takeaki Enomoto” and the “CA 29: A leading figure in the Anglo-Japanese Alliance – Tadasu Hayashi”, which I wrote about on July 2 and July 9 respectively this month, were set in the Meiji Restoration.
More than 250 years had passed since the Battle of Sekigahara, when the economic and military expansionist policies of the Western powers, which had begun with the arrival of the Black Ships, brought imperialism to Japan. The “expulsion of the barbarians” movement began as a movement of resistance against this, and this gave rise to a huge surge of energy that led to the Meiji Restoration, which began to sweep across the country.
As China, then known as the Qing dynasty, was defeated in the two-year Opium War that began in 1840, and the influence of Western imperialist policies, led by the victorious British Empire, began to spread throughout East Asia, Japan became aware of this and, based on national studies such as the Mito school, began to adopt a policy of expulsion from the country, which was based on the principle of seclusion from foreign powers and the desire to maintain the shogunate system that had been in place since the dawn of the Edo shogunate. However, as the Edo shogunate had chosen to open the country to foreign powers and trade, the idea of expulsion of the barbarians was combined with the movement to defeat the shogunate and bring the expulsion of the barbarians under the control of the imperial court.
In 1858, Naosuke Ii, the 15th lord of the Hikone clan and the highest-ranking feudal lord in Japan’s history, was appointed Tairo (top councilor of shogunate), a position that gave him complete control over the administration of the shogunate. On June 19, 1858, he signed the Treaty of Amity and Commerce between Japan and the United States, a treaty of inequality, without obtaining the emperor’s approval. Naturally, there were many people who opposed the measures taken by the shogunate led by Naosuke Ii, but the shogunate, led by Naosuke Ii, suppressed and purged more than 100 feudal lords, lords and nobles of the expulsionist and Hitotsubashi factions, in what was later called the “Ansei-no-Taigoku”. In 1860, Naosuke Ii was assassinated in the Sakuradamon Gai no hen (Incident Outside Sakurada Gate), bringing the Ansei-no-Taigoku period to a close.
When things move, there is always a reaction. When the force of “action” works, the force of “reaction” always occurs. The third law of motion, commonly known as the law of action-reaction, applies to all human activity. The law of action-reaction states that when two objects exert a force or action on each other, they are opposite in direction and equal in magnitude. The Ansei-no-Taigoku, the first time in the 300-year history of the Tokugawa shogunate that the shogunate had been suppressed, and the reaction to that suppression, became “an unprecedented force” that set the wheels of history in motion in search of a “new world”.
Despite this outpouring of power, however, the shogunate continued to pursue its policy of combining the shogunate and the imperial court to strengthen Japan’s national power and military might in response to the Western powers, and to maintain the shogunate’s status quo by making vague compromises with the “expulsion of the barbarians”. This ambiguity led to a loss of support from the domains that faced the threat of foreign powers, and the idea of abolishing the shogunate and establishing a centralised political system under the imperial court was rapidly gaining support across the country, including from the clans themselves.
The idea of “clan independence” was also born among the clans that had been subordinate to the shogunate for many years. Among the clans that had supported the opening of Japan to the outside world, there began to emerge “forces that opposed the shogunate’s monopoly on foreign trade and called for a change in the shogunate system ” to counter the Western powers. These forces, too, had in mind “the imperial court as the centre of the system”, and so a complex political struggle and civil war unfolded at the imperial court in Kyoto.
3. “The Political Incident of 18 August” and “the Kinmon Gate Incident”
On 30 September 1863, or 18 August in the third year of Bunkyu in the Japanese calendar, a political upheaval took place in the Imperial Court, later known as the “August 18 Incident”. This was the day when the Aizu and Satsuma clans, which had supported the shogunate’s policy of expelling the barbarians, removed from the court the Choshu clan, which had been backed by radical exclusionist nobles who wanted to expel the barbarians from Japan.
This “action” was, of course, followed by a “reaction”. The Choshu clan, which had been expelled from Kyoto as a result of this political upheaval, raised an army in an attempt to eliminate the Aizu clan lord Katamori Matsudaira, who they considered their main enemy. The battle, which took place on August 20, 1864 (July 19 in the first year of Gneji in Japanese calendar), was a fierce urban battle that destroyed 30,000 houses in the city of Kyoto and led to the defeat of the Choshu clan and the decline of the militant expulsion of the Emperor. In the aftermath of the Hamaguri Gomon Incident, the Chōshū clan was defeated and the militant expulsion of the expulsionists from Japan began to wane.
After this, the political situation was led by the Aizu clan, the Kuwana clan, and the Tokugawa clan, who fought against the Choshu forces. After the war, the Choshu clan, led by the Aizu clan and the Kuwana clan, fought against the Choshu forces. The Choshu clan was considered to be the “enemy of the dynasty” because it had fired on the Kyoto Imperial Palace, and the “conquest of Choshu” was launched.
In 1864 and 1866, the shogunate conquered the Choshu clan in order to punish the Choshu clan for the kinmon Gate Incident, but only the First Choshu Conquest was considered a “conquest”.
The Shogunate was able to “commit seppuku(harakiri)” of three retainers of the Choshu clan, behead four of its chiefs of staff, and destroy Yamaguchi Castle. However, in the Second Conquest of Choshu, the Shogunate’s forces suffered greatly from a counterattack by the Choshu clan, which had prepared a new type of army. In the midst of the chaos, the 14th Shogun, Iemochi Tokugawa, died, and the 15th Shogun, Yoshinobu Tokugawa, upon hearing the news that Kokura Castle had fallen to the Choshu, approached the Imperial Court and requested an “Imperial Order of Truce”, which resulted in a ceasefire.
The “defeat” of the second conquest exposed the weakness of the Shogunate’s military forces and hastened its downfall. Behind the scenes, however, the axis of history was beginning to turn towards the Meiji Restoration with the signing of the Satsuma-Choshu alliance in 1866, as detailed in the article of 12 July 2020, “CS12 – The Satsuma-Choshu alliance began in England”.
4. “Nishiki no Mihata” (a Flag of the Imperial Court)
Two years after the second conquest of Choshu, and perhaps an irony of history, more than 260 years after the “Battle of Sekigahara” which decided the establishment of the Tokugawa Shogunate, the “Battle of Toba-Fushimi”, the first battle of the “Boshin War”, which decided the fall of the Tokugawa Shogunate, took place from January 27th to 30th, 1868 (January 3rd to 6th, Keio 4th in Japanese calendar). The main players in the battle were the Satsuma and Choshu clans, who had joined the “Western Army” at Sekigahara, and the Tokugawa forces of the “Eastern Army”.
The failure of the second conquest of Choshu greatly diminished the prestige of the Shogunate, but this “action” led to a new movement, a “reaction”. On November 8, 1867 (October 13, Keio 3rd in Japanese calendar), the Satsuma clan received a secret imperial decree against the Shogunate, and the next day, the Choshu clan received the same decree. On the same day that the secret decree was issued to the Choshu clan, Yoshinobu Tokugawa, who was already aware of these developments, requested the Imperial Court to return the government to power, and on the following day, October 15, the Emperor Meiji gave his approval.
Having lost the “name of the overthrow of the shogunate”, Satsuma and choshu continued their campaign against the Imperial Court to defeat Yoshinobu Tokugawa. As a result, the “Great Decree of the Restoration of the Monarchy” was issued on January 3, 1868 (December 9, Keio 3 in Japanese calendar), which decided to abolish the Shogunate and establish a new government, and a series of armed conflicts between the anti-Shogunate faction and the Shogunate side broke out in the “Boshin War”, starting with the “Battle of Toba-Fushimi”.
At the Battle of Toba-Fushimi, Yoshinobu Tokugawa was in command at Osaka Castle, but he was unable to formulate a proper strategy because he did not have a professional advisor at his side. Although the Shogunate was far ahead in terms of the number of troops, the new government had introduced a new type of army that was superior to that of the Shogunate. As a result, the battle was a back-and-forth affair, but the new government (Satcho: Satsuma and Choshu) had a brilliant “trump card” in the form of a strategy. The strategy was to make the Shogunate’s army the “enemy of the imperial court”. They appointed Prince Ninnaji (later Prince Komatsunomiya) to the temporary post of “Conqueror General” and set up the main camp for the conquest of the Shogunate forces under the “Nishiki no Mikata” banner. This was an opportunity for the opportunistic clans to make their banners clear and join the side of the new government, and in the blink of an eye, the decision was made.
Feeling “the stigma of a dynastic enemy”, Yoshinobu Tokugawa lost his will to fight and did not listen to the opinions of those around him. As described in “CS 28 “A Dignified International Man” – Takeaki Enomoto”, without Captain Takeaki Enomoto, he boarded the warship “Kaiyo Maru” and headed for Edo (Tokyo).Takeaki Enomoto, who was left behind in Osaka Castle, carried away the guns and swords left behind, loaded 180,000 ryo on other Shogunate warships, and left Osaka Bay on January 12 with the Shinsengumi and wounded soldiers from the old Shogunate army, arriving in Edo on January 15.He proposed a “thorough war”. However, Yoshinobu Tokugawa, fearful of the “Nishiki no Mikata” (the flag of brocade), only showed his “reverence” by confining himself to Kan-eiji Temple in Ueno.
Unhappy, the shogunate’s vassals and feudal lords insisted on a ‘thoroughgoing war’ and boarded the warships of the old shogunate fleet, led by Takeaki Enomoto, and set off for Ezo. On the other hand, Satsuma and Choshu clans, who were in high spirits, organized an expeditionary force to the east under the “Decree of Yoshinobu Tokugawa”, and the second act of the “Boshin War” unfolded mainly in Tohoku and Hokkaido.
There is the reason the Tokugawa Shogunate, which had three times as many troops as the new government, lost the Battle of Toba-Fushimi. The reason is that the Tokugawa Shogunate thought that the old-fashioned “number of troops = war potential”. Before the advent of guns, it was possible to think that “number of men = number of swords and spears” and “number of men = strength of the army”. However, the arrival of the guns posed a new proposition: the evolution of the weapons, but the upper echelons of the Tokugawa shogunate, who had lived through three hundred years of peace and tranquility and were obsessed with the idea that the Tokugawa shogunate was the absolute authority, no longer had the strategic thinking to consider the evolution of the weapons. This is the reason the shogunate was so obsessed with the idea of “authority”.
The Choshu clan survived the two conquests of Choshu with only a small army, and the Satsuma clan lost the Anglo-Satsuma War and sent a delegation of nineteen people to England as foreign students to examine the shortcomings of their strategy and to experience first-hand the differences in weapons and their evolution. The Satsuma clan was eager to adopt the advanced culture of Europe and America, while the Shogunate forces, under the assumption that their forces were three times as strong as the Satsuma and Choshu clans’, fought a conventional war in the dark. It is no exaggeration to say that the outcome of the battle was already known before the ” Nishiki no Mihata “.
In fact, the guns of the Satsuma and Choshu clans, which had been introduced to the latest British weaponry, had a much longer range than the older guns of the Shogunate. Therefore, if they were shot at from outside the range of the Shogunate’s guns, the Shogunate’s forces had no way of fighting back and had to “let them shoot”.
Furthermore, in terms of strategy, the Shogunate’s forces were optimistic about victory based on the number of men they had, whereas the new government (Satsuma and Choshu) had to carefully plan and study their battle strategy. The Shogunate was defeated not only in hardware, but also in software.
Summary of this issue
The most important reason for the defeat of the “Western Army” in the “Battle of Sekigahara” was that they “did not recognize the great impact of the absence of a general in battle”. More than 260 years later, the “Eastern Army” made the same mistake in the “Battle of Toba-Fushimi” in the form of the “flight of the general before the enemy”.
Even today, many companies make the same mistake in their response to trouble. Companies are not prepared for even the rudiments of dealing with a crisis, such as whether the top management should hold a press conference from the initial stages or whether it should be the directors in charge. It is normal for companies and people who feel that they have suffered a great deal of inconvenience and damage from a problem to think that, when “the top management does not come out”, “the top management behind me may think that ‘it is not my turn yet'”. If we understand this and respond accordingly, the “claim” will be handled differently. In fact, it is this initial response that decides whether a claim becomes a crisis or not. It is no exaggeration to say that “the initial response is the whole of claims handling”.
There is another lesson that the Battle of Toba Fushimi teaches us: evolution. This is true not only for weapons such as guns, but also for organisations such as risk management organisations. Once a risk management organisation has been established, it must be modified in response to changes in the external and internal environment, otherwise the organisation itself can become a bottleneck, making it difficult to accurately identify and respond to risks. It can become a “short gun”. This is because the risks surrounding companies today have changed so drastically that they have been described as “the transformation of risk”.
In the past, earthquake risk referred to physical damage to buildings, equipment and machinery caused by seismic activity. This has led to the construction of “tsunami towers” and other structures.
In addition, there is a growing concern about the loss of revenue to companies due to the collapse of lifelines and the failure of production facilities if the water does not recede for a prolonged period. The Great East Japan Earthquake has changed the way we used to think about earthquake risk.
In the past, it was only important to comply with laws and regulations, but nowadays it is important to act in accordance with the social concerns and values of the time. Even if a company complies with the law, if it acts in a way that is contrary to society’s expectations, its reputation will be severely damaged, and it will be subject to legal sanctions.
Two years ago, no one could have predicted the pandemic spread of covid-19 disease, which has claimed many lives and had an enormous impact on the global economy. Whether it is earthquake risk or infectious disease risk, risk management organisations must constantly evolve to anticipate, detect, verify, and respond to new risks, based on the assumption that new risks will arise.
To achieve this, we have entered an era in which full-fledged risk management, with a view to establishing captives as a full-scale risk management measure, is indeed essential.
Author/translator: Shinichiro Hatani