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リスク対応策 2022.10.31

RM76 「災害は忘れた頃にやってくる」

For those who prefer to read this column in English, the Japanese text is followed by a British English translation, so please scroll down to the bottom of the Japanese text.

(ロイズ(Lloyd’s of London)の内部)

大手生命保険会社の損害保険事業に関する経営コンサルティングをおこなっていたのは1997年から2009年まで、13年間の長きに渡った。新商品開発に経営コンサルティングの焦点を置くようになってからは、その必要性から、ロンドンへ、年に6回、毎回10日間ほどの出張をしていた。

6回×10日=60日、つまり13年間、ロンドンに年に2ヶ月住んでいたことになる。60日×13年=780日、総滞在日数「2年強」となる日数である。「2ヶ月に1回」であったが、時期によっては「また来月」と言って日本に帰国することもあったほど、英国、ロンドン、ロンドン保険市場(通称「ロンドンマーケット」)及びアンダーライター、ブローカー(保険仲立人)達とは、深い関係が構築できたようである。

その後、キャプティブ事業を始業してからは、キャプティブからの再保険の手配を依頼していたため、彼ら再保険ブローカー(保険仲立人)と一緒に、日本市場の連絡と報告をおこなう目的で、コロナ禍の前まで、年に数回はロンドンを訪れた。また「大きな案件」や「内容の複雑な案件」の場合、「キャプティブの構造・背景」を説明するため、再保険会社の本国本社まで出向いていた。

この期間、ロンドンに滞在している間、「会議室」を「事務所」として貸していただき大変お世話になった会社が、日本の大手総合商社傘下の「保険ブローカー(保険仲立人)」である。

米国の損害保険会社育ちの筆者を手取り足取り、「パブでの所作」から「ロンドンマーケットに於けるイロハ」を教えていただいた方がおられる。帰国され、親会社の大手総合商社の「海上保険部長」に就任されるまで同社の社長をされていた方で、同窓の先輩ということもあり、非常に親しくしていただいた。最初の海外任地「香港」に対する「愛」の強い方で、同社を定年退職された後、現在でも香港の日本商工会議所の事務局長をされていて、未だにご厚誼を賜っている。

その方から「羽谷さん、『日本と英国の架け橋』になろうとしているのなら、日本と英国との関係で是非読んだ方が良い本がありますよ」と勧められて読んだ本が、「さむらい ウィリアム」(ジャイルズ・ミルトン著 原書房刊)であった。

「ウィリアム」とは、関ケ原の戦いの半年前日本に漂着、徳川家康に気に入られて「旗本」に取りたてられ、「外交顧問」として徳川幕府に仕えた英国人、「ウィリアム・アダムズ」、日本名「三浦按針」である。この本は、彼が1600年4月豊後(現在の大分県)に漂着したところから日本で1620年に亡くなるまでの間に起きた出来事を中心に、英国、ポルトガル、オランダの商人達が大航海をおこなった際の出来事について記されている本であった。

1.セバスチャン・ビスカイノ

「さむらい ウィリアム」(ジャイルズ・ミルトン著 原書房刊)の中に次の記述がある。

コックスとニールソンが下関を発ったとたん「大地震」が起きて、建物が倒壊し、木が根こそぎ倒れた地震のあとには暴風が吹き荒れ、滝のような雨が降った。

1611年12月2日(和暦では「慶長16年10月28日」)、東北地方を襲った巨大地震、「慶長三陸地震」であった。

この頃、日本にやってきていたスペイン人の探検家が「セバスチャン・ビスカイノ」である。彼は、「ニュー・スペイン(ヌエバ・エスパーニャ)総督」の肩書きを持ち、「1609年の難破船の救済の答礼と費用弁済のため」と称して日本にやってきた。

このニュー・スペイン(ヌエバ・エスパーニャ)とは、スペインが海外統治した「領土」であり、その統治者は「スペインの副王」に任ぜられ、単なる植民地ではなく、本国と同じ権利を与えられた場所であり、統治期間は1519年から1821年まで、その範囲は北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋(フィリピン)に及ぶ広大なものであった。

2.徳川家康の洋時計

ビスカイノの目的は、キリスト教の布教交渉をすることであり、そのためビスカイノ(Sebastián Vizcaíno)は、6月江戸城で徳川秀忠に謁見。その後、8月には駿府城で存命であった家康に謁見することが許され、静岡に赴き、この際スペイン国王よりの品としてビスカイノから徳川家康へ置時計が献上された。以降、400年間「久能山東照宮」で所蔵されている。

「『久能山東照宮』ホームページ」より引用

「久能山東照宮」のホームページにはその置時計の写真が掲載され、以下のような記述がある。

重要文化財『洋時計』

久能山東照宮には、慶長16年(1611)スペイン国王フェリペ3世から海難救助のお礼として徳川家康公に贈られた洋時計が神宝として残されています。

元和2年(1616)に家康公が薨去の後、久能山東照宮に納められ、大切に保管されてきました。後に家康公の愛用した手沢品のひとつとして、国の重要文化財に指定されています

ただ、ビスカイノの要請に対しては、新興国でありプロテスタント国(新教国)であるオランダや、外交顧問となった「三浦按針」から、「カトリック国(旧教国)であるスペイン、ポルトガルは、キリストの布教を隠れ蓑にしてこれまでも世界各国で領土を拡げてきた、日本へも同様の野心を持っているのは間違いない」との情報がもたらされていた家康は、首を縦に振らなかった。

そこで、ビスカイノは「今後も同じように海難の恐れがあり貴国のためにもなる」と日本沿岸の測量を家康に願い出たところ、家康はこれを許可、朱印状を与えた。

なぜ、ニュー・スペイン(ヌエバ・エスパーニャ)総督のビスカイノが、「1609年の難破船の救済の答礼と費用弁済のため」と称して日本にやってきただろうか。「名目」は「キリスト教の布教交渉をすること」であったが、「なぜ、『今後も同じように海難の恐れがあり貴国のためにもなる』と日本沿岸の測量を家康に願い出た」のだろうか。その背景にあるのは、当時の欧米では「ジパング伝説」で有名であった「日本近海にある『金銀島』の所在を探すこと」ではなかったのではないだろうか。

また、その伝説を増幅させる新たな動きが日本であったからである。当時世界最大の金山、「佐渡金山の発見」があり、その「本格的な発掘が開始されたとの情報」を掴んでいたのであろう。

「戦国時代は日本国内の争い」と学校で習ったが、「世界」という視野で戦国時代を俯瞰すると、世界の覇権を争う国同士の戦いに日本が巻き込まれ、その影響下で日本の歴史が大きく展開を見せた時代、それが「戦国時代」と言える。

1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」、そして1614年(慶長19年)から1615年(慶長20年)の「大坂(冬・夏)の陣」、これらの背後には、世界の植民地から得る豊富な銀を背景に、当時世界最大の帝国となった「スペイン」、そしてスペインの銀の独占を切り崩したいと考えた「東インド会社」を有する新興貿易国家「オランダ」、この2国の世界の覇権争いが、当時、世界の3分の1の産出量を誇った日本の「銀」を巡って起きていた。

つまり、日本の戦国時代とは、単に徳川、豊臣の戦いではなく、世界の覇権国家が日本を舞台にして、「世界初の国際通貨」として誕生した「銀貨」を巡る争いでもあったのであり、それが、「佐渡金山」の発見によって更に大きく増幅されたのである。

3.「金銀島」

平泉の中尊寺の謂われからか、ビスカイノ率いる測量隊は、「『金銀島』を東北地方太平洋岸」と読み東北地方の太平洋沿岸の測量を始めた。

浦賀を出発、東北地方を目指して北上、11月8日仙台へ、10日には伊達政宗に謁見。その後、仙台藩沿岸の測量をしていたが、「『ビスカイノ報告』における1611年慶長奥州地震津波の記述について」(歴史地震29号 蝦名裕一・高橋裕史執筆)によると、1611年12月2日(和暦:慶長16年10月28日)、越喜来(おきらい)という漁村、現在の岩手県大船渡市三陸町の沖合で「慶長三陸地震津波」と言われる巨大な高波に3度襲われたとの記録が残っている。

海上であったため被害はなく、その後も測量を九州沿岸までおこなったが、「金銀島が日本海側にある可能性」を考えなかった彼らには「金銀島の発見」は叶わなかった。

ヌエバ・エスパーニャへの帰途でも、「金銀島」を探し続けるが発見できず、乗っていた船が暴風雨に遭遇して大破し浦賀に戻ることになり、無為のうちに1613年(慶長18年)、ルイス・ソテロ、支倉常長らの慶長遣欧使節団のサン・ファン・バウティスタ号に同乗し帰国した。

この地震からちょうど400年後、「災害を忘れた頃」、2011年、東日本大震災は同じ被災地を襲った。

4.慶長三陸地震

三陸地方では、過去、何度も巨大地震が発生している。1896年の明治三陸地震では2万人以上が亡くなり、1933年の昭和三陸地震では3千人超が死亡、あるいは行方不明となった。そして2011年3月11日にはマグニチュード9という巨大地震、「東日本大震災」が発生して甚大な被害をもたらしたのは記憶に新しい。

前述の慶長三陸地震について、5年前、2017年5月24日の「日本経済新聞」に次の報道がなされた。

慶長三陸津波はM9地震か 海底断層、最大80メートルずれ

江戸時代初期の1611年に東北地方の太平洋岸を襲った「慶長三陸津波」を起こしたのは、従来の想定より大きいマグニチュード(M)9.0の超巨大地震だったとする研究結果を、北海道大の谷岡勇市郎教授(地震学)らのチームがまとめた。東北沖で長さ250キロの海底断層が最大80メートルずれたとしている。

2011年のM9.0の東日本大震災は「想定外」といわれたが、東北沖では400年前にもM9地震があったと指摘する内容。谷岡教授は「慶長は思ったより規模の大きな地震のようだ。断層が特に大きくずれた岩手沖にはひずみがあまり残らず、東日本大震災でも大きく動かなかった可能性がある」としている。

慶長三陸津波の浸水域は東日本大震災と同程度か上回っていたとされる。ただ原因となった地震についての詳細は分からず、規模もM8.1と評価されていた。

チームは、以前東北大の研究者らが古文書などを基にまとめた慶長三陸津波に関する16地点のデータに注目。津波が▽岩手県山田町の海抜約28メートルの峠を越えた▽現在の海岸から7キロほど内陸の宮城県岩沼市の神社に到達した――などの記録に最も整合するような津波を起こすプレート境界の地震と震源断層を推計した。

その結果、地震の規模はM9.0、断層は幅約100キロ、長さ約250キロと推定。断層は北側の100キロと南側の150キロに分かれ、北側は最大80メートル、南側は40メートル程度ずれたと判断した。南側は東日本大震災の震源域で最も動いた領域と同じで、大震災では最大50メートルずれたと考えられている。

慶長三陸津波の地震は比較的揺れが弱かったとされる。断層がゆっくりとずれ、地震の規模が大きい割に揺れは弱い一方で津波が大きくなる「津波地震」に当たり、揺れが強く津波も大きい東日本大震災とは異なるタイプとされている。〔共同〕

今回のまとめ

前回投稿したコラムに次の言葉を記した。

「ノーベル賞候補」と評された世界的な物理学者、寺田寅彦の有名な言葉に、「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉がある。この言葉に由来する「災害は忘れたころにやってくる」の文字は、大阪市の桜之宮公園にある「水防碑」に刻まれている。

(「大阪市」ホームページより引用)

3月11日「東日本大震災」の日、9月1日「関東大震災」の日。これらの日を挟んで、メディアでは地震の特集がなされる。弊社、株式会社グローバル・リンクを名古屋のCBC (中部日本放送)が「地震リスクへの新たな対応策を勧める企業」として約10分間に渡って、夕方のニュース番組で特集報道されたのも2016年3月9日であった。

「災害は忘れた頃にやってくる」という言葉とともに日本人を特徴付ける言葉としてよく使われる言葉に「喉元過ぎれば熱さを忘れる」がある。

「キャプティブ」は「リスクマネジメントの手段」である。リスクマネジメントは、「常日頃、リスクを洗い出し、検証し、対応していく作業」のことである。「常にリスクと向き合う経営戦略」である。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということを発生させない手段である。

日本では求めることが難しい「世界基準の地震補償、巨額の地震保険補償」を得るというキャプティブの効用とともに、この「常日頃、リスクに接して、対応策を検討、実施する核となる」というキャプティブの別の効用にも目を向けるべきではないだろうか。間違いなく、「災害は忘れた頃にやってくる」からである。

執筆・翻訳者:羽谷 信一郎

English Translation

Risk Management (RM) 76 – “Disasters come just when you forget about them” 

I worked in management consulting for the non-life insurance business of a major life insurance company for 13 years, from 1997 to 2009.

After management consulting became focused on new product development, the need for such consulting led me to travel to London six times a year, each time for about 10 days. 6 trips x 10 days = 60 days, which means I lived in London for two months a year for 13 years. Although it was “once every two months”, I had such a close relationship with the UK, London, the London insurance market (commonly known as the “London market”), underwriters and brokers (insurance brokers) that I sometimes returned to Japan “next month” depending on the time of year.

After that, in order to “keep in touch with and report on the Japanese market” together with the reinsurance brokers (insurance brokers), I visited London several times a year until covid-19 disaster, as I had requested reinsurance arrangements from the captives, and in the case of “large cases” or “complex cases”, I also visited the reinsurance companies to explain “the structure of the captives” to the reinsurer’s head office to explain the “structure of the captive”.

During my stay in London, a company that kindly lent me a conference room as an office was an insurance broker affiliated with a major Japanese general trading company.

The author, who grew up in a non-life insurance company in the United States, was taught the “ins and outs of the London market”, from “‘how to behave in a pub” to “the ins and outs of the London market”. During my stay in London, the company that kindly lent me a conference room as an office was an ” insurance broker ” affiliated with a major Japanese general trading company.

He was the president of a company until he returned to Japan and became the general manager of the marine insurance department of the parent company, a major general trading company, and was a senior alumnus, so he was very close to me. He had a strong “love” for his first assignment, Hong Kong, and after retiring from the company, he is still the Secretary-General of the Japanese Chamber of Commerce and Industry in Hong Kong, to which I still owe a great deal of friendship.

He is still a great friend of mine. He recommended me a book called ‘William the Samurai’ by Giles Milton, published by Hara Shobo, which I read.

William” refers to William Adams, an Englishman who drifted to Japan six months before the Battle of Sekigahara, was favoured by Tokugawa Ieyasu and made a Hatamoto, and served the Tokugawa Shogunate as a diplomatic adviser. The book mainly describes the events that took place during the great voyages of the English, Portuguese and Dutch merchants from the time he drifted ashore in Bungo (present-day Oita Prefecture) in April 1600 until his death in Japan in 1620.

1. Sebastian Vizcaino.

In William the Samurai, by Giles Milton, published by Hara Shobo, there is the following account.

As soon as Cox and Neilson left Shimonoseki, there was a ‘great earthquake’, and after the quake, when the buildings collapsed and trees were uprooted, there was a storm and a cascade of rain.

It was the Keicho Sanriku Earthquake, a massive earthquake that struck the Tohoku region on 2 December 1611 (28 October 16 Keicho in the Japanese calendar).

The Spanish explorer who came to Japan at this time was Sebastião Viscaino. He held the title of ‘Governor of New Spain (Nueva España)’ and came to Japan ‘as an answer and reimbursement for the rescue of the shipwreck in 1609’. This New Spain (Nueva España) was a ‘territory’ governed overseas by Spain, whose ruler was appointed ‘Vice King of Spain’, and was not a mere colony, but a place that was given the same rights as the home country, and ruled from 1519 to 1821, covering the North American continent, the The period of its rule was from 1519 to 1821, and its territory was vast, covering the North American continent, the Caribbean Sea and the Pacific Ocean (the Philippines).

2. The western clock of Ieyasu Tokugawa

Vizcaíno’s aim was to negotiate the spread of Christianity, and to this end Sebastián Vizcaíno was granted an audience with Hidetada Tokugawa at Edo Castle in June. Later, in August, he was granted an audience with Ieyasu, who was still alive, at Sunpu Castle and went to Shizuoka, where Vizcaíno presented Ieyasu Tokugawa with a clock as a gift from the King of Spain. The clock has been kept at Kunouzan Toshogu Shrine for the next 400 years.

The Kunouzan Toshogu website includes a photograph of the clock and the following description.

Important cultural property ‘Western clock’.

A Western-style clock presented to Prince Tokugawa Ieyasu by King Felipe III of Spain in 1611 as a gift of thanks for his rescue at sea has been preserved as a sacred treasure at Kunozan Toshogu.

After Ieyasu’s death in 1616 (Genna 2), the clock was placed in the Kunozan Toshogu shrine and has been carefully preserved. It was later designated a National Important Cultural Property as one of Lord Ieyasu’s favourite hand tools.

However, Ieyasu did not shake his head when information was brought to him from the Netherlands, a newly emerging and Protestant (New Church) country, about “the ambition for territorial expansion that the Catholic (Old Church) countries of Spain and Portugal had behind the missionary work of Christ”.

Vizcaino therefore asked Ieyasu for a survey of the Japanese coast, saying that it would be in the interest of your country to do the same in the future due to the same threat of maritime disaster, and Ieyasu granted his request and gave him a red seal.

Why did Vizcaino, Governor of New Spain (Nueva España), come to Japan under the guise of “repaying for the relief of the shipwreck in 1609 and reimbursement of expenses”?

The “name” was “to negotiate for Christian missionary work”, but “why did he ask Ieyasu to survey the coast of Japan, saying that ‘it would be in the interest of your country to do the same in the future, as there is a fear of similar maritime disasters”?

The reason behind this may have been “to find the location of the ‘Gold and Silver Islands’ in the seas around Japan”, which were famous in the West at the time for the “Zipangu Legend”. Furthermore, there was a new movement in Japan that amplified the legend. The discovery of the Sado Gold Mine, the largest gold mine in the world at the time, and the start of its full-scale excavation.

We learnt in school that the Warring States period was a period of conflict within Japan, but if we look at the Warring States period from a global perspective, we can see that Japan was involved in a war between countries vying for supremacy in the world, and that under the influence of this war, Japanese history took a major turn.

The “Battle of Sekigahara” in 1600 and the “Battle of Osaka (Winter/Summer)”from 1614 to 1615, were backed by “Spain”, which became the world’s largest empire at the time, backed by an abundance of silver from its colonies around the world, and “East India”, which wanted to break Spain’s silver monopoly. The Dutch, a newly emerging trading nation with the East India Company, wanted to break Spain’s silver monopoly, and these two countries were fighting for world supremacy over Japan’s silver, which at the time produced a third of the world’s silver.

In other words, the Warring States period in Japan was not simply a battle between Tokugawa and Toyotomi, but also a struggle over the ‘silver coinage’, which was created as the ‘world’s first international currency’ by the world’s hegemonic nations with Japan as the stage. This was greatly amplified by the discovery of the “Sado Gold Mine”.

3. “Kingin Jima (Gold and Silver Islands) “.

Perhaps because of the legend of Chuson-ji in Hiraizumi, the surveying party led by Vizcaino began surveying the coast of Japan, reading the “‘ Golden and Silver Islands’ as the Pacific coast of the Tohoku Region”.

Departing from Uraga, they headed northwards towards the Northeast and reached Sendai on 8 November, where they had an audience with Date Masamune on 10 November. Thereafter, he surveyed the coast of the Sendai clan, and according to “On the description of the 1611 Keicho Oshu Earthquake and Tsunami in the ‘Vizcaino Report'” (History Seismological Table No. 29, written by Yuichi Yeonna and Hiroshi Takahashi), on 2 December 1611 (Japanese calendar: 28 October Keicho 16), a fishing village called Okirai, now Iwate Prefecture According to a record, on 2 December 1611 (28 October 16), the fishing village of Okirai, now Sanriku-cho, Ofunato City, Iwate Prefecture, was hit three times by a huge tidal wave known as the ” Keicho Sanriku Earthquake Tsunami”.

The boat was at sea, so there was no damage, and although they continued surveying as far as the coast of Kyushu, they were unable to “discover” Kingin jima because they did not consider “the possibility of Kingin jima being on the Sea of Japan side”.

On their way back to Nueva España, they continued to search for the ‘Gold and Silver Islands’ but were unable to find them, and the ship they were on was wrecked in a storm, forcing them to return to Uraga, where they returned in 1613 on board the San Juan Bautista of the Keicho Mission to Europe, including Luis Sotero and Tsunenaga Shikura, in vain. Exactly 400 years after this earthquake, the Great East Japan Earthquake of 2011 struck the same disaster area.

4.Keicho Sanriku Earthquake

The Sanriku region has been hit by several major earthquakes in the past: the 1896 Meiji Sanriku Earthquake killed more than 20 000 people, and the 1933 Showa Sanriku Earthquake killed or left more than 3 000 people missing. And it is still fresh in the memory that on 11 March 2011, a massive earthquake measuring 9 on the Richter scale, the Great East Japan Earthquake, occurred and caused extensive damage.

The following report on the aforementioned Keicho Sanriku earthquake was published five years ago, on 24 May 2017, in the Nihon Keizai Shimbun.

Keicho Sanriku tsunami was M9 earthquake or submarine fault shifted by up to 80 metres.

A research team led by Professor Yuichiro Tanioka, professor of seismology at Hokkaido University, has concluded that the Keicho Sanriku tsunami that hit the Pacific coast of the Tohoku region in 1611 in the early Edo period was caused by a super-giant earthquake with a magnitude (M) of 9.0, which is larger than previously assumed. The team states that a 250-kilometre-long submarine fault off the coast of Tohoku shifted by up to 80 metres.

The 2011 M9.0 Great East Japan Earthquake was said to be “unexpected”, but the report points out that there was an M9 earthquake off the coast of Tohoku 400 years ago. Professor Tanioka said: ‘Keicho seems to be a bigger earthquake than expected. There is a possibility that the Great East Japan Earthquake did not move significantly because there was not much strain left off the coast of Iwate, where the fault was shifted particularly significantly”.

The inundation area of the Keicho Sanriku tsunami is said to have been the same or larger than that of the Great East Japan Earthquake. However, details of the earthquake that caused it are not known, and its magnitude was assessed as M8.1.

The team looked at data from 16 points related to the Keicho Sanriku tsunami, which had previously been compiled by researchers at Tohoku University based on ancient documents and other sources. The team estimated the plate boundary earthquakes and epicentre faults that caused tsunamis most consistent with the following records: – The tsunami crossed a mountain pass in Yamada, Iwate Prefecture, about 28 metres above sea level; – The tsunami reached a shrine in Iwanuma, Miyagi Prefecture, about 7 km inland from the present coast.

As a result, the magnitude of the earthquake was estimated to be M9.0 and the fault to be about 100 km wide and 250 km long. The fault was divided into 100 km on the north side and 150 km on the south side, and it was determined that the north side was displaced by up to 80 metres and the south side by about 40 metres. The southern side is the same area that moved the most in the epicentre of the Great East Japan Earthquake, and is thought to have shifted by up to 50 metres in the earthquake.

The Keicho Sanriku tsunami earthquake is believed to have had relatively weak shaking. The Keicho Sanriku Tsunami earthquake is considered to be a ‘tsunami earthquake’, in which the fault slowly shifts, and while the shaking is weak for an earthquake of this magnitude, the tsunami is large, making it a different type of earthquake from the Great East Japan Earthquake, which had strong shaking and a large tsunami. [Kyodo].

Summary of this issue

In my last column, I wrote the following words.

The world-renowned physicist Torahiko Terada, who was described as a “Nobel Prize candidate”, famously said that “natural disasters come when we forget them”. The words “Disasters come when we forget them”, derived from this saying, are inscribed on the Flood Prevention Monument in Sakuranomiya Park in Osaka City.”

11 March ‘Great East Japan Earthquake’ day and 1 September ‘Great Kanto Earthquake’ day. These days are marked by special features on earthquakes in the media. On 9 March 2016, CBC (Chubu-Nippon Broadcasting Co., Ltd.) in Nagoya featured our company in an evening news programme for about 10 minutes as a company that recommends new measures to cope with earthquake risks.

The phrase ‘disaster strikes when you forget’ is often used to characterise the Japanese people, along with the phrase ‘forget the heat when it passes your throat’.

Captive” is a “risk management tool”. Risk management is “the process of identifying, verifying and responding to risks on a daily basis”. It is “a management strategy that constantly faces risks.” It is a means of preventing the occurrence of the “forgetting the heat when the throat is dry”.

In addition to the benefits of captives in terms of obtaining large earthquake insurance compensation, which is difficult to obtain in Japan, we should also look at the other benefit of captives, which is that they become a nucleus for considering and implementing measures to deal with risk on a daily basis. This is because “disaster strikes when we have forgotten about it”.

Author/translator: Shinichiro Hatani