企業戦略 2021.07.23
CS30 縄文文化(長寿企業のリスクマネジメント)Jomon Culture(Risk Management for Longevity Companies)
For those who prefer to read this column in English, the Japanese text is followed by a British English translation, so please scroll down to the bottom of the Japanese text.
国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、この7月、「北海道・北東北の縄文遺跡群」(北海道、青森県、岩手県、秋田県)を世界文化遺産に登録する運びとなり、コロナ禍の下での明るいニュースとして話題になっている。
この縄文遺跡群は17遺跡で構成され、道路や大型建物などが計画的に配置された大規模集落の三内丸山遺跡(青森県)や大小の石を同心円状に配した大湯環状列石(秋田県)、祭りに火を使ったことが推定できる木の実が見つかった御所野遺跡(岩手県)などがある。ユネスコの諮問機関は、「先史時代の農耕を伴わない定住社会と複雑な精神文化、定住社会の発展段階や環境変化への適応を示している」と高く評価した。
1.三内丸山遺跡
三内丸山遺跡は、青森市にある縄文時代前期から中期にかけて1,700年間も定住した痕跡が残る大規模遺跡である。文化庁の「文化遺産オンライン」では、次のように紹介されている。
三内丸山遺跡は、青森市の中央部を北東へ抜けて青森湾に注ぐ沖館川の右岸台地上に営まれた35haに及ぶ縄文時代前・中期の大規模遺跡である。江戸時代から知られていたが、平成4年(1992年)に開始された野球場建設にともない発掘調査が進められ、本遺跡が東北北部から北海道南部における縄文時代前期半ばから中期末に及ぶ大規模で拠点的な集落であり、竪穴住居、土坑墓、埋設土器、貯蔵穴、大型掘立柱建物、盛土遺構などの各種遺構が計画的に配置されていたことが明らかにされた。また、当時の生活、生業、交流、自然環境などを示す多種多様な遺物が検出された。このことから、わが国の縄文文化の様相を雄弁に物語る遺跡として、平成9年(1997年)3月に史跡に指定されるとともに、建物復元や遺構展示等による整備も図られてきた。
平成9年(1997年)度には両側に土坑墓列を配置する幅約12mの基幹道路跡が集落中央から東に約420m以上に及ぶことが確認された。また、平成10年(1998年)度から12年(2000年)度には集落西南で環状配石墓・配石墓・土坑墓からなる墓域と集落中央からこの墓域に向かう長さ170mの道路跡などが調査された。これらの調査の結果、集落の内容や社会組織を解明する上での重要な手がかりが得られた。また、発掘調査と並行して、出土種子の遺伝子分析、高精度年代測定、花粉分析、動・植物遺存体分析、土偶の胎土…
筆者は10年程前に三内丸山遺跡を見学したが、広大な敷地に高さ約15メートルの大型掘立柱建物や550棟以上あったとされる竪穴住居の一部が復元されており、出土した土器や土偶の数多くの展示物と併せて、その迫力に圧倒させられた。かつて、学校で「縄文時代=人々が狩猟中心に食料を求めて移動しながら暮らした時代」と習ったが、その後の発掘調査の結果、縄文時代は、「実り豊かな森や海産物に恵まれ豊かな精神文化を持つ成熟した社会を築き、1万年以上続いた時代」であったことが明らかになったのである。
2.縄文時代
「縄文時代」は日本史に固有の時代区分であり、世界史における人類の進化に関わる四時期区分(旧石器<粗石>時代、新石器<磨石>時代、銅器時代、鉄器時代)においでは、旧石器時代(200万年前~1万年前頃)の終わりから新石器時代に相当する時代であり、旧石器時代と縄文時代の違いには、土器と弓矢の使用、磨製石器の発達、定住化と竪穴住居の普及、環状集落等の定住集落や貝塚の形成などが挙げられている。1万年余続いた縄文時代の時期区分は、土器型式上の区分により、草創期(1万5,000年前~1万1,500年前)・早期(1万1,500年前~7,000年前)・前期(7,000年前~5,500年前)・中期(5,500年前~4,400年前)・後期(4,400年前~3,200年前)・晩期(3,200年前~2,400年前<東北・関東地方>)の6期に分けるのが一般的である。
狩猟採集経済でありながら定住生活を営んでいたという点が、世界の他の地域の形態とは異なる特徴とされるが、当時の急激な温暖化がもたらした豊かな自然環境を活用することによって可能となった。各地域の生態系に根ざした狩猟採集経済に基礎を置いており、食糧生産経済の本格化には至らなかったという点で、稲作に特化し生態系の改変をともなう生産経済に基づくその後の時代の「弥生文化」と区別される。
1万年余に及ぶ縄文時代には、大規模な気候変動を経験している。約2万年前に最終氷期が終わってから6,000年前頃までは、地球の気温は徐々に温暖化していった時期であり、日本列島では、縄文草創期から縄文前期(1万3,000年前~6,000年前)には100m以上も海面が上昇している。縄文草創期には、日本列島の本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬は一つの大きな島であったが、この島と朝鮮半島との間に幅15キロメートル程の水路が広がって対馬海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込み、日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現するとともにその豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森林が形成されるようになった。約6,000年前には、海面が現在より4〜5m高くなったとされる「縄文海進」が起こり、関東地方には、東京都多摩地域や埼玉県秩父地域など、内陸深くにまで貝塚などの多くの縄文遺跡が残っている。
縄文早期には、定住集落が登場し、本格的な漁業が開始され、外洋航行も始まったとされる。縄文前期から中期にかけては、三内丸山遺跡にみられるように典型的な縄文文化が栄えた時期であり、気候が現在よりも温暖で「縄文海進」によって沿岸部には好漁場が増えて海産物の入手が容易になり、植生面ではそれまでの針葉樹林にかわり東日本にはブナやナラなどの落葉広葉樹が、西日本にはシイなどの照葉樹が広がった。縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、「弥生海退」と呼ばれる海水面の低下がおきた。関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小して貝塚も消え、西日本や東北では新たに低湿地が増加して植生が変化したことによって食料生産が低下し、縄文人の人口は停滞・減少に転じた。
3.縄文人-日本人のルーツ
国立科学博物館が礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された縄文人女性の人骨の歯からDNAを取り出して全ゲノム(遺伝情報)解析したところ(2019年)、縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団から分かれた時期が約3万8,000年前から1万8,000年前であることがわかった。この解析によれば、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なり、東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約1割受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちは約3割であったという。
遺伝学的解析により、縄文人は様々なルートで日本に移住した様々な古代の人類集団の子孫であり、主に古代ユーラシアの集団、様々な東アジアの集団から形成されたことがわかっている。旧石器時代に既に日本において異なる集団間の混血が起こり、その後も絶え間なく東アジア沿岸部からの遺伝子の流入があって多様性のある集団となり、2,400年前から大陸系弥生人が断続的に中国大陸や朝鮮半島等から渡来する前に均質化していった。縄文人骨の顔立ちや体形には時期差や地域差がさほど認められず一定している一方で、弥生人骨は多様であるとされる。
弥生時代には、縄文人そのもののような弥生人(縄文系弥生人)、大陸側(朝鮮半島と中国吉林省近く)にいた人々と身体的特徴が似ている弥生人(渡来系弥生人)、縄文系と渡来系が混合したような弥生人(混血系弥生人)が居住していたが、先住の縄文人とは対立していたわけではなく、融和、混血していったものと考えられている。縄文人のゲノム成分が高いのは上記のアイヌ、沖縄の他、九州、東北であり、逆に低いのは四国、近畿、北陸とのことだが、縄文人が日本人のルーツであることは間違いないようだ。
4.縄魂-原日本人の魂
日本の最古の土器は、1万6,500年前のものとされる。文明の発祥地とされるメソポタミアで発見された土器は9,600年程前ということからも、日本の土器は今のところ世界最古とされる。哲学者の梅原猛は「縄文文化は、土器の質と量において世界最高の文化として誇れる。戦後、続々と縄文の遺跡が発掘されて、縄文文化が従来考えられた以上に、技術的にも精神的にも優れた文化であることが明らかになってきた。」とし、次のように指摘している(集英社文庫「日本の深層 -縄文・蝦夷文化を探る」)。
「縄文文化は日本各地に広がり、縄文後期から晩期の文化の中心は青森県をはじめとする東北にあったが、水稲稲作農業が渡来すると東北は文化果つるところになった。しかし、東北はどこかにかつての高い誇りと高い文化の残影を宿しているのではないか。例えば、詩の世界において、東北は今でも日本の王者だ。」と、明治以降の東北に深く関係する詩人として、石川啄木、宮沢賢治、土井晩翠、斎藤茂吉、島崎藤村、高村光太郎の名をあげて、「東北には2,000年前に優れた文化を生み出したという無意識の記憶があり、その記憶が現在の没落の意識と結びつくと、そこにおのずから素晴らしい詩を生み出すのであろう。」といい、「文芸としての詩歌にとどまらず、日本の民謡も優れたものはほとんどが東北か九州のものだ。」、「東北の名物は何と言っても祭だが、東北地方でかつて栄えた素晴らしい文化をこだまさせているのではないか。」、「東北が日本人にとって、もっとも多く故郷のイメージを持っているのは、日本人はどこかでおぼろげながら、このような日本人の隠された魂の秘密を知っているからではないか。」
梅原は、現代日本人に引き継がれている原日本人の魂を「縄魂」と呼んでいるが、友人達に「典型的な東北人」といわれる東北出身の筆者自身も「縄魂」の存在を自覚できる気がする。
5.長寿企業のリスクマネジメント
「2020年版100年企業」調査(日経BPコンサルティング)で、世界の企業の創業年数が100年以上、200年以上の企業数を国別に調査したところ、日本は共に企業数で世界1位となり、世界の創業100年以上の企業約80,000社のうち41%(33,000社)が日本の企業であり、創業200年以上の企業(2,062社)ではその比率は65%(1,340社)を占めて、創業1000年以上も7社あるという。このように、日本に多くの長寿企業が存在する理由は、異民族の侵入を防いだ地理的条件、異質を排除しない伝統的な思想・宗教観、ビジネスの目的に社会的意義を重視するビジネス観・企業観など、日本独特の伝統的な要素が関係するとされるが、これらに、日本人が縄文時代から受け継いできた「縄魂」が作用しているように感じるのは筆者だけであろうか。
長寿企業は、当然ながら、長年にわたり数多くのリスクを乗り越えて生き残ってきたわけだが、その永続のための「核」はどこにあるのか。長寿企業の顔ぶれを見ても、第一に「企業のミッション(使命・理念)の明確な自覚」ではないだろうか。つまり、「縄魂」にも通じる企業の「魂」である「企業のミッション」をどう構築して保持し続けるかであり、ミッションの「根」を持たない根無し草の企業に長寿はないということである。
そして、「絶えざる革新を目指す姿勢」が重要であろう。過去の成功体験にとらわれず、社会の変化、顧客ニーズの変化に合わせて変えていくべきものと、変えてはいけないものとを見極め、時として思い切って自らを変えていくことであり、この「新規分野へのチャレンジ」を成功に導くためには、「リスクマネジメント」が欠かせない。
今回のまとめ
現代日本人の祖先は、旧石器時代に沿海州、東南アジア、韓半島から日本に来た人々が混血・変形を繰り返して、縄文人、弥生人になった。旧石器時代には冷涼であった日本の気候は、1万5,000年前~1万1,500年前には温暖化し、人々の生活環境を大きく変化させて、生活様式が「狩猟・採集・漁撈による食料獲得、土器や弓矢の使用、定住」で特徴づけられる縄文文化が花開き、その縄文時代は、約2,300年前に水田による米作りが始まる弥生時代までの1万年余も続き、日本人のDNAに「縄魂」を遺した。
企業の永続には、とりわけ、企業の魂である「企業のミッション」の明確な構築・保持と、新規分野へのチャレンジが重要になる。
「キャプティブ(自社専用保険会社)」を設立して、「リスクマネジメント」の中核とすることにより、企業の事業活動に伴うリスクを長期安定的に低廉なコストでしっかりと管理できるようになる。キャプティブは、長寿企業の実現に向けた最新のツールであるとも言える。
執筆・翻訳者:菅原 伸雄
English Translation
Corporate Strategy (CS) 30 – Jomon Culture – Risk Management for Longevity Companies
It is a topic of conversation in Japan as good news under COVID-19 crisis that UNESCO is scheduled to register “Jomon Prehistoric Sites in Northern Japan” in the Prefectures of Hokkaido, Aomori, Iwate and Akita as a World Heritage site this July.
This Jomon Prehistoric Sites is composed of 17 sites including Sannai-Maruyama Village in Aomori Pref., a large village having purposefully built roads and large buildings, Oyu Stone Circles in Akita Pref. where various sizes of stones are concentrically configured, and Goshono Village in Iwate Pref. where nuts having an evidence of use of fire were found. The advisory group of UNESCO highly evaluated Jomon Prehistoric Sites in Northern Japan that they have described a sedentary life without farming in the prehistoric times and a sophisticated spiritual culture, and stages of development for sedentary life and environmental adoptions.
1.Sannai-Maruyama Village
Sannai-Maruyama Village is a huge prehistoric site in Aomori City, leaving an impression of sedentary life for 1,700 years in early through mid Jomon period. The Cultural Heritage Online by Agency for Cultural Affairs of Japan is introducing it as follows,
Sannai-Maruyama Village is a huge prehistoric site in early through mid Jomon period having 35ha of area close to Aomori Bay in Aomori City. The site had been known since Edo era and it was excavated for research for building a baseball field there in 1992, and then it was found that the site had been a huge and a main village in early through mid Jomon period in Northern Tohoku and Southern Hokkaido, where pit dwellings, hole-shaped graves, buried earthenware, storage holes, a large pit facility and banking remains were purposefully built. And various remains, describing life style, jobs, interaction of people and natural environment then, were found. Therefore, it was designated as a historical site in March 1997 talking eloquently about Jomon Culture, and the buildings were restored and the remains were exhibited.
The remain of the main street and hole-shaped graves either side of it, whose road width was 12 meters and length was longer than 420 meters stretching from the center of village to the east, was found in 1997. In 1998 through 2000, the sites of graves composed of stone cercle, gravestones and hole-shaped graves, and a remain of road stretching from the center of village to this site of graves were researched. By the research they had the important clues to solve the details of village and social organization.
I visited Sannai-Maruyama Village around 10 years ago. I was overwhelmed by the great power of reconstructed large pit facilities of a height of around 15 meters and a part of pit dwellings built estimated more than 550 as well as the many exhibitions of earthenware and earthen figurines. I hlearned in school that Jomon period was the era when the people sedentarily lived to have foods based on hunting, however, as the results of excavation and research after then, it has come out that Jomon period continued more than 10,000 years with rich mental culture and matured society enjoying good harvest in forest and marine products.
2.Jomon Period
“Jomon Period” is a Japan-specific classification of historical periods. It is equivalent to the end of Paleolithic Period (2 million~10 thousand years ago), through Neolithic Period, among the classification of 4 historical periods in the world’s history such as Paleolithic Period, Neolithic Period, Bronze Age and Iron Age. The difference between Paleolithic Period and Jomon Period includes use of earthenware and bows and allows, development of polished stoneware, spread of sedentary life and pit dwellings, forming of sedentary settlements arranged in a cercle and shell mounds. The classification of historical periods of Jomon Period, continuing more than 10 thousand years, are divided to Incipient period (15 ,000~11,500 years ago), Initial period (11,500~7,000 years ago), Lower period (7,000~5,500 years ago), Middle period (5,500~4,400 years ago), Late period (4,400~3,200 years ago) and Final period (3,200~2,400 years ago).
The feature of Jomon Culture different from the others in the world is “a sedentary life under hunter-gatherer economy”. It was possible through using of rich nature brought by rapid global warming at that time. Because Jomon Culture was under undeveloped food production economy based upon hunter-gatherer economy in the ecosystem of each area in Japan Islands, Jomon Culture is distinguished from “Yayoi Culture” in Yayoi Period right after Jomon Period, which was under food production economy changing the ecosystem by rice farming.
Climate changes were experienced for more than 10,000 years in Jomon Period. The temperature in the earth from the end of Last Glacial Stage of 20,000 years ago to 6,000 years ago had been rising gradually and, in the Japan Islands, the sea level rose more than 100 meters in Jomon Incipient period through Jomon Initial period (13,000~6,000 years ago). In Jomon Incipient period, the main island named Honshu, Shikoku, Kyushu, Tanegashima, Yakushima and Tsushima of Japan Islands are adjacent each other as one large island. The 15 kilometers wide waterway was created between this large island and Korean Peninsula and significantly expanded to Tsushima Channel, the warm current of Tsushima Danryu came to flow into the Sea of Japan, areas of heavy snowfall appeared on the Japan Sea side of Japan Islands, and the forest with trees such as beeches was created due to the rich melted snow. The sea level rose 4 through 5 meters from the current called Jomon Transgression 6,000 years ago, therefore, many Jomon remains such as shell mounds are remaining in deep inland of Kanto area such as Tama area of Tokyo and Chichibu area of Saitama.
In Jomon Initial period, sedentary settlements appeared, and serious fishery and oceangoing started. In Jomon Lower period through Jomon Middle period, a typical Jomon Culture such as that in Sannai-Maruyama Village prospered. Due to Jomon Transgression by the warmer climate than the current, good fishing places increased along the coasts, it was easy to get marine products, and the flora had been changing from conifer forests to broad leaved deciduous trees such as beeches and oaks in eastern Japan and to laurel forests such as chinquapins in western Japan. In Jomon Late period, the climate changed to cooling again and the sea level moved down called “Yayoi Coastline Regression”. The tidal flats, a good fishing ground of shellfish, rapidly reduced and the shell mounts disappeared in Kanto area, the food production decreased due to the change of the flora by increase of wetlands in western Japan and Tohoku area, and so the population of Jomon people was changed to disruption and decline.
3.Jomon People-Origin of Japanese
In 2019 National Museum of Nature and Science of Japan analyzed all the genomes exacted from the tooth with human bones of Jomon women, excavated at Funadomari remains in Rebun Island of Hokkaido. It becomes known by the analysis that the group of ancestors of Jomon People had separated from the group in the continent of East Asia 38,000 through 18,000 years ago. It made clear that the percentage of genome succeeding from Jomon People to modern men was vary by area in Japan and the present generation in Honshu, mainland of Japan, took over 10% of the genome of Jomon People, however, people of Ainu in Hokkaido was the 70% and people in Okinawa was the 30%.
By a genetic analysis, it becomes known that Jomon People was descendants of various groups of ancient people groups from ancient area of Eurasia and East Asia, moving to Japan Islands. In Paleolithic Period, the race mixture had been already made among various groups in Japan Islands, then the genes from the coast of East Asia continuously flowed in and they became to the diversified groups. Jomon People had homogenized before Yayoi People intermittently came to Japan Islands from Mainland China and Korean Peninsula etc. 2,400 years ago. Time difference and regional difference on faces and figures of human bones among Jomon People were not identified, however, Yayoi Peoples varied.
In Yayoi Period, people like Jomon People itself, people physically like the groups in the Asian continent and the mixed, lived together. Jomon People and these settlers would not have come into collision but both harmonized and mixed. Modern men of Kyushu and Tohoku as well as, as I mentioned above, Ainu and Okinawa are taking over higher percentage of the genome of Jomon People, and, on the contrary, the modern men in Shikoku, Kinki and Hokuriku have the lower. It must be correct that Jomon People is origin of Japanese.
4.JUKON-Spirit of Original Japanese
The oldest earthenware is the one expected to be used 16,500 years ago. The earthenware found in Mesopotamia, birthplace of the first civilization, was made 9,600 years ago, therefore, the earthenware of Japan seems to be the oldest in the world at the moment. Takeshi Umehara, a Japanese philosopher, said “we were proud of Jomon Culture as the best culture in the world at the points of quality and quantity of the earthenware. Due to a rash of excavations of Jomon remains after World WarⅡ, we came to consider Jomon Culture as a technologically and mentally excellent culture rather than our past understanding of it.” and pointed out in his book titled “Depths of Japan – Explore Jomon & Ezo Culture” (Shueisha bunko) as follows,
“Jomon Culture had encompassed nationwide in Japan Islands and the center of the culture in Jomon Late period through Jomon Final period was Tohoku such as Aomori, however, Tohoku fell into outside of culture in Japan Islands after introducing wet-rice farming. But a shadow of pride and culture of Jomon People seems to remain somewhere in Tohoku people. For example, Tohoku is still king in the world of poems in Japan.” and he said, taking the names of poets who had close relationship with Tohoku such as Ishikawa Takuboku, Miyazawa Keiji, Tsuchii Bansui, Saito Mokichi, Shimazaki Toson and Takamura Kotaro, “People in Tohoku would have an unconscious memory to have created a superior culture 2,000 years ago. When the memory connects to the consciousness of their ruin thereafter, a precious poem would be naturally composed.”and “Not only poems as literature art but also most of the outstanding Japanese folk songs were produced in Tohoku or Kyushu.” He also said “The popular attractions of Tohoku should be the festivals after all, and the festivals would suggest the outstanding past culture of Tohoku.” and “The reason why Tohoku shows the most typical image of home for Japanese would be that Japanese know an obscure hidden secret of their soul.”
Mr. Umehara called the soul of original Japanese succeeded by modern Japanese as “JUKON”. I, viewed as a typical Tohoku people by my friends, seems to be able to become aware of JUKON.
5.Risk Management for Long-Life Company
“The Research of 100 Years Old Companies in 2020” by Nikkei BP Consulting, doing research long-life companies more than 100 and 200 years in the world by country, reported that Japan was the first ranking on the numbers of the both categories, and 41% (33,000 companies) of the 100 years old companies in the world (80,000 companies) was Japanese and 65% (1,340 companies) of the 200 years old companies in the world (2,062 companies) was Japanese as well. Moreover, 7 companies in Japan were more than 1,000 years old. The reason there are many long-life companies in Japan would come from traditional unique factors in Japan such as a physiographic factor protecting from invasion by different races, traditional thought and religious perspective not excluding alien customs and principles of business and company valuing social meaning. Many people would agree to me that “JOKON”, which has been passed among Japanese from Jomon Period, has effect to the long-life companies of Japan.
The long-life companies could survive by overcoming the so many risks for a long time. What is the most crucial point to perpetuate a company? Looking at the long-life companies on the list, I am confident that it would be, at first, self-awakening of the mission of the company. That is, it is important to create and maintain the mission of the company, which is the soul of the company and leads to “JUKON”, so the rootless companies, not awakening their “mission”, could not make long life come true.
And “an attitude with the aim of continuous innovations” would be important. Without adhering to the past successful experience, distinguishing the one that should be changed from the another that should not be changed following to the social and customers’ needs changes, they sometimes need to undauntedly change themselves. To lead to success of “the challenge to new business fields”, “Risk Management” is essential.
Summary of this issue
The ancestors of modern Japanese became to Jomon People and Yayoi People, repeatedly mixing and changing among the people coming from the maritime province of Siberia, Southeast Asia, and Korean Peninsula to Japan Islands in Paleolithic Period. The climate of Japan Islands was cold in Paleolithic Period, but it changed to warming 15,000 through 11,500 years ago and the living environment dramatically changed. Jomon Culture, characterized by “securing foods by hunting, gathering and fishing, using earthenware and bows & arrows and settling down”, bloomed. Jomon Period had continued more than 10,000 years until Yayoi Period, when the paddy rice culture started 2,300 years ago, and the modern Japanese are inheriting “JUKON” in their DNA.
To perpetuate a company, creating and maintaining clearly “the mission of the company”, which is the soul of the company, and challenging to new fields are important.
Through establishing a captive, an insurance company dedicated to its parent, and putting priority on “Risk Management”, the company risk occurring with its business could be effectively managed with lower cost stably for a long period of time. A captive may be pronounced as one of the newest tools to realize a long-life company.
Author/translator: Nobuo Sugawara