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リスク対応策 2020.02.05

リスクマネジメント 5 ーエネルギーの変革(環境保険)


「帝政ロシア」を終焉に導いたのは、ロシアの敗戦に終わった「日露戦争」であったが、その戦いの帰趨を制したのは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に描かれている、1905年5月の「日本海海戦」であった。日本の連合艦隊が、当時世界最強と言われたロシア・バルチック艦隊の艦艇のほぼ全てを損失させながらも、自陣の被害は小艦艇数隻のみという、海戦史上稀に見る大勝利を収めたものである。

この完膚なきまでの勝利は、戦いを指導したロシア皇帝への大きな反旗となり、1917年のロシア革命の大きな引き金になった。

1.バルチック艦隊

当時の米国大統領、セオドア・ルーズベルトが感銘を受け、その英訳文を全軍の将兵に配布した、連合艦隊参謀 秋山真之が筆をとったのが「聯合艦隊解散之辞」である。そのなかに、「百發百中ノ一砲能ク百發一中ノ敵砲百門ニ對抗シ得ルヲ覺ラバ(百発百中の砲一門は百発一中、いうなれば百発打っても一発しか当たらないような砲の百門と対抗することができる)」とあるが、そういう兵の練度、また参謀秋山真之の戦略、東郷平八郎の指揮、これらによって大勝利となったとされることが多い。しかし、筆者は「もしこの日本海海戦が明治ではなく、昭和に起きていたら、結果はそうなっていなかったであろう」と考えている。

ロシア北方バルト海に拠点を置いた「バルチック艦隊」が母港を出港したのは、10月15日、日本海海戦は翌年1905年5月27日であった。実に7か月に及ぶ長期航海である。長期になった理由は、一つには、途中通過すべきスエズ運河が、当時は1万トン以上の艦船は通れず、主力戦艦のうち5隻と装甲巡洋艦のうち2隻は、遠くアフリカの最南端、喜望峰へ向かいアフリカ大陸を大きく廻る航路を取らざるをえなかったからである。

明治から、大正、昭和に時代が進む過程で「エネルギー革命」が起き、船の燃料が、石炭から石油に変わったが、当時は石炭が燃料であった。このため、速力の遅い「石炭輸送船」をともなわざるを得なかったからであり、さらには、長期航海のため、主力艦の艦内至る所にも石炭が満載され、乗船させるべき兵員及び弾薬、物資を削減せざるえない状態となっていたことが、ロシア側の戦いを不利にさせた理由の一つである。

2.ドッガーバンク事件

次に、バルチック艦隊は、出港から6日後、10月21日北海で早々と、後にボディーブローのように、「艦隊の運命」を決めていくことになる問題を起こした。英国の漁船を、日本の水雷艇と誤認、撃沈したのである。

日英同盟を結んでいたが、積極的に日本を支援しようとする動きは見られなかった英国であったが、「トラファルガー海戦記念日」に発生したこの事件によって、英国世論は激高、多くの群衆がトラファルガー広場に集まり、「ロシアに対して断固たる措置を取るよう」に要求するデモがおこなわれ、新聞は、バルチック艦隊を「海賊」「狂犬」と書き立て、国王エドワード7世も「最も卑怯な暴行事件である」と非難した。

この結果、バルチック艦隊は「当時、アフリカにあった英国のすべての植民地の港への入港を拒否されること」になった。一方、日本の株は上がったが、この事件で死亡した漁師の葬儀が行われた日、時機を失せず、東京市長尾崎行雄が弔電を送ったことによって、「日本を支援する世論」がさらに強くなった。英国海軍は、バルチック艦隊に対して巡洋艦隊を差し向け、スペインまで追尾させ、さらに英国政府はスペイン政府に対して、「バルチック艦隊へ、石炭はおろか真水さえも供給するならば、中立違反と考える」との警告文さえ送ったのである。

また、当時、船の主力燃料であり、英国が供給の大部分を支配していた「無煙炭」の補給も拒否された。これらの結果、バルチック艦隊が、日本海に到着した頃には、満足な補給も保養もなかった乗組員は相当に疲弊しきっていたと言われている。また、この無煙炭の補給途絶により、日本海海戦時には「数ノット船足が落ちた」とも言われ、これらが「日本が一方的な戦果を挙げた背景」であるが、もし、燃料が石油であればそうはなっていなかったであろう。

3.石油汚染と保険

石炭は「流出事故」を起こすことはないが、石油は、世界的にしばしば流出事故を起こして環境に大きな影響を与えている。昨年、2019年12月16日、英国に本社を置くエネルギー関連事業を展開する多国籍企業、いわゆる「国際石油資本」の一社、「A社」が、「同社のアラスカの事業部門に関して、2014年1月から2019年1月までの間、危険物の取扱に関して、適切かつ十分な補償額を有した保険に加入していなかったことが判明したため、125,100ドルの罰金をまず支払うことになった」と米国環境保護庁が発表した。

A社は、2005年米国の製油所で、15名が死亡、170名以上が負傷するという大事故を発生させ、米国労働安全衛生局からは、記録的な高額の罰金、8460万ドルを科された。さらに、2009年にも、「2005年の事故後も安全上の配慮に欠ける行為を継続させている」として、さらに高額の罰金が科された。

しかし、その後も、さらに大きな事故、2010年「メキシコ湾原油流出事故」を発生させた。「補償と損害回復のため200億ドルを拠出すること」で、米国オバマ大統領と合意したが、その履行に関して、米司法省、環境保護庁、運輸省から、さらに民事訴訟を提起され、2011年、環境保全のために6000万ドル、民事損害賠償金として2500万ドル、それぞれを支払うこととなった。これらの資金の捻出のため、2005年に事故を起こした製油所を2013年、25億ドルで売却した。米国の環境保護団体の発表した報告書では、「500件のハイリスク・インシデントの15%で、エンジニアリング情報が不適切に管理され、使用され、そのことが原因で起きている」とレポートされている。

石油は、環境汚染に繋がる流出事故が起きやすいものである。そのため、他業種よりも遥かに厳格かつ細部に渡るリスクマネジメントをしていかなければならない業種であるが、これほど頻繁に「大事故が起きている」ということは、「リスクマネジメントが企業戦略と一体化していないというところから来ている」と考えざるを得ない。「リスクマネジメントはリスクマネジメント」と位置づけ、「リスクマネジメントに関して、企業戦略の中心である経営陣の関与が非常に薄い企業である」と考える。だからこそ、事故が起き続け、さらには「適正な保険を掛けているかどうかまで調査され、そうでない場合には、罰金を課せられる企業」となっているのではと考えさせられるニュースであった。

4. 環境汚染賠償責任保険

企業が、環境汚染に関する損害賠償責任を負った場合に補償する保険に「環境汚染賠償責任保険」がある、環境汚染事故に加え、長期にわたって拡大した汚染に起因して、第三者賠償や行政命令による汚染浄化費用等を補償する保険である。被保険者が賠償責任を負担する場合、「損害賠償金」及び「費用:損害防止軽減費用、争訟費用他」を補償するものである。

単に保険を掛けるだけではなく、「その前に、環境汚染に繋がるようなリスクを有しているかどうかを調査する保険」であり、いわば企業の「環境汚染健康診断」とでもいう保険であり、事故損害防止に役立つ保険設計となっている。

日本に導入されたのは1993年、筆者が、当時導入した損害保険会社の部門責任者として、一般財団法人 日本品質保証機構(略称 JQA)主催のJQA環境セミナー「今後の企業経営における環境リスクと防御策」等で講演、普及活動に努めた保険でもある。

今回のまとめ

「リスクマネジメントは企業戦略と一体でなければならない」とグローバル・リンクは言い続けてきたが、前述の「英国に本社を置くエネルギー関連事業を展開する多国籍企業」に関する報道は、そのことを改めて考えさせられたニュースであった。彼らは「国際石油資本」の一社である、間違いなくキャプティブは有しているはずである。

にもかかわらず、なぜこのような重大インシデント、事故、大事故が起き続けているのか、その理由は、「リスクマネジメントが、コスト部門と考えられている保険部門だけの業務になっていて経営陣の関与が薄いから」ではないだろうか。

リスクマネジメントが「経営のレベル」になれば、「Turning Risk to Profit®の発想が必ず出て、結果、ソリューション・キャプティブ®の設立」となる。まさに、ソリューション・キャプティブ®の重要性が判明した事象であったと考えさせられたニュースであった